Candytuft smiles, love comes true.
初恋の少女と憧れの人
He treats me like a lover, but it's all in my mind.
「{{kanaName}}です、よろしくお願いします」
今日この瞬間のために沢山調べて何度も練習した挨拶は、噂通りの美女とその二人に引けを取らないジムリーダーを前にしたら全て喉の奥へと引っ込み、名前を告げるだけで精一杯だった。
わたしは完璧な笑顔を浮かべる三人へどぎまぎしながら頭を下げる。下げた視界に見えた二人のヒールはどちらも綺麗で、わたしの黒のローヒールパンプスはひどく野暮ったく感じた。これじゃあダメ、今日の仕事が終わったら新しいパンプスを買いに行こう。
顔を上げ、改めて今日から同僚となる美女を見る。初対面の筈なのになぜか見覚えがある。どこだろう、と記憶を辿るとコンテストの壇上だと気が付いた。二人ともハイパーランクで何度も優勝経験がある実力者だ。途端に緊張が背筋を走り、ごくりと唾を飲み込んでいた。
「ふふっ、そんなに気負わなくて大丈夫だよ。他のジムと比べて少し特殊な事もあるけれど…、大体の事はリーグでの研修の通りだから」
緊張で固まったわたしに、ミクリさんがくすくす笑う。腕を組み片手で口元を隠して上品に笑う姿はよくある仕草なのにやけに艶っぽくて、今度は別の種類の緊張に襲われてしまう。
わたしは特別ミクリさんの事を好きだったり、贔屓して応援している訳じゃない。好きな有名人を挙げろと言われれば五指には入るけれど、一番に挙げる人物でもない。
それでもこうなってしまうのだから、もしも彼の大ファンがスタッフになったらどうなってしまうんだろう。仕事なんてちっとも手が付かなくてすぐにクビになってしまいそうだ。
実際、熱烈すぎるファンはそのジムのスタッフになれないと聞いた事がある。だから熱心なファンが目指すべきはジムトレーナーであるとも。わたしも研修で知ったばかりだけど、ジムトレーナーの採用はジムリーダーに一任されていた。リーグ運営が応募から採用、配属先決定まで全て行うジムスタッフとは何もかもが違っていた。
「では、今日もチャレンジャー達へ最高のパフォーマンスを披露しよう」
完璧な弧を描く唇から覗く白い歯がきらりと輝く。
ここはジム内の一室でミナモにある大きなコンテスト会場ではない。今から始まるのも煌びやかなショーではなく、どの街でも日々行われているポケモンバトルだ。
けれどミクリさんの見せた笑顔は大舞台に立つ“ミクリ様”そのものだった。一瞬にして小さな控え室が出番を待つ舞台袖へと変わる。ふと視線をミクリさんから先輩へ向ける。彼女達も瞳の奥に強い光を湛えて演者の顔になっていた。
ジムスタッフはジムトレーナーと違ってひっそり淡々と業務を行う人間だと思っていた。少なくともリーグでの研修はそうだった。
けれどここルネジムは違う。業務が何であれ、スタッフは皆ルネジムという場を彩るパフォーマー、だから一秒だって気を抜いちゃいけないんだ――それがわたしがルネジムで最初に学んだ事だった。
*
ジムスタッフとは、簡単に言えばジムトレーナーがしない仕事をする職員だ。
ジムトレーナーは文字通りトレーナーで、挑戦者にとってはジムリーダー戦前の肩慣らし、或いはジムリーダーに挑戦する実力があるか確かめる壁だ。けれどジムによってはジムトレーナーとの試合なしでいきなりジムリーダーと対戦できる事も少なくない。
ルネジムもそうだ。ここのジムトレーナーの多くは希望者やパズルを失敗した人が戦う相手で絶対に戦わねばならない相手ではない。だから誰とも戦わずにミクリさんに挑戦する人もそれなりにいるらしい。
