午後のポケモンセンター前は多くの人で賑わっていた。私は壁に設置された電光掲示板の前で通り過ぎる人に目を向けながら、約束の時間になるのを待っている。
約束の十四時まであと五分、心臓はいつもより速く動くのに、時計の針は遅々として進まない。
気晴らしに後ろの電光掲示板に目を向ける。天気や星占いが流れていて、今日の運勢は可もなく不可もなくといったところだった。素直になろうともある。でもそれは難しい気がする、光で出来た文字に首を振った。
一ヶ月も待たされ、しかもつれない連絡だったのに、それでも私は舞い上がっていた。遠くから見ているだけだった人と、可能性は全くないとはいえ、二人で過ごす機会を得てしまったのだ、舞い上がるなと言う方が無理な話だ。
落ち着かない手が髪を指に巻き付けては解くを繰り返す。せわしなく動く瞳は通り過ぎる人を追い掛ける。早く来て。やっぱりまだ来ないで。心はまるでシーソーだ。
「もう来てたんだ」
不意に背後から声がした。驚いて振り返るとすぐ目の前にダイゴさんが立っていた。手を伸ばせば簡単に触れてしまえる距離に、緊張も相まって思わず一歩後ずさると、踵を壁にぶつけてしまった。その鈍い痛みがこれは現実だと知らしめる。
私は飛び出て来そうな心臓を押さえ込んで挨拶を絞り出す。けれど、からからに乾いた喉からは掠れた声しか出なかった。なんてみっともないのだろう、時間を巻き戻せるならやり直したい。でも、時計の針は前にしか進まない。
ダイゴさんは眉間に皺を寄せたかと思えば、「行こうか」と私から視線を外す。その逸らされた視線が胸を刺す。
一瞬だけ絡んだ視線は、怒気を含んでいた。きっと私のにやけた顔が怒らせてしまったのだ。何を勘違いしているんだ、と。ふわふわ浮き立っていた心はぐしゃりと地面へ撃墜して、淡い期待は見事に砕け散る。
でも、それで良かったのかもしれない。いたずらに期待するよりは、心は随分楽になりそうだ。この一ヶ月を思い返しながら、悲しくて悲鳴を上げる心をあやす。
どれだけ楽しい時間を過ごしても次に繋がらない。この先にあるのは恋を終わらせる為の情事だけ、期待すればする程虚しくなる。そもそも昨日の連絡で既に分かり切っていた事だ。今さら改めて落ち込むなんて疲れるだけ、愚者がする事だ。
そんな言葉で自分を納得させ「はい」と返事する。ダイゴさんは何も言わず歩き出した。
行き先を示す事なく歩くダイゴさんの後ろをついて行く。背中に目でも付いているのかと疑いたくなる程、私達の距離は一定を保っている。
この微妙な距離は、今の私達の関係を表したようだ。赤の他人よりは近くて、友人よりは遠く、決して距離は縮まらない。私が早足になる事はなく、ダイゴさんが足を止める事もない。曖昧な距離のまま、時間だけが過ぎていく。
しばらく黙って歩いていたら、街外れまでやって来た。この先は121番道路しかない。
私のように普段ポケモンを連れ歩かない一般人にとって、街と街を繋ぐ道路は危険に満ちている。舗装された道路なら兎も角、此処のように草が生い茂って道と呼ぶには少し躊躇いのある場所は、決して一人で歩いてはいけない場所だ。
今私は一匹だけポケモンを持っている。けれど彼――チルタリスは移動用のレンタルポケモンで、自分のポケモンではない。もし草むらから野生のポケモンが飛び出して来たら、私は逃げる事しか出来ない。
この事は伝えないと。私は前を歩くダイゴさんの背中を睨む。ミナモシティに着いてからろくに使っていない喉はひどく不調で、もうしばらく休みたがっていたけれど、無理やり叩き起してダイゴさんへ声を掛けた。
「ダイゴさん、私、ポケモンは連れていなくて、」
「でもきみ……。ああ、そういう事か」
振り返ってこちらへ向いた瞳はすぐに興味を失って逸らされる。どうすればあの瞳を繋ぎ止められるのか、私には分からない。分かる機会もきっとない。
「ここは人も多いから野生ポケモンも滅多に飛び出して来ない。それでも心配なら」
再びこちらを見たダイゴさんはしかし、私の背後を注視する。倣うように振り返ると好戦的な瞳の青年が立っていた。腰には六つのボールが並んでいる。
目が合ったらポケモン勝負、青年はダイゴさんへ躊躇う事なくバトルを申し込んだ。
