3.俯いた花が空を仰ぐ(5)




『ルネジムのミクリは知っているかい? 実は彼の水上ショーに誘われていてさ、{{kanaName}}さんも一緒にどうかな』
 カナズミで会った翌日の夜、宣言通り連絡してきたダイゴさんは前日の事を丁寧に詫びると水上ショーへと誘ってきた。律儀な人だと思った。執着心が強いとも思った。
 別にそんな口実がなくてもチャンピオンの言葉には逆らわないのに。溜め息が零れそうになるのをぐっと堪え、務めて明るい声で返事をした。ダイゴさんの嬉しそうに笑う声が胸を深く抉る。夢から覚めて見える現実は、ひどく残酷だった。
 約束の日の待ち合わせ時刻の十分前、巨大樹の前でダイゴさんは待っていた。この日も私に気が付くと、ぱっと明るい顔になって手を振った。その姿は天頂に輝く太陽と重なってとても眩しくて、自然と目を逸らしていた。
 ルネジムリーダー・ミクリの水上ショーは先日のポケモンショーに負けず劣らず大人気で、良席となると当然値が張った。けれど今回も「きみの大切な時間を貰っているから」とチケット代は断られた。中途半端な優しさに居心地が悪くなる。でもこの後きちんと体で支払うのかと思えば、ほんの少し気が楽になった。


 円形のプールを様々な水棲ポケモンが生き生きと泳いでいる。綺麗に隊列を組み、音楽に合わせて技を披露して、二つしかない目ではとても追い切れない程見事なパフォーマンスが繰り広げられていた。それは陰鬱だった気分を照らす暖かな光となり、ダイゴさんの思惑もこの後の事も、このステージの間だけは忘れる事が出来そうだった。
 ステージ全体を照らしていた照明が音楽と共に消えていく。会場をしばしの沈黙が包み込む。次に何が起こるのか胸を高鳴らせながら、ふと隣へと瞳を向けた。無意識に視線を感じたのかもしれない。
 暗がりの中、僅かな光を反射したアイスブルーの瞳が私を見つめていた。慌てて視線をステージへ戻す。まさか見られていたなんて、目が合って微笑まれるなんて、思ってもいなかった。ただ抱く為だけに呼び付けた女へ向けるには優しすぎる眼差しに、叶わぬ夢を見てしまいそうになる。
「ボクもポケモンだったらよかったのに」
 小さな溜め息の中、ぽつりと呟かれた言葉は寂しげな音色をしていた。意味深な言葉につい視線を戻せば、ダイゴさんは何事もなかったように笑っていた。眩しすぎる笑顔に、私は逃げるように俯いた。
「ミクリのミロカロスはすごいんだ。ほら、出てきたよ」
 ダイゴさんが私の手を握る。体を巡る血液が沸騰してしまいそうだった。振り払おうとして、存外強い力で握られている事に気が付く。手は、振り解けなかった。
 私より大きくてしっかりした手は、そのままショーが終わるまでずっと手を握っていた。プールの中央でミロカロスが優雅に舞っていたけれど、何も記憶に残らなかった。