今日の挑戦者も紙の上で慎重にパズルの答えを導いてから、一度も下へ落ちる事なくミクリさんまで突破した。わたしは凄いと感心していたけれど、ジムトレーナーのみんなは不満そうな顔をして挑戦者を映すモニターを眺めていた。
彼女達はミクリさんに選ばれたトレーナーで、心底ミクリさんを慕っている。だから明らかに実力の足りない挑戦者が、自分達と一度も手合わせもせず無謀にミクリさんへ勝負を仕掛けるのが許せないのだとか。
たしかに、今日の挑戦者は受付時の手持ちポケモン情報を見る限り負けが濃厚だった。昨日の申し込みからジム挑戦まで一日猶予があったとて、ポケモンのレベルはそう簡単には上がらないし、急激なレベル上昇は挑戦前に別途申請が必要になる。けれどそんな事もなかったから彼のポケモンの実力はあまり変わっていないはず。挑戦者は道具の使用に制限がないとは言え、わたしにも無謀な挑戦に見えた。
そんな事を考えながら、わたしはタマザラシの世話をしていた。この子はショー専用のポケモンで、勤務初日にさっそく任されたポケモンだ。
ルネにはいくつか他のジムにはない業務があって、その一つがこれ――定期的に開催される水上ショー用のポケモンの世話だった。以前は全てミクリさんが面倒を見ていたそうだけど、一週間ほど寝込んだ時にかなり大変な事になったらしく、それ以降基本的な世話はジムスタッフがするようになったらしい。配属先決定の際にトレーナー経験の有無を確認されたのはきっとこの業務の為なんだろう。ルネジム希望で、けれどトレーナー経験のない女の子はキンセツジムに配属されていた。
小柄なタマザラシのブラッシングを終えるとちょうど試合も終了したようだった。どこかへ転がろうとするタマザラシを押し止め水槽へ入れると受付に急ぐ。
まだ勤務一週間の新人だけれどジムスタッフはその新人含め三人しかおらず、先輩達はわたしと違って常に忙しく働いている。試合後の手続きといった比較的簡単な作業は新人が率先してやるべき仕事だった。
受付に着くと、無謀な挑戦者はこちらが困ってしまうほど大仰に落ち込んでいた。試合に関してスタッフから話題に挙げるは厳禁で、励ましの言葉も原則禁止と言われている。とはいえこんなにショックを受けているトレーナーを目の前に、無視して手続きをするのは薄情な気がして心苦しい。だからつい、
「あの、さっきの試合、」
声を掛けてしまった。今にも泣き出しそうな顔がわたしを見上げる。彼が少しでも元気になるのなら、と言葉を続けようとして口を開く。
けれどその時、彼の後ろに真夏の太陽さながら輝く白を纏った姿を見つけた。新人の働きぶりを見に来たのだろうか、ミクリさんがそこにいる。
ミクリさんは困ったように僅かに眉を下げて小さく首を振った。わたしはすんでのところで言葉を飲み込んで、
「いえ…、何でもありません。こちらお返ししますね」
預かっていたトレーナーカードを挑戦者に返した。そして覚えた通りに次回以降の挑戦時の諸注意を伝えると、最後にポケモンフーズの試供品を渡した。リーグスポンサーの新商品らしい。本当は期間中に一回限りの配布だったけれど「それだと配り終えるより先に賞味期限を迎えてしまうよ」とミクリさんが言うから全員に配っている。彼にはこれで3つめだった。
全てを終えて挑戦者を見送ると、ミクリさんが受付へ、つまりわたしへ近づいて来た。受付で閉まった自動ドアをぼんやり見つめていたわたしは慌てて背筋をピンと伸ばす。どうにか無事に手続きを行えたこと、そして凹む挑戦者に何もしてやれないもどかしさに気を取られて、ミクリさんの視線をすっかり忘れていた。腑抜けた顔にきゅっと力を込めて真面目な顔を作る。
「ふふっ、今は挑戦者もいないからそこまで気を張らなくて構わないよ」
ミクリさんがくすりと笑う。そう言うミクリさん自身はステージ上で見せる笑顔で笑って、身振りだってパフォーマンス中のように大振りで。わたしだけが気を抜くなんて出来やしない。「だっ、大丈夫です」と首を振ってキッ、と視線に力をこめる。