青年は対面している彼が何者か知っているのだろうか。非公式でもチャンピオンと戦える機会に思わず声を掛けたのか、或いは何も知らず、ただ彼の腰のボールを目敏く見つけてバトルを申し込んだのか。どちらにせよ、青年は了承を得た前提でルールなどを早口で取り決めていく。
自分ではバトルをした事は勿論、育てた事すらなかったけれど、バトルを見るのは嫌いではなかった。むしろ、ダイゴさんのバトルを間近で見られるチャンスに、つい先程までルネの海より深く沈んでいた心が急浮上を始め、えんとつ山も見下ろせそうだ。
だから「悪いね、今は時間がないんだ」と青年に食い下がる余地も与えずきっぱり断るダイゴさんを少し、いや、とても残念に思った。
がっくり肩を落とす青年を見ていられず、さっさと歩き始めたダイゴさんへ小走りで駆け寄ると、私に構わずバトルして下さいと頼んだ。意気揚々と声を掛けた彼が気の毒であったし、何より遠慮されるのも申し訳なかった。
ところがダイゴさんは苛立った顔を隠しもせず、うんざりとした様子でわざとらしく溜め息を吐くと、私を睨み付けて言い放つ。
「どうして今ボクが此処にいるか分かるかい? きみの為に、わざわざ時間を作ったからだ。きみの下らない願い事を叶えてあげる為に。ボクは暇じゃないんだ、分かったならさっさと歩いてくれないかな」
言ってからもう一度溜め息を吐いて、ダイゴさんは僅かに歩調を速めた。あっという間に、背中が遠くなる。
泣きたくなった。ほんの少しでもダイゴさんに関心を持ってもらえたから今日の約束があったのだと、心の奥で期待していた。
でもそれは大きな勘違いだった。ダイゴさんにとって今日の約束も私という存在も、煩わしい以外の何でもない。
ダイゴさんは責任感の強い人だから、あの夜先延ばしにした頼みを無下に出来ないだけなのだろう。或いは、考えたくはないけれど、後腐れなく抱ける女として呼ばれたのかもしれない。彼も立派な男性で、相手が欲しくなる事があってもおかしくない。
ならばさっさと終わらせてしまいたかった。今からでも街に引き返して適当なホテルへ入ってしまいたい。昼間から情事に耽って、日が落ちる頃には他人となって別れたらいい。彼が今から何をしたいのか知らないけれど、この物語の結末は決まっている。途中を省略してさっさとエンディングを迎えてしまえばいい。そうだ、そうしよう、私は意を決して口を開く。
「そういえばきみ、ポロックは残ってるかい」
立ち止まり振り返ったダイゴさんは、いつの間に苛立ちを捨てたのだろう、人の良さそうな柔和な笑みを浮かべていた。尤もそれはパーティでよく目にする表情で、本心から笑顔になっているのではない。無駄な軋轢を生まない為の処世術のひとつだ。
そうだと気付いても、自分に向けられる笑みに思考が停止する。決死の覚悟の言葉も、風が砂を拐うように一瞬にして私の中からなくなってしまう。今にも零れそうだった涙も引っ込んでいる。
だってそうじゃない。ダイゴさんは怒りを露わにしたばかりで、私は情緒のない要求をしようとしていたのだ。そんなところへ笑顔でポロックと言われて、どうすれば思考を止めずにいられるだろう。
返事をしない私に、ダイゴさんは不審がって眉を顰める。痛みを感じる視線に、急いでバッグの中のポロックケースを差し出す。その手は僅かに震えてしまっていた。
「それだけあれば充分かな」
笑顔を引っ込めたダイゴさんが小さく頷く。ポロックを一体誰に与えるのだろう。彼のポケットに仕舞われるケースを目で追いながら、まだ上手く動かない頭に疑問符を浮かべる。
しかしその疑問はすぐに解決する。ダイゴさんが再び立ち止まった場所、その後ろに聳える建物が目に入る。サファリゾーンだ。
サファリゾーンでは、ホウエンでは珍しいポケモンが生息地に近い環境で暮らし、その姿を間近で見たり捕獲する事が可能だ。だからトレーナーから親子連れまで様々な人で毎日賑わっている。
入口で貰ったパンフレットを広げながら、ダイゴさんが首を傾げている。私は吐き出し損ねた欲塗れの言葉を再び喉へと用意しつつも、長閑な空気にすっかりその気を失っていた。偶にはサファリゾーンも悪くはない、と明後日な事すら考えている。
私達のすぐ傍に、同じように園内マップを眺めて楽しげに会話を弾ませる家族の姿があった。他にも、捕まえた数を競おうとはしゃぐトレーナーや、ポロック置き場に近付くドードーを少し離れた場所から見守る少年達、間違えて踏ん付けたナゾノクサを捕まえようとボールを握る少女も見えた。みんな楽しそうな顔をしていて、私の頬も徐々に緩んでいく。
