リーグ観戦から数日後、ダイゴさんから何処か行きたい場所はあるかいと訊ねられた。未だ残る唇の感触に惑わされながら私が選んだ場所はカイナシティの水族館だった。今までダイゴさんが連れて行ってくれた場所が全てポケモンに関する場所だったのと、水族館なら家族連れも多くてこの前みたいな事もされないと踏んでの事だった。
けれど私の考えは大きく外れる。館内には家族連れもいるのだけど私達のような二人連れも多かった。ぴったりと肩を寄せ親しげに指を絡め合う姿を見ていると、どうしてもダイゴさんを意識してしまう。あのキスに私と同じ種類の好意を紐付けたくなる。
ダイゴさんは彼らを見て何を思うのだろう。少しの気まずさと空を掴む手が妙にそわそわして、近寄る事も離れる事も出来ないまま水槽の方へ目を向ける。
その時、ジグザグマのように右へ左へと駆け回る子どもを避けようとした肩がダイゴさんに当たる。ほんの僅かに触れただけのそれはしかし、私の体温を高くするには充分すぎる刺激だった。
ごめんなさいと謝ってすぐに距離を取ったけれど、加速する鼓動はダイゴさんの耳に届いてしまったかもしれない。こんな事で浮かれてしまっている自分が恥ずかしい。
「へえ、海のアゲハント、だって。確かに尾ビレがアゲハントに見えなくもない」
しばらく何も話せず視線を水槽へ向けていたら、ダイゴさんがふっと息を吐いて感嘆の声を上げた。清々しい春の風のように心地良い声はとても楽しそうに弾んでいる。水槽の中のケイコウオにも届いたのだろうか、反応するように尾ビレを羽ばたかせて泳ぐと「サービス精神旺盛だね」ダイゴさんの声がさらに跳ねた。
ちらり、隣に並ぶダイゴさんを横目で覗く。水槽を照らす照明がダイゴさんの瞳を煌めかせ、まるで星を詰め込んだようだった。その美しさに、ホウエンの海よりも澄んだ青い瞳に、どくんと胸を高鳴らせたら不意に瞳が射抜かれた。
「向こうの大水槽にはもっと沢山のポケモンがいるみたいだよ」
薄暗い館内のせいなのか、ダイゴさんの見せる笑顔に普段の爽やかさは見付けられない。よく見れば力強い眼差しはリーグで呼び出された時と同じ色を湛えている。どくどくと心臓が煩くなって目を合わせるのが恥ずかしくて「じゃあジュゴンもいるかな」と、通路の奥に見える大水槽へ体ごと視線を逸らした。
あの日ダイゴさんは私にキスをして冗談だと笑った。
でも何が冗談だったのだろう。私の平凡な感想に拗ねた事だろうか。それともやはりキス自体を冗談だと言ったのだろうか。私には分からなかった。
ただ、ダイゴさんは冗談だと言ったけれど、あの瞳はとても冗談には見えなかった。どこまで本心だったのかは分からない、もしかしたら全て嘘なのかもしれない。そうだとしても、扉に消えるダイゴさんの瞳に特別な感情が揺らいでいたのは確かだった。
あのキスは冗談で済ませてはいけないものだった。
それなのにダイゴさんは冗談の一言で片付け、今日まで何もしなかった。
しなかったくせに、今日私の隣に並ぶ彼はこんな風に時折意味深な瞳を向ける。友愛では説明出来ない色を湛えた瞳が私を惑わせる。そのせいで、ダイゴさんにも私と同じ感情が――恋愛感情が芽生えたのかと期待してしまう。
私は唇にキスなんて、冗談であってもそう易々とは出来ない。相手が自分へ好意を向けているなら尚さら無理だ。だからこそ、私はダイゴさんに大きな期待を寄せ、同時に本当にただの冗談であった場合の絶望感に怯えていた。
この水族館の一番の見どころはどんなに大きなポケモンでも自由に泳ぎ回れる巨大水槽だ。ホエルオーの巨体すら大きさを感じない程広い水槽には、ホウエン以外の地方に生息するポケモンも一緒に泳いでいて、水ポケモンの楽園の名を冠するに相応しい水槽だった。ダイゴさんから逃げる口実に使ったもののいざ目の前にすると、真意の読めない眼差しも未だ鮮明に思い出せる唇の感触も何だか些細な事のように思えてしまった。
