ジャスミンがかないように(2)




 お互い素直になろうと約束をして数週間後、私の前には理由も言わずに険しい顔をするダイゴさんが立っていた。
 今日はやっと本当に恋人になった私達の久々のデートだというのに、ダイゴさんは鋭い視線ばかり向けてきて笑うのは勿論、返事もろくにしてくれない。それでもめげずに今から観に行くミクリさんの水上ショーの事を話し続けると、
「{{kanaName}}が見たいって言うから行くだけで、ボクはバトルの方が好きなんだ」
 重たい溜め息を吐き出されてしまった。
 今までデートに誘うのはいつもダイゴさんだった。それは捻くれた私が彼を信じきれず悪い方にばかり考えていたせいだったけれど、晴れて恋人になった今、私もダイゴさんをデートに誘いたくなった。そんな折、幸運にも今日の水上ショーのチケットを貰った。これはチャンスだと、すぐにダイゴさんへ連絡した。
 私からデートに誘った時は不機嫌な様子なんて見せなかった。それどころかとても喜んでいた。そして白い頬をうっすら赤らめ「誘われるって嬉しいね」なんて微笑んで、わたしの強ばった頬に手を添え返事の代わりに触れるだけのキスをした。その後見つめ合った瞳は世界中の宝石を集めても勝てない程きらきらと輝いていて、顔いっぱいに広がる笑顔は私の心を幸せ一色に染め上げた。
 それなのに、待ち合わせ場所で待っていたダイゴさんは初めの頃に戻ったように冷たく、抱える苛立ちを隠しもしなかった。当然、期待していた笑顔も穏やかな時間もそこにはない。
 どうしてだろう、私は一体何をしてしまったのだろう。どうすればダイゴさんは笑ってくれるだろう。考えてみても原因も解決方法も分からない。
 昨日までいつもと変わらずメッセージのやり取りをしていて、電話だって数日前に欠伸が出るほど夜遅くまでしたばかりだ。その時も変わった様子はなかった。怒らせるような事も失望させるような事も、一切身に覚えがない。それなのに、ダイゴさんは明らかに敵意を向けていた。
「あの、じゃあ今日は他の――」
「きみは見たいんだろう?」
 冷たい言い方に頷く事も首を振る事も出来なかった。私は今日のショーを楽しみにしていた。でも、ダイゴさんに無理させてまで見たい訳ではない。それでは意味がない。
 じゃあどうするのが正しいのだろう。答えを探るようにダイゴさんを見つめても刺々しい瞳は正解を教えてくれない。
「……{{kanaName}}はミクリのショーを見たら笑ってくれるかい?」
 どうしていいか分からず俯いてしまったから、ダイゴさんが今どんな表情をしているか分からない。けれどその声からは先程までの棘が抜け落ち、夜を怖がる幼子のような怯えが感じ取れた。
 その不安げな声に思わず顔を上げると、怒ったような悲しんでいるような、或いは悔しそうな顔がそこにあった。戸惑いながらも頷くと「じゃあ見に行こう。だからちゃんと笑ってね」無理やり作った笑顔が歪に微笑んだ。


 ミクリさんの水上ショーは毎回とても人気で、熱心なファンでもチケットを取るのが大変な事で有名だ。リーグの観戦チケットも負けず劣らず人気だけれど、ショーの人気はその比ではない。ものの数分で完売してしまう。
「こんな席、よく取れたね」
 まだ不機嫌の残る顔が驚いたように席を見渡す。それもその筈、私の貰ったチケットはステージ中央の良席中の良席だった。ダイゴさんの珍しい表情に、問題は何も解決していなかったけれどつい口角が上がる。
「ミクリさんのご厚意に甘えてチケットを頂いたんです」
 先日のパーティで私の背中を押してくれたミクリさんは、その後も何かと私を気に掛けてくれた。もし私がダイゴさんを好きではなかったら、若しくは出会う順序が違っていたら好意の対象になっていたかもしれない。そう思ってしまう程、彼は私に親切だった。彼の優しい眼差しを思い出して頬が緩む。
「ミクリ、から?」
