吐く息はとっくに白くなっていた。冬はどんどん深まり頬も指先もすっかり冷えていく。けれど私は春を生きていた。冷たく固い地面は雲のように柔らかく、吹き荒ぶ風は浮かれて上がる体温を落ち着かせるのにちょうど良い。今が冬で良かった。夏ならきっとのぼせて倒れてしまっている。
理由はもちろんダイゴさんだ。ダイゴさんの気持ちに気付いたあの日から、私の世界は大きく変わった。
彼の暖かな眼差しと花の綻ぶような笑顔が私の世界を鮮やかに彩り、世界を春に変えた。ダイゴさんが私を好き――ただそれだけで、世界はこんなにも明るく幸せに満ちた。
ダイゴさんは何かと忙しい人ではあるのに、こまめに連絡を寄越しては私と過ごす時間を作った。フットワークが軽く自由奔放と噂に聞いていたから少し意外で、同時に嬉しくもなった。
ある日、カナズミのポケモントレーニング施設へ案内され、ダイゴさんの大切なポケモン達の手入れを手伝って欲しいと頼まれた。使い込まれた用具と共に「よろしくね」とメタグロスのボールを手渡された時は突然の大役に血の気が引いたけれど、ダイゴさんも彼のポケモン達も優しくてどうにかお手伝いが出来た。
「エアームド以外のポケモン達とも仲良くなってほしかったんだ」
頬に汚れを付けたダイゴさんがにこりと笑って、メタグロス達も同じように穏やかな表情を見せてくれたのは忘れられない思い出だ。
またある時はえんとつ山のロープウェイ乗り場に呼び出されたかと思ったら、ロープウェイも登山道も無視して小さな洞窟へと引っ張られた。薄暗い洞窟を懐中電灯の小さな明かりだけで進むのはそら恐ろしく、ダイゴさんの腕にしがみつく手には自然と力が入った。そんな私に「あの向こうだよ」と意味深に笑ったダイゴさんはするりと腕を振り解くと、私の背中を小さく押した。
大きな岩の奥に広がっていたのは、夜空を切り取って閉じ込めたような空間だった。暗い洞窟の中で無数の輝く石が岩肌から覗いて、とても幻想的な光景だった。あまりの美しさに言葉も忘れて見惚れていたら「どうしても{{kanaName}}に見せたくて」ダイゴさんが私の腰を抱いて微笑んだ。
そんな気障な事をしたかと思えば、リーグ戦のチケットを贈られた時には「絶対にこの席に座って」と私が自分で用意していたチケットを没収したりもして。言われた通りにその席に座ったら強烈な一撃が決まったところでギラギラした瞳を私へ向け、にっと勝ち気な笑みを見せてきた。バトルをしている時にしか見せないその表情にぞわぞわと背筋を震わせながら、私は早鐘のように鼓動を速めていた。
他にも「声が聞きたくて」と夜更けにポケナビを鳴らしては時計の針がくるりと回る程電話をしたり、「ここのケーキが美味しいんだ」とカフェで一緒に甘いケーキを食べもした。ディナーに行けば、毎回ほろ酔い気分の私をエアームドに乗せて家まで送ってくれる。
幸せの一言では足りないくらいの幸福が私を優しく包んでいた。
「カナズミに比べたら何もない所だけど、その分自然が身近で良い場所なんだ」
朝から晴天の続く冬のある日、私はトクサネシティにいた。この数日前、話題になっていた火球の話をしたら「流れ星は難しいけれど」とトクサネに招待されたのだ。トクサネにはダイゴさんの家もある。いつもとは違う緊張を覚えたのは言うまでもない。
「どうぞ上がって」
街の中心地から離れた、民家の立ち並ぶ通りのそのまた外れ、切り立った崖を背後にダイゴさんの家は建っていた。中へ入ると博物館かと見間違うような展示ケースが壁に沿ってずらりと並んでいて、驚いて声も出せずにいたら「何もなくてごめんね」と的外れな謝罪の言葉が飛んできた。確かに、展示ケース以外は必要最低限の家具が申し訳程度にあるだけだった。
何もないと言うには存在感の大きい展示ケースに飾られた石は、ごく一部を除いて地味でパッとしない見た目だった。たまにダイゴさんが語るような宝石の原石はどこにも見当たらない。丁寧に一つずつ刻まれたプレートには知らない名前ばかりが並んでいる。
「どういう石なんですか」
目に留まったチャートという石を指す。この石はいくつか飾られていたけれど、どれも色が違っている。赤や緑、他には黒の混じったものと、一見すると違う石に見えるそれらは同じ名前を冠していて、少し興味が湧いた。
「あぁ! それはね――」
宝石の原石の話をする時もそうだったけれど、ダイゴさんは石の話になると途端に少年に戻る。青い瞳はダイヤモンドよりも眩しく煌めき、うっとりと恍惚とした表情で石を見つめ、宝物を見付けた運命の瞬間を感動的に話したかと思えば小難しい言葉をふんだんに使って学術的な話を滔々と語る。その勢いはちょっとやそっとじゃ止まらない。
そのあまりの変容に、途中から頷く事も忘れてダイゴさんの演説を眺めていた。
「――には石灰岩との互層もあっていつかそれ、を……」
愛おしそうにチャートを見つめていた瞳が私へと向けられ、はっと我に返る。ダイゴさんにしては珍しく焦りを顔に浮かべ、赤らんでいた頬は徐々に色を失い始めている。
「話し過ぎてしまったね」