「どうだい? 仕事には慣れたかな」
「はい。少し…、ですけど」
含みを持った微笑みと探るような瞳に緊張が走る。頭をよぎるのはリーグでの研修の際に耳にした嫌な噂。どこかのジムでは仕事の出来ないスタッフは数ヶ月でクビになったり、そうでなくともとんでもない場所に飛ばされてしまうんだとか。半分はガセだと思うけれど、ルネジムのスタッフが高い水準を求められるのは事実で。仕事が出来ないイメージだけは持たれたくなかった。
穏やかそうに見える瞳をまっすぐに見返して答える。と言っても、ウソは吐けないから曖昧な返事になってしまったけれど。
「それは良かった」
ミクリさんは微笑みを絶やさず、何か納得するように頷いた。それはコンテストで審査員をしている時にも見せる表情で、コンテストではそうやって笑った後に必ずパフォーマンスを高く評価していた。ピリリとした緊張感の中に安らぎが訪れる。
わたしは今まで、それを向けられた出場者が一気に顔を明るくして満面の笑みを浮かべるのがわざとらしいほど大袈裟に見え、いくら何でも媚びを売りすぎだと思っていた。
けれどいざ、自分がその笑みを正面から受け止めて気がつく。
エメラルドグリーンの海を湛えた瞳がきらりと光り、それがゆるりと細められる。薄桃色の唇も緩い弧を描いて、見つめた先の相手を肯定するように優しく微笑まれる。ミクリさんの魅せる仕草の全てに心がぽんっと跳ねて、自然と頬が緩んでいた。
「ところで{{kanaName}}、君はどうしてスタッフが挑戦者に声掛けをしてはいけないか理由を知っているかい?」
「え? えっと……、」
リーグの研修でも先輩達からも声を掛けるなとは注意されたけど理由までは教わっていないし、質問もしなかった。励ましの言葉は時にプレッシャーにもなるからダメなんだろうと一人勝手に納得したからだけど、もしかして何か別に理由があるのだろうか。わたしは自分の推測に自信が持てず言葉を濁してしまう。ミクリさんが口角を上げる。
「ふむ、君はそろそろ休憩の時間だったね。良い店があるんだ、答えはそこでランチをしながら教えてあげよう」
「えっ、あの、」
「用意をしておいで。二人には私から伝えておくよ」
わたしが何か言うより先にミクリさんが歩き出す。拒否権はなかった。実は控え室の冷蔵庫には早起きして作ったお弁当が入っている。でもそれは夕食に回すしかない。せっかく作ったのに――そんな事を無理やり考えてみたけれど、にわかに煩くなる心臓はミクリさんしか見ていなかった。
*
ルネは山の中に広がる街なだけあってどこもかしこも坂道だ。勤務初日に先輩達のお洒落なヒールに憧れわたしも履き心地より見た目を優先したパンプスを履いているけど、山登りのような坂道にこのパンプスは絶対に間違っている。ミクリさんがゆっくり歩く人で良かった。この速さなら何とかついていける。
それでも、履きなれないヒールで急勾配な山道は苦しかった。昔履いていたランニングシューズが懐かしい。あれならこの山道も苦労せずに登れるだろう。
あるいは、わたしの足がもっと長ければまだ少しは楽だったかもしれない。前を歩くミクリさんのすらりと長い足を見つめながら思う。
ミクリさんが足を動かす度に白のパンツにうっすらと脚の形が浮かび上がって、引き締まった太腿や鍛えられたふくらはぎがそこに現れる。わたしもルネの山の上の方に引っ越せばあんな健康的で魅惑的な脚になれるのだろうか。そんな事を考え、あれはミクリさんの日々の努力の賜物だと首を振った。
「少し歩かせてしまったね。ここだよ。味はこのミクリが保証しよう」
