待ち合わせ時刻の十分前、何かの記念で建てられた小さな時計塔の前にダイゴさんは立っていた。心臓がどくんと跳ねる。待たせてはいけない、足を踏み出そうとして、しかし突然足が重くなる。
ポケナビから聞こえた声は優しくて柔らかくて、私が好きになったダイゴさんその人だった。けれどミナモでの辛辣な態度が脳裏を過ぎる。不安に襲われる。足が止まる。
ダイゴさんはまだ私に気付いておらず、物思いに耽った顔で遠くを眺めている。綺麗な顔だった。それなのに、清流を閉じ込めたような澄んだ瞳が嫌悪の色に染まって私を睨み付ける可能性を否定しきれなくて、動かない足がじり、と後ずさる。気付かれていないなら、まだ引き返せる。
その時、ダイゴさんがこちらへ首を傾け、私の怯える瞳を捉えた。無音の叫びが喉の奥で鳴る。最悪を想定して全身が強ばった。
けれどダイゴさんは睨む事も、疎ましい目を向ける事もしなかった。それどころか、澄ましていた顔に笑顔の花が咲いた。まだ距離もあるのに、覚えていないと思ったのに、ダイゴさんは笑って手を振った。
「来てくれてありがとう。来るとは思っていなかったから、とても嬉しいよ」
わざわざ私の傍までやって来て明るい声で笑ったダイゴさんに、どう返していいか分からず、顔を伏せ曖昧に首を振った。
嬉しくない訳じゃない。心臓は煩いくらいドキドキして耳まで熱くなっている。けれど一度呼び起こされた暗い記憶は躊躇いを生む。向けられた好意を疑わせる。
「{{kanaName}}さん、今カナズミで上演しているポケモンショーはもう見たかい?」
ちらりと視線だけ向ければ、ダイゴさんは笑顔のまま私に訊ねてきた。パーティで見掛ける感情の欠けた笑顔ではなく、とても自然な微笑みだった。
今までのダイゴさんは冷たい顔ばかりで、こんな風に笑ってくれた事はなかった。ダイゴさんが今さら嫌悪を隠して笑顔を取り繕う理由が見当たらない。だからこそ、目的が分からなくて怖い。半年前の事を詫びようとしてるとは、素直に信じられない。
「評判が良いから気になっていてね、よければ観に行かないかい?」
ダイゴさんの言っているポケモンショーは私も知っていた。前売りチケットは即完売、僅かに売り出される当日券だってあっという間に売り切れると今大人気のショーだ。そんなショーに敢えて嫌いな人間を誘う筈はない。
でも、それでも不安で二の足を踏む。どうしよう、私には眩しすぎる笑顔に伏せてしまった顔を恐る恐る上げる。すると、
「駄目、かな…?」
「いえっ、その……み、観ます…」
頭で考えるよりも先に口が動いていた。
チャンピオン戦でどれだけ追い詰められても強気に笑っている人が、顔を強ばらせ余裕を失っていた。私の返事を待っているだけなのに、親からはぐれた仔ポチエナのように不安げな瞳を見せていた。そんな顔をされたら、断れない。
「本当かい? 良かった、観るならきみとがいいと思ったんだ」
ダイゴさんはそう言って、燦々と降り注ぐ陽光のような明るい笑顔になった。バトル勝利後のインタビューで偶に見せる笑顔と似ていて、とても嬉しそうに笑っている。
彼はそれ程器用な人ではない。嫌いな人の前でこんな風に笑える人でもない。信じていいと思った。張り詰めていた糸が緩む。強ばった頬が柔らかくなって私もダイゴさんへ微笑んでいた。
「じゃあ行こうか」
ダイゴさんが歩き出す。置いて行かれないように後を追うと、ダイゴさんが歩を緩め隣へと並んだ。サファリゾーンでポケモン達へ向けた眼差しと同じ、優しい色をした瞳が私に微笑みかける。何故だか急に涙が零れそうになって、空を見上げた。
雲一つない青空は、隣を歩く彼の瞳のようにどこまでも澄んでいた。
この辺りでは最も大きい劇場で公演されるポケモンショーは、少女とポケモンが迷い込んだ不思議な世界を冒険する話だった。
劇が始まるまでは隣に座るダイゴさんに緊張して落ち着かなかったけれど、いざ始まると、舞台で繰り広げられる大冒険に、役者たちの演技に、すっかり魅了されていった。
「評判通り、素晴らしいね」
幕間になっても芝居の余韻から抜け出せずにぼんやり舞台を眺めていたら、隣のダイゴさんが声を掛けてきた。はっとして姿勢を正して隣を向く。くすりと笑われた。
「どのポケモンも素晴らしい。特にギルガルドの刀身の美しさとどっしりとした構えは見事だったな。世話をする人の並々ならぬ努力の賜物だよ」
沢山のポケモンが出ていたのに、いの一番に挙げるのがはがねポケモンだった事にダイゴさんらしさを感じて心が暖かくなる。ポケモンの事を話すダイゴさんはとても優しそうな表情をして、それはこの人を好きになって良かったと思う瞬間だった。
「ねえ、{{kanaName}}さんは気に入ったポケモンはいたかい?」
ダイゴさんの質問に劇を思い返す。どの子も可愛らしくて、格好良くて、素敵だった。それでもしいて挙げるなら、
「白い……、えっと、カゲツさんの……、」
「アブソル?」
「そうです、アブソル! バトルで戦う姿も格好良いけれど、この舞台のアブソルは優雅で綺麗で可愛いところもあって、主人公の女の子との演技も息がぴったりで、私にもあんなポケモンがいたら良いな、なんて……」