 苛立ちで若干低くなった声にはっとする。ダイゴさんは不愉快である事を隠しもせずに私を睨め付けた。
 私にミクリさんを紹介したのはダイゴさん本人で、ダイゴさんは彼の事を親しい友人だと言っていた。だからどうしてダイゴさんがここまで険しい顔をして不機嫌になるのか分からない。「ミクリはあれで良い奴なんだ」と言って「{{kanaName}}とも気が合うんじゃないかな」と笑っていたのは他の誰でもない、ダイゴさんだ。
「あのパーティから一ヶ月も経ってないのに、ボクの知らない内に二人は随分親しくなったようだね」
 ダイゴさんは一層険しい視線を向けたと思ったら、ふいと逸らして席に腰を下ろした。些細な所作も丁寧な彼にしてはひどく乱暴で、肘掛けに肘をついて長い足を組んで座る様は遠い昔の暴君のようだ。
 恐る恐る隣の席に座って私を見てくれないダイゴさんへ視線を向ける。背けた顔は横顔すら見せてくれない。見えるのは耳くらいだ。
「{{kanaName}}は、」
 今までの声と比べてひどく小さな声だった。耳を傾けなければ会場のざわめきに紛れてしまう程の囁きはしかし、間違いなく私へ宛てた言葉だった。
「ボクだけを好きでいたらいいんだよ」
 その瞬間、視界に広がる光景が百八十度がらりと変わった。
 軽蔑するかのように向けられた険しい視線も、苛立ちを吐き出すように零す溜め息も、途端に恐怖や困惑の対象ではなくなった。
 瞳の代わりに見つめていた耳が薔薇の花弁よりも真っ赤に染まっていく。普段の色白は何処へ消えたのか、首筋もうんと血色が良くなっている。ダイゴさんはうっかり零した幼子のような本音に、すっかり恥ずかしくなっているようだった。
「あの、」
 そういえば、と思い出す。以前ダイゴさんが同じ様に苛立ちを見せたのはトレーナーが彼に勝負を申し込んだ時だった。あの時は私が勝手を言ったから怒ったのかと思っていたけれど、あれも青年の肩を持った私に、ダイゴさんではない別の男性を見ていた私にへそを曲げていたのだ。
 他にも思い当たる出来事がある。カナズミで観劇の際にアブソルの名前が出てこずカゲツさんの名前を出した時だって不満げな顔を見せた。ただ名前を出しただけなのに。
 あの時の彼は「ボク達も格好いいよね?」と私に迫って強引に頷かせて、そうして機嫌を直して微笑んでいた。思い出したらダイゴさんは私が別の誰かへ視線を向けた時に決まって険しい顔をしていた。
 クールで知的でいつだって爽やかに微笑む素敵な男性、それがツワブキダイゴの筈なのに、子供みたいに拗ねて唇を尖らせるのもツワブキダイゴだなんて、一体誰が想像出来るだろう。パーティで彼の上辺だけを見て言い寄る女性には決して信じられまい。
 私は気付いてしまった事実に戸惑って、けれどそれ以上に愛おしさを覚え、自然と緩む頬を必死で隠しながら言葉を続けた。
「私が好きなのは……、ダイゴさんだけです」
 振り向く視線と目を合わせたら照れて逃げ出してしまいそうだったから、顔をステージに向けて視線に気付かない振りをした。何度手を繋いでも肌を重ねても、気持ちを言葉にするのにはまだ慣れない。私の顔もダイゴさんと同じように赤くなっていく。
 頬に熱の篭った眼差しが向けられる。私がそちらを向くのを待っている。恥ずかしくてたまらない。けれどその瞳を受け止めるのは私にしか出来ない事だ。
 熱くなった息をひとつ吐いて首を動かす。澄んだ空より澄み切った青い瞳が私を見つめている。それがゆるりと細められると、私の瞳も同じ様に細められた。


 前回見たショーもそうだったように、ミクリさんのショーは本当に素敵で一瞬の瞬きすら惜しくなる。繰り出される技はどれも美しく力強くそれでいて繊細で、洗練された身体が魅せる見事な演技と合わさってバトルでは決して見ることの出来ないポケモン達の魅力に溢れていた。その時だ。
「あっ、」
