やっぱり来るんじゃなかった。私はひとりこっそりと息を吐く。
ダイゴさんの事を忘れたくて、無理を言って父の出席するパーティに着いて来たけれど、何の気晴らしにもならない。相変わらず挨拶回りに忙しい父には置いてけぼりにされ、一人取り残された私はパーティの空気にも馴染めずにいた。失恋の痛みを新たな出会いで癒せる程、自分は器用でも切り替えの早い人間でもなかった。
何か飲み物だけでも頂こうかと手持ち無沙汰の手をグラスへ伸ばしたその時、誰かに名前を呼ばれた気がした。反射的にその方へ顔を向けると、うっすらと見覚えのある男性がにこやかに微笑んでいた。
殆ど見覚えのない男性は、父の友人で私とも何度か顔を合わせていると言った。それでも思い出せず眉間に皺を寄せた私へ、その人は会社との取り引きもあると付け加えると「どうぞ」とシャンパングラスを差し出した。受け取るしかない。パチパチと弾ける気泡は宝石の輝きのようで、満天の星を思い出す。ずきりと胸が痛んだ。
「君との再会に乾杯」
ちりん、とグラスを鳴らしてシャンパンをいただく。爽やかな香りが鼻を擽り、口の中で弾ける炭酸は爽快だった。ただ残念な事に風味が独特で少し飲みにくい。それでも笑顔を取り繕うと、男性も満足そうに笑顔を見せた。
少し話をしたら適当にその場を離れるつもりだった。父の友人で取引相手だと言われても私にとっては顔すらろくに覚えてない人間で、話す事は何もない。
なのに男性はやれパーティの主催者がどうだ、あそこにいるのは大企業の御曹司だ、最近応援しているトレーナーが不調で困っている、などと次から次へと話を振って放してくれない。
さらには態度も次第に馴れ馴れしくなって、不躾な視線が私の全身を舐め回すようになった。気持ちが悪かった。でも相手は父の友人で取引相手、無下には出来ない。相手が飽きるか父が戻ってくるまで耐えるしかない。憂鬱を誤魔化すようにゴールドに輝くシャンパンをまた一口飲み込んだ。
延々と繰り返されるつまらない自慢話に、相槌すら億劫になり始めた頃だった。じりじりと距離を詰める男性に居心地の悪さを感じていたら突然、大きくて熱を持った手が腰に触れた。びくりと跳ねた体が咄嗟に離れようと後ずさる。けれど腰を掴む手は痛い程力が込められ逃げられない。それどころか反対に私の体は男性へと倒れ込んでしまう。
「おっと」
にたりと不気味に笑う男性が両手で私を支える。その拍子に彼の飲んでいたワインがドレスに掛かる。赤い染みがスカートを汚していく。
「これは大変だ」
好みとはかけ離れた香水の香りのせいか、飲み慣れない味のシャンパンのせいか、あるいは頭を揺さぶられるように引き寄せられたせいか、頭がくらくらしてぼうっとする。
ワインの染みから男性へと顔を上げると、にたにたと不快な笑みが私を見下ろしていた。良くない事が起こる、逃げなければ。けれど体は押さえられ思考もぼやけてしまって何も出来ない。
その時、耳心地の良い、親しげで明るく爽やかな声が私の名前を呼んだ。その声に一縷の望みを掛けて振り向くと、よくよく見知った人物の姿があった。ダイゴさんだった。
「顔色が良くないね。少し休んで、それからドレスも着替えよう。あぁ、{{kanaName}}の相手をしてくれて有難うございます。後はボクが引き受けます、流石に恋人の介抱は自分でしますから」
ダイゴさんの手が私の腰に回された男性の腕を払う。呆気なく離れた腕はわなわなと震え、ぐっと握り締められた拳は今にもダイゴさんへ飛んで行きそうだった。
しかし男性の拳が振り上げられる事はなく、真っ赤になった顔で無理やり笑顔を作ると「そうですか」と背中を向けた。一先ずの危機は脱した。ほっと安堵の息をつく。
「ボク達も行こう」
「だっ、大丈夫、です」
穏やかに笑うダイゴさんはしかし瞳の奥に鋭い感情を潜めていた。纏った雰囲気はぴりぴりとして、出会った頃のダイゴさんを思い出す。逆らうな、邪魔をするな、そんな声が聞こえてくるようだった。ぞくりと背筋が震え、胸が痛む。