それ程に圧倒され、見入っていた。
「圧巻だね」
右から左、上から下に大小様々なポケモンが泳ぎ回っている。今目の前を通り過ぎたのは、左右のひれに沢山のテッポウオをくっ付けたマンタインだ。あまりの数に驚いていたら、いつの間にか隣に並んだダイゴさんがふっと息を吐いて笑って、水槽に広がる海よりもうんと澄んだ青が私の瞳をまっすぐに捕らえた。
「あっあれ、たしか……、サ、ニーゴ、ですよね」
ずっと目を合わせていたらアイスブルーの瞳に全てを暴かれてしまいそうだった。困惑も、浅はかな期待も、それから自分ですら気付いていない感情の全てを。
怯えた私は目に留まったポケモンの名前を出して、それに気を取られた振りをしてダイゴさんから離れると、水槽の端の水底で群れるポケモンの前にしゃがみ込んだ。
友愛以上を期待してどこか浮かれているくせに、いざダイゴさんに見つめられると途端に臆病になって逃げるのは、一体これで何度目だろう。確かめたいのに、確かめるのが怖かった。確かめて、拒絶されるのが怖かった。
「見てごらん、スタッフだ。どうやら水槽に入って餌をやるみたいだね」
視界の端に見知ったスーツが見える。顔を上げなくても分かる、ダイゴさんがすぐ傍に立っている。ダイゴさんは返事をしない私に催促するように「見ないのかい?」声を掛けて一歩その距離を縮めてくる。
その声はからりと晴れた秋空のように一切の曇りもなく澄み渡り、それでいてサファリゾーンで色の異なるナゾノクサを見つけた時のような興奮も聞き取れた。今し方瞳に漂っていた夜の香りはどこにも見当たらない。だから私は誘われるまま無防備に顔を上げた、上げてしまった。
ほんの少し手を伸ばせば届く距離にダイゴさんが立っていた。親しい友人よりもずっとずっと近い距離で、水槽の前でしゃがみ込んだ私をじっと見下ろしていた。
清廉潔白を閉じ込めたようなアイスブルーの瞳は私と目が合うとすっと細められ、刹那、ぐっと近くなって目の前に落ちてくる。腰を屈め、私の頬へ手を伸ばし、爪の先まで温もりを持った指がそっと顎を持ち上げる。そうして瞬き一つ分の沈黙を紡いでから唇が重なった。
「ひ、人がいる、のに……」
唇が離れて浅い呼吸を三つして、ようやく口から吐き出した言葉は的外れもいいところだ。いの一番に言うべきはそんな事じゃない。
けれど頭は真っ白で混乱して訳が分からない。僅かに震える唇は、視界の端に捉えた人影から浮かんだ言葉を咄嗟に吐き出すしか出来ない。そんな私を、ダイゴさんはまた笑う。
「大丈夫、誰も見てないよ」
見上げた先のダイゴさんの表情は影になっていてよく見えない。ただその声は幼子をあやすように柔らかく、傍を通り過ぎたランターンの小さな提灯に照らされた頬は声が示したようにうっすらと微笑んでいた。
「それよりほら、もっと近くで見よう」
顎を離れた手が私の手を掴んで引き上げる。戸惑う私をよそに何ともない顔をして、しっかりと掴んだ手に指を絡めていく。まただ、またダイゴさんが私を惑わせ、期待させる。
その時だった。恨みすら覚えて睨み付けた瞳が予想外のものを見付けた。色素が薄く雪のように白い頬が、血色の良い赤に染まっている。弧を描く唇には余分な力が入って少し歪になっている。笑っている筈の顔も緊張で強ばっている。
「ボクが、そうしたいんだ」
明確な言葉はなかった。けれどダイゴさんの見せたそれらは言葉よりも雄弁だった。絡めた指をぎゅっと握り返す。ダイヤのようにきらりと輝く瞳が見開かれた。
次の瞬間、
「ありがとう」
青く透明な二つの瞳がゆるりと細められ、上気した顔が破顔する。
「じゃあ、行こうか」
ダイゴさんに手を引かれて私も足を踏み出す。足も心もとても軽くて、背中に羽でも生えているかのようだった。
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