 見付けたそれに思わず声を上げていた。慌てて口を閉じてちらりと隣を覗く。私の声はダイゴさんの耳に届いていたようで、僅かに首を傾げたダイゴさんと目が合った。
 どうしよう、正解が分からず視線が泳ぐ。公演中に私語は厳禁で、けれど私を見つめる視線を無視できない。それでも子供じみたジンクスに期待してショーに誘ったなんて、恥ずかしくて素直に言えるはずもなくて。
 結局私は「ミ、ミロカロスが……、」とすぐ目の前を泳ぐ世界一美しいポケモンを指さして、ステージ奥に潜むラブカスの存在を隠した。
 水中を泳ぐミロカロスは流石ミクリさんの切り札を務めるだけあって、一際優雅で美しくて思わず見惚れてしまう。ダイゴさんもミロカロスへ目を向け、その見事な演技に訝しげな眼差しを和らげた。
「水中はミロカロスの……、ミクリの独擅場だからね」
 それでもバトルはボクが勝つけどさ。つんと尖った唇がそう付け加える。
 どうやらダイゴさんはラブカスには気付いていないようだ。無事に誤魔化せたと安堵しつつ、あの子の存在を彼にも認識して貰わないとジンクスは何の効果もないのではと気が付く。ラブカスが再びこちらに寄って来る事を祈りながらステージへ向き直る。
 その後しばらくして、目の前を二匹のラブカスが身を寄せ合って泳いだ。今度は上がりそうになる声を飲み込んで視線だけをダイゴさんへ向ける。二匹のラブカスを映すアイスブルーは、私がそわそわしているのには気付かなかった。
 今日のショーは恋のジンクスになっている件のラブカスショーではない。けれど桃色と黄色のハートが愛の象徴である事には変わりない。それにミクリさんもチケットを譲ってくれた時に言っていた、「私のラブカスも君達を祝福するよ」と。ジンクスの中心である彼がそう言うのだ、恋人とミクリさんのラブカスを見たら永遠に結ばれるというジンクスはきっと本当に力を持っている。
 ダイゴさんはそれを知っているんだろうか。ちらり、視線をラブカスからダイゴさんへ向ける。
 舞台を一心に見つめる横顔からは何も分からなかった。


「私のショーに満足頂けたかな」
 ショーが終わり無事にラブカスも見られて満足していると、ダイゴさんに「ミクリにチケットのお礼を言おう」と引き摺られるようにして舞台裏、ミクリさんの控え室に連れて来られた。
 急な訪問にも関わらずミクリさんは笑顔で私達を迎えてくれた。女性の心を掴むのはお手の物なのだろう。私はその完璧な笑顔に、黄色い声を上げて応援するファンの気持ちが分かったような気がした。
「ああ、ボクも{{kanaName}}も楽しませてもらったよ」
 私が返事をするより先にダイゴさんが口を開く。ずい、と一歩前に出て私へ向けられたミクリさんの視線を断ち切って、
「でも、」
 顔の下半分だけで作られた笑顔でミクリさんを睨み付けた。そして此処へ来た最たる目的を口にする。
「一体いつの間に{{kanaName}}と親しくなっていたんだい? きみがチケットを譲るなんて珍しいじゃないか」
「おやダイゴ、男の嫉妬は美しくないよ」
 ミクリさんが「立ち話も何だし、紅茶でも淹れよう」私達をテーブルへと招いた。けれどダイゴさんは、
「いや、ボク達はすぐに帰るから」
 と、ぴしゃりと跳ね除けた。まったく取り付く島もない。そんなに邪険にしなくても良いのに。そう思ったけれど一瞬こちらを見た瞳がまた不機嫌を映していたから慌てて目を逸らした。
 恋愛感情を伴う〝好き〟はずっと前から変わらずダイゴさんだけなのに、彼は私が見せる好意全てが自分に向かないと気が済まないのかもしれない。本心かは兎も角、常に様々な好意を向けられていたダイゴさんだからこそ、それが当然で絶対なのだろう。
 伏せた視線をダイゴさんへ向ける。不機嫌な様子を隠しもしないでミクリさんへぶつけている。嬉しいような困ったような、複雑な気持ちになる。
「やれやれ。チャンピオン様の相手は大変だろうから心配になってね、私から無理やり連絡先を聞いたのさ。今日のチケットも二人で見て欲しいから贈ったんだよ」
