涙が目尻から零れて風に拐われる。ここを出たらチルタリスに飛び乗ろう。家に帰ったら昨日のメッセージも連絡先も全て消してしまおう。全部、ぜんぶ、なかった事にしてしまおう。
あのパーティの日、私は呆気なく断られ、少しだけ未練を引きずって、でもようやく吹っ切れた――そういう事にしよう。そうすればこの胸の痛みも忘れる事が出来る。
草むらを避けて見覚えのある場所を辿っていく。かさかさと草の擦れる音にびくりと肩が跳ねたけれど確認せずに足を前に出す。何も持たない私は入口に戻る事が、最優先で唯一取れる防衛手段だった。呻き声のようなものも聞こえたから、尚更立ち止まれなかった。
その時、腕を掴まれ強く引っ張られ、鋭い痛みが肩に走った。振り返る。肩で息をしたダイゴさんが膝に手をつき頭を垂れていた。
「危ない、から」
ようやく顔を上げたダイゴさんは苦しそうに顔を歪めていた。無理して追い掛けなくて良かったのに。放ってくれたら良かったのに。
顔を逸らして腕を振り払おうとする。けれどダイゴさんの手はしっかりと私の腕を掴んで離してくれない。それどころか、より強い力く掴まれて腕が痛い。
「は、なして」
「駄目だ。外に出るまでは、大人しくして」
言うなり、ぐいと腕を引かれ有無を言わさず歩かされる。
「ポケモンも持たず、道具も持たずにひとりになるなんて……、きみはもっと賢いと思ってた」
強い口調の、責めるような声が胸に突き刺さる。
背中しか見えないダイゴさんが、今どんな顔をしているか容易に想像が出来る。きっと、軽蔑の色を隠しもせず露わにして、それから溜め息でも吐くのだろう。
涙が、すっかり頬に刻まれた水跡をなぞるようにポロポロと流れていく。拭う気力も、意味もなかった。
ダイゴさんの歩幅は大きく、それでいて速かった。草むらのない場所を縫うように歩いているのに歩調が崩れる事なく、敷かれたレールの上を歩くように迷いがなかった。
一方私は、片腕をダイゴさんに捕えられ、自分よりうんと速く歩くダイゴさんについて行くだけで必死だった。同じように歩いていたら転びそうで、いつしか小走りになっている。それでも、ダイゴさんが振り返る事も、歩みを緩める事もなかった。
永遠とも一瞬とも思える時間はサファリゾーンの入口が見えた事で終わりを迎える。
ダイゴさんの歩みが緩やかになったその隙を突いて、前へ飛び出し腕を払う。顔は合わせない。今の彼がどんな表情をしていても、傷付く事こそあれ喜ぶ事はないと分かっているから。
背中を向けたまま「ありがとうございました」と言葉だけの礼を伝える。頭は下げなかった。下げたらようやく止まった涙がまた、零れてしまいそうだった。
「{{kanaName}}さん、」
今日、初めて名前を呼ばれた。それでも振り返らなかった。ダイゴさんを見るのが怖かった。
「さっきは、酷い事をしてしまって、ごめん」
掴まれていた腕が痛む。痛みを和らげるように押さえると、さらに痛くなった。
ダイゴさんに触られるのはあの夜以降、これが初めてだった。そして、これで最後だ。
下手に優しくされるよりは良かったかもしれない。優しさは、時にどんな凶器よりも傷付ける刃になる。
「そうだ、これ」
背後から手が伸びてきて、見覚えのあるポロックケースが差し出される。ダイゴさんに預けたままだったそれは、もうすっかり空になっている。
私のポロックケースは小さな子どもでも少しのお小遣いで買える程安価なもので、受け取るのを躊躇った。これを見たら嫌でも今日の日を思い出しそうだったから。
けれどダイゴさんが手を引く気配はなく、私が受け取るまでずっと差し出していそうだった。それでも、私の心は躊躇する。
「まだ一つ残っているんだ。チルタリスに、勝手に貰って悪かったと、ボクの代わりに伝えてほしい」
もう一度ポロックケースへ視線を落とすと、確かに端にひとつ、こんいろポロックが見える。それは今回作ったポロックの中で一番出来の良いもので、チルタリスがどんな反応をするか楽しみだったポロックだ。
しばらく悩んだ結果、ポロックケースを受け取った。背後から、息を吐く音が聞こえた、ような気がした。
バッグへポロックケースを仕舞い、代わりにモンスターボールを取り出す。何度も利用してすっかり懐いたチルタリスは、早く空を飛びたがってボールをかたかたと揺らす。
自分のポケモンは持っていなかったけれど、この子との仲を見せてポケモン好きを分かってもらおうと考えていたのはつい昨夜の事なのに、ひどく昔のようだ。結局見せる事は出来なかったけれど、見せたところで何も変わらなかったと思う。
人は見たいものしか見ない。ダイゴさんのような聡明な人でも、そうだった。
さあ、そんな悲しい事は忘れて帰ってしまおう。ボールを地面へと落とそうと手の中のそれを転がした。
しかしそれが手の平から落ちる事はなかった。すぐ後ろで閃光が起こり、金属が軋むような鳴き声が響き渡る。視界の端に光沢のある鋼の身体が映り込んだ。ダイゴさんのエアームドだった。
「あの……、いや、何でもない。じゃあ、ボクはこれで」
終幕は目前に迫っていた。この書き損じた喜劇に相応しい言葉は何だろう。そんなもの、ないのかもしれない。
「さようなら」
私の最後の言葉はエアームドの豪快な羽ばたきに拐われる。青く澄み渡る空へ銀の羽が吸い込まれていくのを、私はひとり、見えなくなるまで見つめていた。
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