ぽつぽつと他愛のない話――たとえば世話を任されたタマザラシの話など――をしていたらミクリさんが足を止める。すっと伸びた五指が向けられた先にはしかし民家しかない。ただよく見ればその中の一軒の玄関前には小さなボードが立て掛けられていて、実物そっくりのイラストを添えてメニューが書かれていた。
「あ、ここ…、」
ミクリさんから遅れないよう、会話を途切れさせないようにと必死だったわたしは周りを見る余裕がなくて気づいていなかった。ここは数日前、お昼を食べようとやって来たお店だった。けれど、
「その時は予約で席がないって言われて…。人気みたいですね、ここ」
ミクリさんも絶品と言うのだし、きっと名店なんだろう。それならふらっとやって来た人間が入店出来ないのも仕方ない。今日は席が空いていればいいんだけど。
「あぁ、たしかにそうだね。ただし、君は少し思い違いをしているようだ」
「えっ」
ミクリさんが眉を下げて困ったように笑う。そしてドアを強く押し開け、「ここはルネの人間に紹介されないと食事が出来ないんだ」戸惑うわたしの手を取ると店内へ招き入れた。
「彼女は{{kanaName}}、うちの新しいスタッフさ。よろしく頼むよ」
わたし達を出迎えた店員にミクリさんが言う。数日前わたしの入店を断ったその店員はにっこり笑って「承知しました」と頭を下げた。数日前はつっけんどんな態度だったのに、ひどい変わり様だ。
そのまま奥のテーブルに案内され、ミクリさんがわざわざ椅子を引いてくれた。どくんと高鳴る心臓を抑えて腰を下ろす。
まるでデートみたい。そんな馬鹿げた考えが浮かんで慌てて否定する。外のからっとした爽やかな青と白とは対照的な店内の雰囲気に、飲み込まれてしまいそうになっていた。
不躾にならない程度に店内を見渡す。お店は小さく、ジムのスタッフ全員を連れてきたら何人も席が足りなくなってしまうだろう。店員も一人、あとは厨房にコックがいるだけで随分小ぢんまりとしていた。やや暗い店内を照らすのはアンティーク調の照明ランプで、橙色の暖かな光が控えめに店内へ降り注ぐ。ミクリさんの雪のように白い肌が、ほんのり明るく色付いている。
「他にも、こういうお店はあるんですか」
何となく、ここ一件だけとは思えず尋ねていた。ミクリさんがちょっと驚いた顔をして微笑み返す。不敵な笑みに今度はわたしが驚く番だった。
「他の街より少し隔たれた環境だと、新しい人間との仲より旧知の仲を優先してしまうのだろうね。私が子供の頃から知る店は大抵“そう”だよ」
「そう、ですか……」
それが良い悪いは別として、わたしのような新参者にとっては大問題だ。お弁当作りが面倒な日には街探索もかねてお店を回ろうとしていたのに、一見さんお断りのお店が何軒もあってはたまらない。大人しく毎日お弁当を作るか、もしくは家の近くでお昼を買ってからルネに来るのが良いかもしれない。せっかくルネに来ているのにもったいない気もするけれど。
「ふふっ、他に気になる店があるなら遠慮せず私に言ったらいい。私なら何とでも出来るから」
目の前の唇が美しい弧を描く。エメラルドグリーンの瞳は白熱球の光を受けて黄昏時の海の色をしていて、何だか妙に照れてしまう。夕暮れの海はそれだけで胸をざわつかせるのだから。
舞台上の煌びやかな笑顔でもなく、ジム内での包容力のある微笑みとも違う、熱っぽい眼差しがわたしに向けられていた。ここへ来るまでの登山のせいか、急に体が熱くなっていく。わたしはもごもごとお礼を言うと、この胸の高鳴りを誤魔化すようにメニューを取って昼食選びに意識を向けた。
メニューに添えられた写真はどれも美味しそうで、なかなか料理が決まらない。しかもミクリさんは既に決めていてわたしが選ぶのをじっと待っているから、余計に焦って決められない。いつもの即決力は何処に隠れてしまったんだろうと泣きたくなっていたら、「そうだね、」ミクリさんの爪先まで綺麗に整えられた指がメニューをとんとんと叩いた。