「少し、歩こうか」
 ショーが終わり、ジムの外へ出たダイゴさんが歩き出す。遠くなる背中に、夢の終わりが見えるようで、胸が痛む。
 置いて行かれないよう重い足を動かして後を追う。もう隣を歩いてはくれないのかと胸が痛んで、この期に及んでまだ期待する自分に乾いた笑いを吐いた。
 せめて目的地に着くまでに心の真ん中に鎮座し続ける恋心をどうにかしよう。未練がましく恋にしがみつくのはもう沢山だ。
 ルネ特有の急勾配の坂に苦労しながら、いつまでも居座ろうとする恋心を引き摺り下ろす。でも、どこまで歩いてもダイゴさんは止まらず、どれだけ引っ張っても恋心は捨てられない。
 いつまで続くのだろう、限界の見え始めた頃、ようやくダイゴさんが立ち止まった。
 そこは、ルネの街並みを一望できる展望広場だった。
「風が気持ち良いね。そうだ、ここなら危険な野生ポケモンもいないから、チルタリスを出してあげたらどうかな」
 空は遠くまで青く澄み渡り、吹く風は爽やかで心地良い。断る理由も見つからずチルタリスを出してやると「レンタルポケモンでドラゴンタイプだというのに、よく懐いてるね」ダイゴさんが微笑んだ。チルタリスは誇らしげに一鳴きし、けれど自身へ伸びた手にはそっぽを向け、綿雲のような翼を広げると空へと飛び立った。チルタリスに振られてしまったダイゴさんは苦笑まじりに肩を竦めた。
「{{kanaName}}さん」
 空を見上げていたダイゴさんがこちらを向いた。昼日中のこんな屋外へ連れて来られたのは予想外だったけれど、この後の事は分かっている。覚悟を決めなければ。
 不安と緊張で大きくなる鼓動に耐えてダイゴさんを正面に見据える。何故かダイゴさんも私と同じように強ばった顔をしていた。そんなダイゴさんがふっと息を吐く。
「きみはこの前も今日もずっとそうやって疑っていたけれど、ボクは本当に{{kanaName}}さんに会いたかっただけなんだ。会って、謝りたかった。それがボクの目的。だから、そんなに怯えなくても大丈夫だよ」
 嘘は吐いてないと思った。緊張の残る頬で小さく笑う姿はとても私を騙したり、陥れようとする人には見えなかった。青い宝石のような瞳が湛えるのは誠意だった。
「今更すぎるとも、ただの自己満足だとも分かっている。受け入れなくてもいい。ただ知っていてほしいんだ。今は後悔してる、きみを傷付けた事も、きみの気持ちを踏みにじった事も。本当に申し訳なかった」
 ダイゴさんが頭を下げた。
 目の前の光景を、すぐには理解出来なかった。理解出来ても、どうしていいか分からず動けなかった。思考が止まり、頭が真っ白になる。
 チルタリスの歌声が響いてはっとする。チャンピオンに頭なんて下げさせてはいけない。慌てて「頭を上げてください」「もういいですから」と呼び掛ける。
 のろのろと体を起こしたダイゴさんは何かを耐えるようにぎゅっと口を結んで、私をまっすぐに見つめた。似たような表情を一度だけ見た事がある。メタグロスが窮地に追い込まれ倒された時に一瞬見せた表情だ。それに、よく似ていた。
「本当に、もういいのかい?」
 一体何の事を言っているのだろう。ダイゴさんが何を言いたいのか分からない。どくどくと心臓が鼓動を速め、息が上がる。見つめる瞳の力強さが何だか怖く視線を逸らした。なのにダイゴさんが名前を呼ぶから私は視線をダイゴさんへ戻してしまう。逃がしてくれない。
「ボクはまだ終わらせたくない。きみという人間をもっと知りたい」
 氷のように冷たかった筈の眼差しが熱を持って注がれる。私の身を焦がしていく。胸が痛い。でもこの痛みは辛いからではない。燻り続けて心を傷付けていた恋に再び火が灯り、輝きを取り戻したからだった。
「知った上で、改めてきみの願いを叶えたい。もしまだ思い出になっていないなら、ボクにチャンスをくれないかい?」
 目の前のアイスブルーの瞳はどこまでも澄んでいた。まっすぐに私だけを見ていた。私はそれを知っている。バトルの前、挑戦者へ向ける真摯な瞳だ。ようやく私の事を、{{kanaName}}という一人の人間として見てくれた。
 視界が滲む。涙が零れそうになる。必死に耐えて一度だけ頷いた。ダイゴさんの顔から力が抜けてゆっくりと目が細められる。綺麗な微笑みだった。
 夢みたいだった。でも夢じゃない。くしゃりと歪んだ頬に伝う涙の冷たさも、それを掬い取るダイゴさんの指の温もりも、全部ぜんぶ現実だった。


 全部夢だったらよかったのに。その時の私は何も分かっていなかった。


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