1. 色付く花は摘み取られて(3)




 背中のファスナーを下ろす音だけが部屋に響く。何の情緒もなく行われる作業にちりちりと胸が痛みを訴える。しかし同時に、ひどく身勝手だと呆れる声が耳の奥から聞こえてくる。
 パーティ会場となっているホテルの上階、窓から見える夜景は空に輝く星々に負けず劣らず美しい。けれど私もダイゴさんも夜景には一切目を向けず、かと言って互いに視線を合わせる事もしない。ただ情事を行う為の準備だけを淡々と進めていく。
 私の愚かな願いを深く追及もせず聞き入れたダイゴさんは、慣れた手つきでドレスのファスナーを下ろすと私をベッドへ押し倒した。ひどく乱暴な手つきだった。思わずシーツから顔を上げれば無機質な視線が私を見下ろしていた。どくん、心臓が嫌な音を立てる。
 この人は女性の裸を見ても何の心の揺れも生じないのか。感情はどうであれ、本能的で生理的な興奮すら感じられない。ぞわり、心が縮み上がる。それ程まで彼の視線は冷たく、刺々しいものだった。
「分かっていると思うけど、こんな事で絆されたりはしないよ」
 ダイゴさんが両手の指輪を外し、サイドテーブルに落とす。すでに脱いだジャケットは乱雑に椅子の背もたれに引っ掛けられ、その上には解いたタイも掛かっている。ベストのボタンを全て外してから、シャツのボタンを二つだけ外す。
「さっさと終わらせよう」
 覆いかぶさったダイゴさんは、私の顔には一瞬たりとも目を向けず、情緒も雰囲気も無視して私の下着を剥ぐ。それが嫌に慣れていて、慣れる程女性を抱いているのだと気付いてしまった。相手は特定の誰かなのか、或いは私のような一夜限りの関係なのかは分からない。それでも、近寄る女性を尽く跳ね除ける彼が女性慣れしているのは確かだ。
 私が半ば自暴自棄になって頼んだ願いを、何の苦労も覚悟もせずに手に入れられる人物がいる。その事実が、心の柔らかい部分を深く抉る。じわり、視界が滲む。
「……いくらボクでも怯えて震える女を抱く趣味は、流石に持ち合わせてないよ」
 ダイゴさんが体を起こして溜め息を吐く。呆れた視線が私を見下ろしている。
 指摘されて気付いた震え。決死の覚悟の言葉とは裏腹に、体はこの行為を拒絶しようとしている。
 全ての情事に愛が伴うなんて夢からはとうに覚めている。けれど一片の好意も感じない瞳は、奥底に隠れていた幼い少女のような無垢な心を震え上がらせた。
 今さら何に怖気付いているのだろう。震えを抑えようとしても体は言う事を聞いてくれない。焦れば焦る程震えは酷くなり、うんざりした瞳に恐怖を覚える。
 ごめんなさい、咄嗟に掠れる声で謝罪の言葉を口にしても「ボクはどっちでもいいから」ダイゴさんは変わらず呆れた顔で、心配なんてしてくれる筈もない。彼にとって私の存在は何の価値もないと言われているようで心臓がきりきりと痛い。
「無理しなくていいよ。どうせきみも親に丸め込まれてボクと関係を持つように言われたんだろう? 何度でも言うよ、それは無駄な事だ。何があってもボクは、きみと付き合うことは、ない」
 焦りと不安と恐怖が知らず知らずの内に私を追い詰めていた。だから相手が恋焦がれた相手である事も、無理を通してこの場を作ってもらった事も忘れて、ベッドに肘を突いて僅かに体を持ち上げると叫ぶように大声で否定した。
「ちがっ、違います!」
 私が張り上げた声は、面倒そうに首を掻き息を吐いたダイゴさんの視線をこちらに向ける力は持っていた。長い睫毛を揺らし、瞬きを繰り返した眼差しが私を睨む。
 視線が痛い。ぐさりと心に突き刺さる。それでも私は怯まなかった。一度噴出した言葉と感情は、水が川を流れるように流れ落ちていく。
 今ここにいるのは私の意思だった。誰でもない、私が恋をしたから此処にいる。
 三度挨拶をして、この恋に未来はないと気付いていた。けれど諦めの悪い心が最後に一度だけ思い出を作りたがった。それがあの言葉だった。そしてその思い出を胸に前へと歩き出すつもりだった。でもダイゴさんがそれ程まで私を否定するなら、黙ってなどいられない。
「あなたがポケモンに向ける優しい眼差しが好きでした。バトルで見せる真剣な目も、トレーナーへ向ける穏やかな瞳も、好きでした」
 胸に秘めたまま終わる筈だった恋が、この期に及んで気付いてほしいと声を枯らす。
「この気持ちは嘘なんかじゃ、ない」
 気付けば体の震えは止まっていた。