「これがオススメだよ」
顔を上げると目が合った。メニューに逃げる前と同じあの瞳がわたしを見つめている。
「じゃ、じゃあそれで…、」
急いで目を逸らす。けれどドキドキは止まらない。
今日のこれは同じジムで働くスタッフとして一緒に食事をしてるだけなのに、ミクリさんに熱く見つめられると勘違いしそうになる。眼差しに、この時間に、特別な意味を見出しそうになる。顔が良い人ってきっとこうやって勘違いされてトラブルに巻き込まれるんだろう。わたしも迷惑にならないように身を弁えないと。ミクリさんが平凡なわたしに特別な好意を抱くなんて有り得るはずがないのだから。
「それでは、さっきの話に戻ろうか」
軽く手を上げ店員に素早く注文を頼んで、ミクリさんが緩やかに口角を上げる。業務を伝える時に見せる笑顔に、わたしはほっとしつつ背筋を伸ばし姿勢を正して「はいっ」少し上ずる声で返事をした。ミクリさんがくすっと笑う。
「簡単なことだよ。あれは、スタッフの安全の為なんだ」
「あんぜん…、ですか」
答えを聞いてもすぐにはピンとこなくて思わず顔を傾げてしまう。でもミクリさんもそれは想定していたらしく、瞬きをゆっくり一つして言葉を続ける。
「君が挑戦者だとして、負けて落ち込んでいる所へ優しい言葉を掛けられたらどう思うかな?」
「次も頑張ろうって、思います」
「ああ、きっと他の人もそうだろう。けれど同時に、その相手へ好意を抱きもしないかな?」
「あっ、」
「以前それを自分への特別な好意だと思い込んでしまった挑戦者がいたそうだ。それが色々と大変だったらしい。その一件以来、スタッフから挑戦者への不要な声掛けは禁止されている」
一息つくように、ミクリさんがグラスに口をつける。ただの水なのにミクリさんが飲むとそれだけで高級ミネラルウォーターに見えてしまう。ざわつきの収まらない心臓のせいで、淡く色づく唇から目が離せない。
「だから{{kanaName}}も言動には気をつけるように。特にルネを訪れる挑戦者は腕が立つ。もし何かあったら大変だ」
「はっ、はいっ!」
ミクリさんの真剣な瞳がわたしを貫く。思いの外鋭い視線に声が上擦って少し吃ってしまった。
ちょうどその時、料理が運ばれて美味しそうなパスタが二皿テーブルに並ぶ。出来たてのパスタは仄かに湯気を漂わせ、鼻を擽る匂いが空腹の腹を刺激する。
あまり確認もせず勧められるままに頼んだ品だったけれど、ミクリさんのオススメなだけあって間違いはなさそうだ。フォークを手に取りいざ一口、とパスタの山へフォークを沈めかけて視線に気づく。ミクリさんの方を見ると、彼はフォークすら手に取らずにこにことわたしを眺めていた。
「ふふっ、こっちも気になるかい?」
わたしって、そんなに物欲しそうな顔をしているんだろうか。すぐに違いますと大きく首を振って否定する。なのにミクリさんは何をどう勘違いしたのか、トレーニング後にポロックをねだるポケモン達へ向ける眼差しと同じ色の目でわたしに頷く。
「それなら半分こにしようか」
「えっ、あ…、だっ、大丈夫ですっ」
もう一度、今度はさっきより激しく首を振ってフォークをパスタへ突き刺す。掬ったパスタは一口分にはずいぶん多かったけれど構わずクルクルとフォークに巻き付け無理やり口の中へと押し込んだ。
半分こ、だって。常に大人の余裕を纏って若いトレーナーを導くミクリさんから、そんな可愛らしい提案が飛び出てくるなんて、まったく思ってもいなかった。不意打ちのそれに、わたしの胸は見事射抜かれ心臓は全力疾走した後のように速くなる。
けれど、ちらりと戻した視線が捉えたミクリさんに、騒がしかった心臓が落ち着きを取り戻す。
ミクリさんは、わたしの方は一切見ずに食事を楽しんでいた。からかわれたんだと気がつく。