痛いのはダイゴさんの視線だけではなかった。遠巻きに私達を見ている沢山の好奇の目が私をちくちくと突き刺す。パーティの場で一切女性に関心を見せなかったダイゴさんが自ら女性に声を掛け、あまつさえ自分の恋人だと宣言したのだ。大事件だった。誰だってその目撃者になりたいと思うのは仕方のない事だろう。
けれど私はダイゴさんの恋人ではない。ただの友人、いや、知人ですらないのかもしれない。だから〝ツワブキダイゴの恋人〟として視線を浴びるのが辛くて苦しかった。
それなのに、ダイゴさんは私を解放してくれない。
「ドレスはどうするんだい?」
咎めるような視線がワインの赤い染みを睨め付ける。
「ほら、行こう」
シャンパングラスが奪われる。掴むものがなくなった手をダイゴさんの骨ばった手が包み込む。心地良い温もりと安心出来る匂いに涙が零れそうになった。それをぐっと堪え、次々と向けられる視線から逃げるように俯くと、歩き出すダイゴさんの後ろを大人しくついて行く。
「良かった、顔色も戻ってきたね」
着替えのドレスを持って来たダイゴさんは硬い表情を緩めてふっと笑みを浮かべる。
連れて来られたホテルの一室で、ダイゴさんはミネラルウォーターの蓋をぱきりと開けて私へ差し出した。そして一口飲むのを確認すると「着替えを用意するから此処で休んでいるんだよ」と私の返事も聞かずに部屋を出て行った。
しばらくして戻ってきたダイゴさんは宣言通り替えのドレスを片手に抱え、半分程減ったミネラルウォーターにほっと胸を撫で下ろして微笑んだのだ。
「でも知らない人からグラスを受け取るのは感心しないな。ボクが気付かなかったら今頃きみは……いや、何でもない。次からは気を付けて」
私の腰掛けるソファには近寄らず、ベッドの縁に腰を下ろし、ダイゴさんが少し真面目な顔をする。もっともな忠告に頷くしかない私はすみませんと頭を下げた。静かな部屋に溜め息の音が響く。
「ところで、さ」
弱々しく頼りない声だった。途切れて続きを話さないダイゴさんの事が気になって少しだけ顔を上げると、項垂れた頭が視線だけをこちらに向けていて、何を考えているか読めない青い瞳と目が合ってしまった。気まずくてミネラルウォーターへ視線を落とす。今はまだ顔を合わせるのが怖かった。けれど、
「聞いて、{{kanaName}}」
突然声が近くなって顔を上げると、ダイゴさんが目の前に立っていた。顔は影になっていてどこか恐ろしく見え反射的に視線を下げたけれど、もう一度名前を呼ばれ無理やり顔を上げさせられる。
「さっきの言葉、暫く否定しないでほしいんだ」
まっすぐな言葉を選ぶダイゴさんにしては少し回りくどい言い方だった。瞬時には何の事だか分からず返す言葉に詰まっていたら、もう一度、今度ははっきりと告げられた。
「暫くボクの彼女の振りをしてくれないかい?」
直前まで飲んでいたミネラルウォーターが冷えすぎていたのだろうか、体の芯から寒気がして心臓がどくどくと大きな音を立てる。
「最近少し周りが煩くてさ。さっきはきみを助ける為に咄嗟に言ってしまったんだけど、改めてお願いしたい、暫くこのままボクの恋人でいてくれないかい?」
向けられた瞳はまっすぐに私を見つめている。真剣な表情は、決してそれが冗談ではないと告げていた。
いびつな関係を終わらせる事も出来ず、開き直って一瞬の快楽に身を任せる事も出来ず、曖昧な態度で決断から逃げたその先に待っていた結末がこれだなんて、あまりにも可笑しくて涙が出そうだ。
恋人ごっこが嫌だから逃げたのに、それでもなお心の奥底に期待を抱えて離れられなかったのに、こんな結末だと知っていたら物語なんて始める事すらしなかった。
「よろしく、{{kanaName}}」
頬を包むダイゴさんの指先は冷たくて、触れた唇もいつもよりすぐに離れて何も残らなかった。
back