そこまで一息に答えてから、以前にも似たような質問をされた事を思い出す。サファリゾーンでピカチュウを見ていた時だ。あの時のダイゴさんは私からポケモンを物のように扱う言葉を引き出そうとしていた。まさか、今の質問も。不安に染まって苦しくなる胸を抱えながらダイゴさんの顔色を窺う。
「うん、ボクも良いポケモンだと思ったよ」
ダイゴさんの笑顔が少し陰っていた。答えを間違えてしまったんだと悟る。記憶の底から刺すような冷たい視線が蘇ってぐさりと胸を突き刺す。胸が痛い。どうしよう。どうすれば――
「でもボクのポケモン達も格好良いと思うんだ」
「えっ、」
「なんたってチャンピオンのポケモンなんだから」
思いもよらない言葉に頭が真っ白になる。薄い青の瞳がまっすぐに私を見つめて、目を逸らしたくても逃がしてくれない。
「ボク達も格好良いよね?」
無意識に膝の上で握っていた拳を、ダイゴさんの一回り大きな手が包み込む。触れた皮膚は熱くて火傷してしまいそうだった。私は大きく頷いて真っ赤になった顔を隠すように俯いた。はらりと髪が垂れ、ちょうど顔を隠してくれたのはせめてもの救いだ。
「――――」
ダイゴさんが何かを言って手を離した。けれどその声は開演を知らせるブザーに掻き消されて私には伝わらない。照明も落ちていき、言葉を確認する機会を失ってしまう。
ただ、悪い言葉でないのは確かだった。ちらりと覗き見た横顔はゆるく微笑んでいて、唇が描くのは綺麗な曲線だった。
ダイゴさんがどうして突然好意を向けたのかは分からない。ただの気まぐれかもしれない。けれど、今日この時間くらいは夢を見たって許されると信じたい。
私は捨てようとしていた恋心を拾い上げるとそっと心の中へと仕舞った。
劇場から出ると辺りはすっかり暗く、空には星が輝いている。
隣のダイゴさんへ目を向けると顎に手を掛け何か考え込んでいた。けれど私の視線に気が付くとふっと小さく笑って口を開いた。
「この後、まだ時間が許すなら食事をして、それから……、」
ダイゴさんはそこで言葉を切り、笑顔を消して鋭い視線を向ける。ひやりと冷たさを感じる眼差しだった。
その瞬間、気付いてしまった。浮かれて舞い上がっていた心がすっと冷えていく。
冷静になれば分かる事だった。ダイゴさんが〝地位や権力の為に彼へ近付き、ポケモンを道具のように扱う〟女に何の理由もなく時間を割く筈がない。私に利用価値がなければ絶対にそんな事はしない。そして私が彼の役に立てる事と言えばたった一つだけ。
半年ぶりに突然連絡してきたのも、嫌に優しくするのも、私がかつて自分から都合の良い女になると――抱いてくれと言ったからだ。ダイゴさんはこの後私をホテルへ連れ込むのだろう。頭がくらくらする。心臓がばくばくと煩くなる。
けれど私は黙って次の言葉を待つしか出来ない。だって私が今日ここへ来たのはチャンピオンの名誉を守る為で、チャンピオンが女に逃げられるなんて恥は掻かせられない。
「それから、きみと――」
ピリリリリ、電子音が響いた。その音はダイゴさんから聞こえてくる。ダイゴさんは軽く首を振って眉根を寄せると、引っ張り出したポケナビを恨めしく睨み付けた。
「ごめん、すぐ終わるから」
鳴り止む気配のないポケナビに、無視は出来ないと諦めたダイゴさんが心底申し訳なさそうに謝る。芝居じみた言動は私の信用を得る為だろう。今なら分かる。
私がどうぞと頷くとダイゴさんはもう一度「ごめん」と謝って少し距離を取ってから電話に出た。会話は聞き取れなかったけれど、尖った口調なのは感じ取れた。タイミングの悪い電話に怒っているようだった。
「今からって、ボクにも……それは、」
ダイゴさんの横顔は少し険しく、困った顔をしている。どうやらこんな時間に呼び出しを受けたようだ。ちらりと向けられた瞳はひどく悩んでいる。
「……分かったよ、分かったから! すぐ行くよ」
大きな溜め息を吐いたダイゴさんが選んだのは電話の相手だった。ほっと安堵して、けれど同時に悔しさも感じていた。女としての価値も低いと言われたような気がして、惨めな気持ちになる。
「申し訳ない、急用が出来てしまったんだ」
整った眉を下げる姿は本当に申し訳なさそうで、危うく絆されそうになる。でもこれはただの演技、騙されてはいけない。餌を撒いているだけなのだから。
「今日はありがとう。本当に嬉しかった。でもまだボクは今日きみに会った目的を果たせていないんだ。だから、もう一度だけ会ってほしい」
ほら、やっぱり。
「後で連絡するよ」
微笑みの消えた顔が私を見つめる。
次の瞬間、私とは別の鼓動が体に響く。知らない熱が体に伝わる。あっ、と声が零れた時には既にダイゴさんは体を離し「じゃあ、また」踵を返していた。
待って。思わず声を上げ手を伸ばしていた。けれど戸惑う手が掴むものは何もない。
いつの間にか現れたエアームドが一鳴きし、ダイゴさんが素早く背中に乗る。鋼の翼が夜景を映して鮮やかに光っている。自分がどうしたいのか分からず途方に暮れる私にはひどく眩しすぎて、空に消えるその姿から目を逸らすしかなかった。
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