少し、ほんの少しだけ何かを期待してしまった自分が恥ずかしい。ミクリさんにとってわたしは新人スタッフで、面倒を見てやるべき相手で、せいぜい“可愛い部下”だ。
今こうやって食事をしているのもまさにそんな話をする為だったのに、ここで浮かれてしまったら何も理解していないと告げるようなもので。わたしは恥ずかしさに熱くなる頬と、一丁前にショックを受けて痛む胸に耐えながらパスタを口の中へと運んでいく。
けれど、つい今しがたまで食べるのが楽しみだったパスタはちっとも味が分からなくて、手を動かす度に腹は膨れていくのに全然食べた気がしなかった。
*
「おや、奇遇だね」
昼食には少し遅い時間、控え室でひとりお弁当を広げていたらミクリさんがやって来た。提げた袋は近くのベーカリーのもので、どうやらミクリさんも今から昼食のようだ。
「隣、いいかな」
「えっ、あ、は、はいっ」
ミクリさんはどんなパンを買ったんだろうと考えていたわたしの隣へ、ミクリさんが腰掛ける。正面の椅子も斜め向かいの席も空いているのにわざわざ隣を選ぶミクリさんに、頭は一瞬にして沸き立ち体温が勝手に上昇していく。
先週のランチといい今日といい、ミクリさんのコミュニケーションはまるで好きな人へのアプローチだ。
普段ミクリさんの周りにいる女性はきっと美人や有名人ばかりだからこの接し方でも勘違いはしないのだろうけど、生憎わたしはただの一般人、ミクリさんにその気がないのは分かっていてもつい胸が高鳴ってしまう。そのせいでこの二週間で彼への認識はすっかり変わっていた――“テレビでよく見るすごい人”から“こんなわたしにも優しい素敵な異性”へと。
「今日は午後の挑戦者がいないから、君も少しは楽かな」
「……そう、ですね」
「此処には慣れたかい?」
「えっと…、はい」
「ふふっ、でも私にはまだ慣れないようだね」
くすくす笑う声が隣からしてちらりと横目で見ると、ミクリさんはわたしの方をまっすぐに見ていた。木陰から大木を見上げた時に映る濃淡ゆらめく木の葉を思わせる瞳が、わたしの照れてぎゅっと力んだ顔を見つめていた。木漏れ日のような暖かな表情が、わたしへ微笑んでいる。
心臓が一際大きく跳ね、脳内に都合の良すぎる馬鹿げた妄想が広がっていく。それを必死で振り払って「すみません」と謝るとミクリさんがまた笑った。艶のある髪がさらりと揺れて、ふわりと爽やかな香りが漂う。どこまでもミクリさんはセンスのある人だった。
「嫌われていないのなら、今はそれで十分さ。ところで、今日はお弁当なんだね」
ミクリさんの視線が、わたしからお弁当箱へと移る。見栄えを無視して食べたいものだけ詰め込んだそれはまったく美味しそうには見えない。休憩は一人ずつ順番に取るから、どんなお弁当を持ってきても誰にもバレないと完全に油断していた。ミクリさんがここで食べる事もあると知っていたらもう少し見た目も努力したのに。
恥ずかしさで、ミクリさんに頷きを返すしか出来ない。当然目を合わすなんて以ての外で、逃げるように箸を握る自分の手元へ視線を落とした。何を言われても、視線さえ逸らしていれば何とか受け止められるだろう。
「…………ミクリ、さん?」
紳士なミクリさんが酷い事を言うはずはないけれど、気を遣わせた言葉であるのは間違いなかった。だから覚悟して待った。
けれどミクリさんは何も言わない。それほどまで衝撃的だったのかと恐る恐る視線を向けたら、ミクリさんはなぜかじっとお弁当箱を見つめていた。
「ああ、いや…、久しく手料理を食べていないと思ってね」
「そ、そうなんですか……」
