アクアマリンはもう遅い




 名前すら覚えていなかった彼女から強引に連絡先を手に入れたダイゴはしかし、翌朝にはどうでも良くなっていた。パーティで彼が出会う女性は総じて嘘が上手く、昨日のあれも脱帽する程演技の上手い女性だったのだろう。変にムキになったが一晩経って冷静になると、ダイゴは自身の底を知らない好奇心にほとほと呆れてしまった。
 だからダイゴは彼女に関わる全ての記憶に封をして普段通りの生活を送った。繰り返すがダイゴは女性に困ってはおらず、彼女程度の女性ならちょっと微笑みかければ簡単に手に入る。昨日はフェアだ何だと尤もらしい事を言って引き止めてしまったが、そんな面倒な女の相手をする必要など一切なかった。
 しかしダイゴの意に反して彼女の記憶は居座り続けた。閉じ込めた筈のそれはふとした時に呼び起こされ、ダイゴへ熱い眼差しを送り、薔薇のように赤く染めた頬で美しく微笑みかけた。ついには決死の覚悟でダイゴへ挑む挑戦者の瞳にすら彼女を思い出してしまった。煩わしかった。
 ダイゴは彼女へ無意識に寄せる期待を粉々に打ち砕くべくポケナビを手に取る。彼女の名前を聞いて一月ほど経った頃だった。


 ダイゴは彼女を最低な女だと罵って今後一切の接触を断つ為、彼女の要求に応えるつもりだった。そうすればどちらも二度と好意を向ける事はあるまいと考えたのだ。
 その為には先ずダイゴが彼女に心底失望する必要があった。そこで選んだのがサファリゾーンだった。彼女のポケモンへの非情な振る舞いを見て、自分の人生に不要な人間だと思いたかった。
 ところが思惑は最初から大きく外れてしまう。チルタリスに乗って現れた彼女は、あろう事かポケモンを労い始めたのだ。
 チルタリスから降りた彼女は慣れた手つきで頬を撫で「ありがとう」と笑う。そしてポロックを与え、リラックスしたその体を何度も撫で、挙げ句の果てには綿雲のような羽に顔を埋めてしまった。チルタリスはその間嫌な顔一つせず、それどころか嬉しそうに囀っていた。
 そこに居たのはポケモンに愛情を注ぐ女性だった。ダイゴの望むような、ポケモンを道具と見なし酷い態度を取る人間などではなかった。ぐらり、地面が揺れるような感覚を覚えて頭が痛くなる。
 目眩のするような光景に、ダイゴは身を隠したまま暫く動けずにいた。約束の時間になってようやく体が動けるようになったものの、どんな顔をして会えば良いか分からなかった。しかし遅刻する訳にもいかない。彼女に付け入る隙を与えてはいけないとダイゴは姿を見せ声を掛けた。
 彼女はダイゴの呼び掛けに怯えた顔を返した。怒りが湧く。ポケモンに見せたあの笑顔は見せないのか、自分を好きだと言ったのは嘘だったのかと、ひどく腹が立った。
 そんな些細な事でへそを曲げる程ダイゴは子供でもないのに、何故か上手く感情をコントロール出来ず、暫く彼女に冷たく当たっていた。見知らぬトレーナーの肩を持った時にはつい声を荒らげていた。
 泣きそうな彼女にはっと我に返り慌てて笑顔を取り繕うが、困ったような怖がるような表情だけが返ってきた。ダイゴは無理に笑うのをやめた。


 ポケモンは地位も肩書きも関係なくダイゴへ接してくれる。だからダイゴはポケモンには正直でいられた。心の中に蓄積する居心地の悪い感情も、自分には決して笑顔を見せない彼女の事も、ポケモンと接する瞬間だけは忘れさせてくれる。ダイゴは出来の良いポロックに感心しながらポケモンを愛でた。
 ちらり、彼女を見やる。最初こそ怯えていたが今やすっかり笑顔になっている。とてもダイゴが嫌うような人間には見えない。
 しかしそうでないと困るのだ。彼女は地位や肩書きでしか人を判断出来ず、ポケモンにも酷い態度を取る人間でなければならない。そうでなければダイゴは彼女への期待と淡い思いを捨てられない。だからどうしても彼女は最低の人間でなければならない。
 けれどダイゴの悲痛な願いは、彼女の嗚咽混じりの別れの言葉を前に、呆気なく打ち砕かれる。
「こんなの、やめましょう、もう。ごめんなさい。ありがとう、ございました」
 ダイゴの目の前に、瞳いっぱいに涙を溜めた女性がいた。突然の事にぎょっとして、けれど次の瞬間に全てを悟る。
 彼女は――{{kanaName}}はダイゴの望む通りの人間だった。ダイゴの努力を認め、人柄を愛し、ポケモンにも優しい女性だった。
 なんて事をしてしまったんだ。自分の愚かな行いがダイゴを責め立てる。頭がぐらぐらして足に力が入らない。どうにか踏ん張ろうにもその足元こそ滅茶苦茶だった。
 ピカチュウの鋭い鳴き声が辺りに響いてはっと我に返る。ダイゴを心配そうに見上げるピカチュウを撫でてやりながら彼女の姿を探す。走り去った方を見ても、その姿はとうに見えなくなっている。
 まずい、ダイゴは血相を変えて彼女の消えた方へ走り出す。彼女は戦えるポケモンを持っていない。ポロックもダイゴが奪ってしまった。もし何かあっても、{{kanaName}}は身を守る術を持ち合わせていない。震える拳を強く握ってダイゴは走った。
「危ない、から」
 暫く走った先に彼女の背中を見付け、駆ける足に力を込めた。手を伸ばし腕を掴むと彼女が小さく悲鳴を上げる。ダイゴは一瞬躊躇ったがそれでも掴む手は離さなかった。
「ポケモンも持たず、道具も持たずにひとりになるなんて……、きみはもっと賢いと思ってた」
 いつものダイゴなら、相手を気遣う言葉を言えただろう。しかし今の彼はひどく動揺し、自分の感情もうまく扱えない。自身の発した非難めいた言葉に後悔したが他の言葉は出てこず、ダイゴは口を閉ざすしかなかった。
 その代わりに掴んだ手は決して離さず、少しでも安全な場所へと彼女を引っ張った。尤も、それを彼女が嫌がったのは顔を見なくとも分かっていた。
 入口まで戻ると{{kanaName}}がダイゴの手を振り払った。此処で行かせてしまったらもう二度と会えない。ダイゴは彼女の名前を呼ぶ。
「{{kanaName}}さん、」
 背中しか見せてくれない彼女の体がびくりと大きく跳ねた。直後、鼻をすする小さな音が聞こえる。名前を呼んだけで泣かせてしまうのか、ダイゴは自分の犯した罪の大きさを痛感する。
「さっきは、酷い事をしてしまって、ごめん」
 {{kanaName}}の返事はない。今更謝っても遅いのは明白だった。それなのにダイゴはこの期に及んでもまだ謝れば許されると思い上がっていた。だから、
「よかったら、」
 家まで送るよ。そんな言葉が喉まで込み上がっていた。すんでのところで思い留まって首を振る。
 本心でなかったとは言え、それはダイゴ自身が望んだ結末だった。望み通り、もう二度と会うことはないだろう。ダイゴは力なく笑う。
「じゃあ、ボクはこれで」
 飛び乗ったエアームドが空へと羽ばたくその瞬間、風の音に混じって別れの言葉が聞こえた。彼女の中でダイゴが思い出になった瞬間だった。


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