 少しの沈黙が私の熱を冷ましていく。徐々に冷静になる頭が、今し方の愚行を悔いていた。これでは彼に擦り寄る女性達と何も変わらない。
 余計な事は言わず、綺麗に終わらせようと思っていたのに。きゅっと結んだ唇が後悔に歪む。
 ダイゴさんは眉間に皺を寄せ、私を見下ろしている。視線が絡むと僅かに瞳が大きくなり、ふいと視線が逸らされた。長い睫毛が薄氷より儚い瞳を覆い隠し、私からは彼が今何を思っているのか見えなくなる。ダイゴさんの次の言葉が、恐ろしい。
「分かった」
 ベッドが僅かに軋む。小さく沈んだかと思うとシーツの海に凪が訪れた。立ち上がったダイゴさんは、何故か冷ややかな視線を消していた。
 辺りを見渡したダイゴさんは、やがて何かを見付けて足をソファへと向ける。ソファには私のバッグが投げ捨ててある。
 何をするのだろう。体を起こして見ていると、パチンと小気味良い音を立ててバッグを開け、中からポケナビを取り出した。ダイゴさんがこちらを向く。
「ロック外して」
 ポケナビが目の前に差し出される。有無を言わさぬ雰囲気に、言われるがままロックを外した。ポケナビは再びダイゴさんの手の中に収まる。
 一体何を。私からは画面が見えず、何をしているか分からない。ダイゴさんの指が画面をタップする小さな音が断続的に聞こえてくる。何かを入力している、分かるのはそれだけだった。
「はい」
 返されたポケナビの画面には、見覚えのない連絡先が表示されている。登録名はツワブキ・ダイゴ、大きく表示された文字の羅列は彼の連絡先だ。これは一体どういう事なの。思いもよらない展開に、助けを請うようにダイゴさんを見上げた。
「ボクはきみの事を何も知らない。それなのにこのまま済ませてしまうなんて……、少し、フェアじゃないと思っただけだよ」
 返された眼差しは、こんな馬鹿げたお願いをしてしまう程に恋焦がれた眼差しだった。柔らかく、暖かい、ホウエンに降り注ぐ陽光のような眼差し。私には決して向けられる筈のない、彼の本質を表すような瞳。なんて愛おしくて、なんて苦しいんだろう。
「そうだ、きみの名前、何だっけ」
 スラックスのポケットから取り出されたポケナビはわたしのとは違ってデボン製の最新型だ。最近よくCMを見るから覚えている。私も買い換えようかな、状況を受け入れきれない頭がどうでもいい事を考える。
「{{kanaName}}、です」
「……そう、きみによく似合ってる」
 登録を終えたダイゴさんは「じゃあまた連絡するよ」そう言って手早く服を整えると何も言わずに部屋を後にした。広いホテルの一室に私ひとりが残される。
 手の中のポケナビに視線を落とす。今日で終わる筈だったのに。私は安堵とも何とも言えない息を吐くとシーツの海へ身を投げた。


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