意外な言葉だった。てっきりミクリさんには話題にならないだけで美人の恋人がいるのだとばかり思っていた。でも今の言葉が嘘じゃないのなら、もしかしてミクリさんには今恋人がいないのだろうか。それも、長い間。ああでも、単に恋人が作らないだけの可能性だって充分にある。それに下手に詮索するような真似はよくない。聞かなかったことにした方がいい。
「意外、という顔をしてるね。皆が思う程、私は器用ではないんだよ。相手がいないからその手の話題を提供出来ていないだけさ」
苦笑するミクリさんは、けれどどこか楽しそうに笑っていた。恋人がいなくてもミクリさんの私生活は充実しているんだろう。一瞬でも下世話なことを考えてしまった自分が恥ずかしくなる。
「……まあでも、いない訳ではないのだけどね」
「え、あっ、すみません、今なんて」
「ふふっ、何でもないよ」
ぽつりと呟いた言葉は、わたしが音を拾って意味を理解する前に空気の中へ溶けてしまった。何を言ったか気にはなったけれど、ミクリさんは微笑むだけで何も答えてくれなかった。
その後、短い沈黙を挟みながらもぽつぽつと会話、もとい問答に近いやり取りを交わしていたら、ついに話題が尽きてしまった。何か話せる事はないかなと頭を捻っても何も出てこない。
あまりプライベートな話をミクリさんに訊ねる訳にもいかないし、かと言ってポケモン自慢をする程の仲でもない。なら早く食べ終えて出て行けばいいのだけど、緊張のせいで食欲はどこかへ飛んでしまって遅々として食べ終わらない。
どうしよう、気まずさを覚える沈黙に思わず眉間にしわが寄る。その時、ミクリさんが「君は」わたしに声を掛けた。
「ルネに不慣れのようだけど、今まで来る機会はなかったのかな」
「……小さい頃に、一度だけ、あります」
「そう、小さい頃に…、ね。その時のことは忘れてしまったのかな」
「えぇっと……」
促されるまま、記憶を呼び起こす。と言っても記憶は曖昧でひどく朧げだ。つい最近夢に見たけれど覚えているのはその事実だけで、内容はもう殆ど思い出せない。唯一思い出せるのは空の青さだけだった。
テーマパークがあるわけでも子供の楽しめる遊び場があるわけでもないルネで、一体わたしは家族と何をしたんだろう。何か特別な思い出があったような、なかったような……
「……そうだ、人魚姫!」
一瞬、脳裏をよぎった少女の姿に大声を出していた。サンドウィッチを頬張ろうと口を開けたミクリさんが瞳を真ん丸に見開く。いつかの夏祭りで取り損ねたスーパーボールみたいに丸くて、蛍光灯の光を反射してキラリと光る。
「わたし、ルネの子に会ったんです。綺麗で可愛くて、泳ぎも上手で…、人魚姫みたいな子でした」
「にんぎょ、ひめ……」
「あ、あの、えっと、」
エメラルドグリーンに困惑の色が浮かんでいる。思い出したはずみで思わず言葉にしたけれど、あまりにも子供っぽい表現だった。
わたしは失敗に頬が熱くなるのを感じながら言い訳するようにあの日の出来事を思い出せる限り捲し立てた。人魚姫みたいな女の子に出会って、ルネを冒険して、海も泳いだはずで、楽しい時間を過ごした、と。
ミクリさんは興味深そうに話に耳を傾けてくれて、そうして一言、わたしに訊ねた。
「その子の名前は?」
「名前…、ですか」
「その子が本当にルネの住人なら、私も知っているかもしれないから」
確かにそうかもしれない。わたしはなるほどと頷き彼女の名前を伝えようとして、そして、
「すみません……、覚えてないです」
頭を下げた。
そもそもが遠い昔の記憶だ、思い出せる事より忘れてしまった事の方が多い。それに夢の中で像を結んだあの女の子が、本当に出会った彼女の姿とも限らない。歳の近い女の子だと思ってたあの子は案外もっと年上のお兄さんだったかもしれない。人魚姫みたい、という言葉のイメージがあの子の姿形を作り上げた可能性だって充分にあった。