ダイゴさんがひどく申し訳なさそうに眉を下げ目を伏せた。大罪でも犯したような深刻な表情に慌てて首を振る。ダイゴさんが私を知りたいと言ったように、私だってもっとダイゴさんの事を知りたい。それにダイゴさんが見せたいと言った満天の星まで、時間はまだたっぷりとある。それまでは一等星より輝くダイゴさんの瞳を見ていたい。
私はまだ少し陰った顔のダイゴさんに微笑むと「この石は?」と初めて名前を目にしたピッチストーンを指さした。
夜の帳が下りると共にトクサネは静けさに包まれた。此処にはカナズミのような夜を照らす夜景はなく、空を見上げた方が何倍も明るい。
ダイゴさんお気に入りの小高い丘まで歩くと、いよいよ辺りはひっそりと息を潜め、まるで世界に二人きりのような不思議な静寂に包まれる。
「どうだい? 星空も自然も綺麗で、良い場所だろう?」
空に浮かぶ大小様々な光の粒はちかちかと輝き、まるで濃紺のビロード生地に宝石箱をひっくり返したようだ。あまりの美しさに言葉は役に立たず、口から零れるのは溜め息ばかり。隣に並ぶダイゴさんも多くは語らず、まっすぐに夜空を見上げている。
注視はしていなかったのにダイゴさんは私の視線に気が付くと、アイスブルーの瞳に私を写して微笑んだ。その瞳は夜空から摘み取った青白い星を目に嵌め込んだと言われても信じてしまいそうな程、きらりと輝いている。
「だからボクは好きなんだ……この場所が」
ダイゴさんの口から零れた好きという言葉に心臓がどくんと跳ねる。それは私への言葉ではない。そう分かっていても心臓は早鐘を打って体はじわりと熱を帯びる。気付かれないよう静かに肺いっぱいに空気を吸って心を落ち着かせると「私も好きです」と返した。ダイゴさんの瞳が僅かに大きくなる。
「星が宝石みたいに綺麗ですね」
自分の言った好きの二文字と笑みを深めるダイゴさんに恥ずかしくなって、照れた顔を隠すように夜空を見上げる。もっと洒落た感想でも言えれば格好もついて恥ずかしさも紛れるのだけど、夜空よりダイゴさんの事でいっぱいになった頭ではこれが限界だ。
「それはきみの瞳もだよ。{{kanaName}}の瞳もどんな宝石にも負けないくらい煌めいていて、すごく綺麗だ」
歯の浮くような台詞にも関わらず、ダイゴさんが言うと様になって私の顔を耳の先まで真っ赤に染め上げ、繋いだ手が熱くなっていく。その熱が、心臓の高鳴りが、ダイゴさんへと伝わっていく。恥ずかしくて、けれど幸せを感じて、私は顔を伏せながらも絡めた指を少しだけ強く握った。視界の端に見えるダイゴさんの唇がうっすらと弧を描く。
繋いだ手がダイゴさんへ引き寄せられる。よろめいた体はそれが当然の事であるようにダイゴさんの胸の中へすっぽりと収まった。自分のとは異なる胸の鼓動が体に響く。
奏でられる鼓動は自分のそれと同じくらい速く大きく拍動していた。私の鼓動がますます速くなる。
「{{kanaName}}、」
名前を呼ぶ声にそろそろと顔を上げる。冷たい夜風に撫でられ頬を赤くしたダイゴさんと視線が絡み合う。自然と目を閉じたら触れるだけのキスが降ってきた。満天の星の下で交わす口付けは幼い少女の夢のように心地が良かった。
そう、心地が良すぎた。だから私は、この抱えきれない幸福の、零れてしまう分だけでも返そうとして、ふっと浮かんだ言葉――夢の終わりを呼ぶ言葉を吐いてしまった。
「こんなに色々してもらって、何だか申し訳ないです」
大地を照らす太陽のように燦々と降り注ぐ幸せへの感謝を伝える言葉であったそれはしかし、ダイゴさんには届かない。
「どうしてだい?」
ダイゴさんが僅かに首を傾げる。うっすら浮かぶ微笑みは赤らんだ頬のお陰かいつもより可愛らしく見えた。無垢の言葉が良く似合う表情だった。
「だってほら……、約束したじゃないか、きみの事をもっと知ってから……って」
だから何も気にする事はないよ。ダイゴさんはそう言って、この寒空の下でも暖かい笑顔を浮かべた。ちかちかと瞬く星のように眩しい光を湛えた瞳は、それだけで人を恋に落とす魅力があった。
それなのに、私の心に広がっていた花園は一瞬にして枯れ果て、吹く風はその冷たさで心に傷を付ける。一人浮かれて踊り狂っていた勘違いが、優しさに背中を押され底の見えない崖へと突き落とされる。ダイゴさんは別に私を好きだった訳ではないのだと、現実を突き付けられた。
「風が冷たくなってきたね、そろそろ戻ろうか。カロスで評判のワインを貰ったんだ、よかったら一緒にどうだい?」
甘い誘惑だった。頷けばダイゴさんはこの手を引いて私を家へと連れ帰って、ワインを口実に泊まっていきなよと言って、そしてきっと。そんな甘い時間への誘いだった。
けれど。
「チルタリスを今日中に返さないといけないので、」
「……そっか。じゃあ早く帰らないといけないね」
今の私は一体どんな顔をしているのだろう。ダイゴさんを窺っても静かに微笑むばかりで分からない。
私はごめんなさいと頭を下げると、上げた顔をダイゴさんから逸らした。
冷たい風が目に染みて涙が溢れる。気付かれる前に目尻のそれをそっと拭って「家まで送るよ」と優しく振る舞うダイゴさんに頷いた。
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