ムスカリの手をさないで(1)




 まさかこんな事になるなんて――不安に胸が押し潰されそうになる。けれど当のチルタリスはつぶらな瞳をこちらに向けて首を傾げると、澄んだ声でひとつ鳴いて楽しそうに笑った。


「ひとつ、聞きたい事があるんだ」
 ダイゴさんに誘われカナズミで食事をした帰り道、隣を歩いていたダイゴさんが少し緊張した面持ちで私を見つめた。
「ボクの何がきみに悲しい顔をさせるのかな」
 繋いだ手は少し冷たくて、いつも上を向く眉は頼りなく下がって瞳も不安げに揺れていた。その瞳の中には暗い顔をした女が映っている。私だ。心ここに在らずといった様子で、ひどく浮かない顔をしている。
「ち、違います!」
 はっと我に返り、慌てて首を振る。けれど答えになっていない答えに説得力はなく、ダイゴさんは険しい顔を向けたままだ。
「じゃあどうしてそんな顔をしてるのかな」
「それ、は」
「何か悩み事があるなら話してほしい、ボクが力になるから」
 頼り甲斐のある、力強い瞳が私を見つめる。思わず視線を逸らした。
 ダイゴさんの言う通り、私は今とある悩みを抱えている。でもそれは私とチルタリスの問題で、ダイゴさんを巻き込みたくはない。ぎゅっと口を噤む。
 けれど相手はダイゴさん。そう簡単には引き下がってくれる人物ではない。
「{{kanaName}}が話してくれるまで帰さない」
 じっ、と見下ろす視線はとても冗談には思えなかった。繋いだ手もぐっと強く握り締められ、そう簡単には離してくれない。彼は宣言通り、私が事情を話すまで我慢比べをするつもりだ。
「{{kanaName}}の問題はボクの問題でもあるよ。それとも、ボクじゃ力になれないかい?」
 よく見れば、ぎらりと眩しかった瞳は濡れそぼったポチエナよりも不安そうに震えている。らしくない顔にずきりと胸が痛む。ダイゴさんがそんな顔をしていたら私まで悲しくなってしまう。
「……分かりました」
 このまま睨めっこを続けても、きっと先に折れるのは私だ。私は観念して悩みを打ち明ける事にした。


 私が利用しているポケモンレンタルショップは老夫婦が切り盛りしていた。数日前、いつものようにチルタリスを借りに行くと店の扉に張り紙を見付けた。それは閉店を知らせる内容で、数週間後に店を畳むと書いてあった。
「それは残念だね。{{kanaName}}とチルタリスはとても仲が良かったのに」
 ダイゴさんが悲しむように眉を下げる。
「でも、それだけじゃないんだろう?」
 私はその言葉に頷いて話を続ける。
 私は老夫婦にチルタリスや他のレンタルポケモンはどうなるのかと尋ねた。閉店の理由にポケモンの世話を挙げていたからだ。そうしたら、
「チルタリスを引き取って欲しいと頼まれたんです」
「自分のポケモンを一匹も持っていないに、か」
 そう、所持は愚か、ろくにポケモンを育てた事もない私が、何百種と存在する中で特に世話が大変なドラゴンタイプを、ただ頻繁に借りて懐かれているというだけで、頼まれてしまった。
「じゃあ、断ったのかい?」
 その質問に私は首を振る。
 出来るなら断りたかった。でも、断れなかった。
 老夫婦に説得されてしまったというのもあるし、何よりチルタリスと会えなくなるのが嫌だった。だから私はつい、引き取ると言ってしまった。
「ボクはその判断、間違ってないと思うよ」
 ダイゴさんが微笑む。皮肉でも何でもない、穏やかな笑みだった。
 でも、私はポケモンを育てた事がない。ちゃんと世話が出来るか不安で堪らない。閉店の日が近付くにつれて私の心はひどく重くなり、ふとした瞬間に溜め息を吐いてしまう。安易にその場で引き受けるんじゃなかったと、今は後悔でいっぱいだ。


「なるほどね。ボクが原因じゃなくてほっとしたよ。でもポケモンの事ならすぐに相談してほしかったな」
 話し終えた私に、ダイゴさんが言う。柔らかな語調とは裏腹にダイゴさんの眉間には皺が寄り唇も尖っている。
 ダイゴさんの言う通りだった。チャンピオンの彼を頼ればこの漠然とした不安もあっという間に消し飛ぶだろう。けれど無関係な彼を、何かと多忙な恋人を、こんな些細な悩みで煩わせたくなかった。それに、彼の親しい人は決してこんな事で悩まない。立場も何もかも違う事を改めて突き付けるような悩みを打ち明けるのは、少し怖かった。
「それは、迷惑になったら――」
「迷惑かどうかはボクが決める事だよ。それに約束したじゃないか、全部話そう、って。{{kanaName}}には無理して笑ってほしくないんだ、嬉しい事も悲しい事も、全てボクに分けてほしいんだ」
 刺々しい声には不満が混じり、向けられる視線もちくりと痛い。けれどダイゴさんはすぐにふうと息を吐き出し首を振ると「そういう事なら」きらりと瞳を輝かせた。
「ボクに良い考えがある」
 ダイゴさんの手が腰に提げたボールを掴む。光と共に現れたのは鏡のように磨かれ夜の明かりに眩しく煌めくエアームドだ。何をするのかと見ていたら手を引っ張られてエアームドに乗せられた。その後ろにダイゴさんも乗ると、困惑する私に何の説明もなく空へと飛び立った。あっという間にカナズミの街が小さくなる。
「今夜から二日……、日曜の夕方までかな。ボクのポケモンの面倒を見てもらうよ」
「え、な、何で」
「ボクの子達は元気で丈夫で良い子だから、練習にはちょうど良いんじゃないかな」
「むっ、無理です!」
 勝手に話を進めるダイゴさんに、思わず大声で叫んでいた。チャンピオンのポケモンを練習台にするなんて出来る筈がない。体を後ろへ捻ってもう一度断る。
 けれど背中からしっかりと抱き締められた体は首しかまともに動かせず、ダイゴさんがどんな顔をしているのかほんの欠片も見えない。張り上げた声も強い風にかき消され届いたかどうかも分からない。
 そんな私へ、ダイゴさんが耳元に顔を寄せて囁く。
「大丈夫、{{kanaName}}なら出来るよ」
 星に手が届きそうな程空の高い場所で吹く風は身を切るような寒さを纏っていて、人肌なんてあっという間に流れ去っていく。それでも私の耳に掛かった吐息の熱はじわりと頬へと広がり、体の芯を火照らせ鼓動を加速させていく。背中から伝わる鼓動はゆっくりと穏やかで、ばくばくと煩く忙しない自分の心臓がひどく憎らしい。
 それでも、今回ばかりはこの雰囲気に押し流されてしまう方がいいのだろう。私は前へ向き直りほんの少しだけ後ろの彼に寄り掛かった。


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