それでも何か特徴の一つくらいは、と思うけれど今ではあの子の着ていたセーラー服が薄らぼんやり思い出せるだけ、人探しの手掛かりにはなりそうもない。ほんの僅かに、ミクリさんに話せばあの子にまた会えるかもと期待してしまったけれど、根本的に情報が足りないから諦めるしかない。
「それは残念だ。人魚のように華麗に泳ぐ少女に……今はレディか、私も会ってみたかった」
ミクリさんが最後の一口を口の中へ放り込む。そうして一緒に買ってきたコーヒーも飲み干すとテキパキとゴミを纏めて立ち上がった。緊張で食事の進まなかったわたしと違って、ミクリさんは話を聞きながらも食事を済ませてしまったのだ。わたしも早く食べなきゃ、と慌てて手を動かす。
「私は行くけれど{{kanaName}}はちゃんと休憩をしなさい。休憩も仕事の一つだよ」
小さな子供をあやすような柔らかな視線が微笑みかける。ミクリさんとはそれ程歳も離れていないはずなのに、わたしが新人という事もあってどうにも優しくされすぎている気がしてならない。そのせいでわたしの心臓はそろそろ限界を迎えそうになっている。
「そうだ{{kanaName}}、君は生クリームは好きかな」
「えっ、あ、はっはい。好き…、です」
対象はわたしではないのに、ミクリさんが発する“好き”の言葉に胸が時めくのを抑えられない。
ミクリさんと毎日顔を合わせながら平然と仕事をする先輩達は実は仙人なのかもしれない。わたしは彼の意味深な視線や女性をあっという間に虜にする微笑みに、一生悩まされる気がしてならない。先輩達のように受け流せるにはどれくらいの時間が必要なんだろう。
「そうか。なら君に頼みたい事があるんだ」
そう言って笑みを浮かべるミクリさんが見せてきたのは彼のポケナビで。ミントグリーンの傷一つないそれはある画面を映し出している。覗き込むとそこにはクリームたっぷりの美味しそうなパンケーキが表示されていた。
「ショーが近いとこの手のものはあまり摂りたくなくてね。でもこの店だけ行かないという事も出来ないから困ってたんだ。{{kanaName}}が代わりに食べてくれると助かるんだが…、どうかな?」
もう一度写真を見る。とろとろのクリームはパンケーキよりも高く盛られ、とろりと皿に垂れ落ちている。パンケーキも見るからにふわふわで、三段重ねだけどあっという間に食べてしまいそうだ。
右下に見える値段はあまり可愛くないし、太ると言うならわたしだってそうなんだけど、あのミクリさんにマリルみたいなつぶらな瞳を向けられたら断るなんて出来ない。大の大人に、それも自分よりも年上の素敵な人間に可愛いだなんて失礼だと思いつつ、きゅんと胸を貫く愛おしさにわたしの抵抗なんて無意味だった。
「ありがとう。じゃあ明日はここでランチにしよう。ここも紹介がないと入れないからちょうど良い」
「えっ? あの、わたしひとりで」
「じゃあよろしく、{{kanaName}}」
今度こそ、ミクリさんは部屋を出て行ってしまう。後に残されたわたしは、思っていたのと全く違う展開にしばらく呆然とするしかなかった。
後から聞いた話によると、ミクリさんは新人スタッフに限らずスタッフ全員にあんな事――休憩時間直前にランチへ誘って問答無用で外に連れ出すらしい。ただ、話を聞く限りわたしのように二人きりで食事をしたり前日から約束を取り付けることは滅多に、より正確に言うなら先輩の知る限りでは聞いたことがないらしい。
現実的には有り得ない、けれどこの状況を説明出来そうなひとつの仮説が浮かび上がる。けれどわたしはそれを胸の奥へと埋め込んで蓋をする。久々の新人につい構いすぎているだけだと無理やり心を納得させて、わたしは今は仕事に専念すべきだと気合いを入れ直した。
恋人みたいに優しくされる
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