 ミクリさんはダイゴさんから私へ視線を動かし「まったく、心配する事なんて何もないというのに」と肩を竦めた。
 およそミクリさんの言う通りだった。あの日パーティで一度ミクリさんから離れた後、ダイゴさんがまた他の人に呼ばれて一人になった際に再び声を掛けられた。その時「何かあればいつでも相談しておいで」と私のポケナビに番号が登録された。
 チケットを譲ってもらったのも、デートで何処に行こうか悩んで相談したのがきっかけで、「ダイゴは案外こういうのを喜ぶよ」とショーのチケットを半ば強引に贈られたのだ。そうでなければショー数日前にあんな良席を入手出来る筈がない。
「そう睨まないでくれるかな。君達を思って予定になかったラブカスを出した私が、君の恋人に手を出す訳がないだろう?」
「ラブカスが……、何だって?」
 険しい表情だったダイゴさんがその言葉に眉を顰める。どんな反応を返すのだろう。気になってそわそわし始める心が体温を高め、落ち着かない視線はダイゴさんとミクリさんを交互に見つめる。そして何度目かの往復を繰り返したその時、思案するように床へ伏せられていたアイスブルーの瞳が私を捉えた。
「そんなジンクスに頼らなくともボクは決してきみを手放さないのに」
 拗ねた子供のように僅かに膨らんだ頬は薔薇の花弁を散らしたように赤く染まっている。私を捉えて離さない瞳が、今の言葉は決して嘘ではないと語っていた。
 熱烈な愛の言葉に私の頭は真っ白になる。今のはきっと少し大袈裟に言っただけ、だってダイゴさんは私と初めてちゃんと話をした時に――
「だからずっとボクだけを見てて」
 逃さないようにとダイゴさんが私の手を握る。夜空から一番綺麗な星を掬って閉じ込めたように瞳が眩しく輝いている。彼が最も信頼するメタグロスだってこんなに素敵なアイスブルーは見たことがないだろう。私にだけ向けられる、深い情愛の詰まった眼差しだった。
「んん、どうやらダイゴの機嫌も直ったようだね」
 私の事を忘れていないかい? ミクリさんが大きく咳払いをする。はっとして頭を下げたら「仲が良いのは素晴らしい事だよ」艶やかな唇が綺麗な弧を描いた。
「でも、こんな事で簡単に拗ねてしまうチャンピオン様なら、次の試合であっさり負けてしまうんじゃないかい?」
 ミクリさんがくすりと笑う。刹那、ダイゴさんの柔らかな眼差しが鋭くなる。試合直前に挑戦者へ投げ掛けるそれと同じ鋭さを持った瞳がミクリさんを睨み、口元には薄ら恐ろしい微笑みが浮かんでいる。
「冗談でも聞き捨てならないな」
 自信に満ち挑発的な瞳がミクリさんを見据え、それは私にも向けられた。ぞくぞくと背筋が震える。
「ポケモンは一匹でいいね、ボクが一番強くて凄いんだって事を証明してあげるよ」
 さあ行くよ。ダイゴさんが私の手を引いて歩き出す。どうしよう、振り返ってミクリさんに助けを求めたら、肩を竦めて苦笑まじりに溜め息を零された。
「{{kanaName}}」
 棘のある声が私の名前を呼ぶ。前を向くと物言いたげなアイスブルーの瞳が私を睨んでいる。
 なんて我がままで自分勝手なのだろう、こんな些細な視線さえ許してくれないなんて。
 バトルフィールドに立つ彼はもっと穏やかで思慮深くて冷静な人だった。こんな子供じみた嫉妬を露わにする人だなんて思いもしなかった。
 でも、そんな彼だからこそ私は今もダイゴさんと手を繋ぐ事が出来ている。貪欲に私を求めてくれたから、終わらせてくれなかったから、私は今もダイゴさんを真っ直ぐに見つめられている。
「きみはボクの恋人なんだから、ちゃんとボクを見ててよ」
 二つのアイスブルーの中に私が閉じ込められる。
 もちろん、誓うように頷けば、私の大事な恋人は満足したように唇に弧を描いた。


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