けれど、隣に立つダイゴさんは冷めた顔をしていた。先程見せた笑顔はどこへ消えてしまったのだろう。そもそもあの笑顔は一体何だったのだろうか。分からない。何も、分からない。
私に興味のないダイゴさんと、その彼の顔色を窺って一喜一憂する私。サファリゾーンはとても楽しげなのに、気持ちは重たくなるばかり。ダイゴさんが何を思って此処へ来たのか分からないけれど、こんな状態では何をしても上手くいく筈がない。
来園者の賑やかで楽しそうな声が耳に刺さる。天気だって良いのに此処だけ気温が低くて寒い。やっぱりこんな無意味な時間を過ごすよりさっさと「ナゾナゾ」終わらせてもらう方が「ナゾ、」私もダイゴさんも――
「ナゾッ」
足元が騒がしい。視線を下げる。濃い緑の葉っぱを左右に揺らし、私を見上げる赤いつぶらな瞳と目が合った。ぴょん、ナゾノクサが跳ねる。
「う、わっ」
驚いて、思わず声が裏返った。逃げるように後ずさるとしかし、ナゾノクサはその分だけ近付いてくる。数歩、そんな追いかけっこをして、気付けばダイゴさんの背中に逃げていた。
「この子はポロックが欲しいんだよ」
言って小さく溜め息を吐いて、ダイゴさんが先程取ったポロックケースを私に向ける。手を出してと言われ、こわごわと手の平を差し出してポロックを一粒受け取った。足元のナゾノクサが嬉しそうに飛び跳ねている。でも、私の体は石像のように固まって動けない。
足元のナゾノクサはどう見ても無害で、おまけに隣にはチャンピオンまでいるのだ、危ない事なんて何もない。けれど私はポロック一つすら渡せない。私が何の不安もなく触れ合えるのは、何度も借りて今日も此処まで乗せてもらったチルタリスだけだ。
「こうやるんだよ」
ダイゴさんがケースからもう一粒取り出して躊躇なく地面に膝をつくと、ナゾノクサにポロックを差し出した。口元にはうっすら微笑みが浮かんでいる。私には向けられる事のない、自然な笑顔だった。
ナゾノクサは頭の葉っぱを器用に使ってポロックを掴むと、ぱくりと一口に食べた。
「美味しいかい?」
葉っぱを揺らし、その場でくるんと一回転したナゾノクサが一段と高い声で鳴く。こちらも嬉しそうに笑っている。
「よかったね。ほらきみも、」
ダイゴさんのこちらを見上げる視線が私の瞳を捉える。はっとして彼のやったようにナゾノクサの傍に屈んでポロックの乗った手をナゾノクサへ向けた。二つ目のポロックも迷いない動作で瞬く間に食べられてしまった。
「市販品のポロックも優秀だね。此処のポケモン達は案外舌が肥えてるから、安物だと食べない事もよくあるんだ」
ケースに残ったポロックをまじまじと見つめて、ダイゴさんが感心する。ポロックは買ったり貰ったりで作るのは苦手でさ、なんて意外な言葉を呟いて小さく息を吐いた。
「それ、市販品じゃなくて、あの……、私が、」
作りました。どんどん小さくなる言葉は果たしてどこまで彼に伝わっただろうか。ダイゴさんは何度か瞬きをしてただ一言、そう、とだけ返した。
いつも借りているチルタリスに少しでもお礼がしたいからと作り始めたポロックが、まさかこんな所で役に立つなんて。しかもその努力をダイゴさんに、本意ではないとしても、褒めてもらえた。現金な心が小躍りする。
初めの頃はなかなか食べてくれなかったチルタリスに、後でたっぷりお礼を言おう。彼が美食家でなければポロック作りに精を出す事はなかったのだから。
ポロックを二つも食べて満足したナゾノクサが全身を使って飛び跳ねている。それを見守るダイゴさんは目尻に皺を寄せ、ゆるりと口角を上げている。暖かな笑みだった。
気付かれないよう、その横顔を視界に映していると、いつか見た微笑が蘇る。バトルを終え、立派に活躍したポケモン達へ向ける眼差しは、興奮冷めやらぬ会場の中であったのに、とても穏やかだった。互いに信頼し合う瞳が静かに喜びを分かち合っていた。
とても綺麗で、目が離せなくて、恋に落ちた瞬間だった。あの日以来、この人の温かな眼差しに心を時めかせ、自然と目で追い、そして。
「もう少し奥へ行こうか」
微笑みの消えた、感情の読めない視線が私へ向けられる。私があの眼差しで見つめられる事はないのだと、冷たく宣言されていた。
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