Candytuft smiles, love comes true.
初恋の少女と憧れの人
He approached me fiercely and I fell in love with him.
ルネジムに勤務してもうすぐ1ヶ月、わたしはジム内のポケモン用プールの縁にしゃがんで呻くように大きなため息を吐いていた。プールの中には世話を任されたタマザラシ達が泳いでいるけれど、ここ数日動きにキレがなくなり常に緊張してストレスを溜めている。
今だってそうだ。わたしの盛大なため息に、丸くて小さな耳を後ろへ倒して警戒の眼差しでこちらを窺っている。今週末のジム休館日にはタマザラシも出演するミクリさんの水上ショーがあるのに、この調子じゃ良い演技は絶対に出来ない。
けれどわたしは何の対処も出来なかった。特別何かきっかけがあった訳でもなく、気付いたらこんな事になってしまっていたから。お手入れも食事もその他日々のお世話も、一切何も変わっていない。彼らのストレスの原因になりそうなものが、全く分からない。
「どうしたらいいんだろう……」
またひとつ、大きなため息が零れ落ちた。
と、揺れる水面へ落ちる影が大きくなる。同時に背後に気配を感じて、反射的に体ごと後ろへ捻った。誰かがいる。
まず目に飛び込んだのは白いパンツ、それから緑から青へとグラデーションの掛かったオーガンジーのマフラーがわたしの視線を奪う。毎朝ルネへ来る時に眺める海の色に似たそれが、プールから溢れる波で濡れたプールサイドに垂れ落ち水を吸っている。はっ、と顔を上げるとミクリさんが腰を屈めてわたしを見下ろしていた。
「また君はそうやって一人で落ち込んで」
「えっ、」
「何でもない、こちらの話さ。それよりどうしたのかな」
ゆるりと細められたエメラルドグリーンの瞳は優しい色をしている。考えるよりも先に口が開いて「実は、」けれど次の言葉は出て来なかった。思考が、喉から出ようとする言葉へ先回りして押し戻す。
世話がしやすいからと任されたタマザラシを、ショー数日前にも関わらずこんなひどい調子にさせてしまったなんて正直に打ち明けてよいのだろうか。業務の中心である事務だってまだミスも多いのに、ポケモンの世話すら出来ないとなるとわたしに何が出来るんだろう。まだ1ヶ月、出来なくて当然だと分かっていても不安になってしまう。
でもこのまま相談せず不調のままショーに臨ませたら大変な事になるのも分かっている。だから今すぐ相談するのが正しい行動だ。それでも、ミクリさんに気付かれる前に何とかしたかった。申し訳なさと下らない見栄を張った後悔、失敗を恐れる気持ちが胸を苦しく締め付ける。目を合わせるのも辛くなって、視線が気力を失い床へと落ちる。
「何も心配せずに言ってごらん、このミクリが力になるよ」
僅かに床へ垂れていたマフラーがくしゃりと小さな山となる。気づけばミクリさんがわたしと同じようにしゃがんでいて、真似をするように膝を抱えていた。少し顔を上げると、口角を上げて微笑むミクリさんと目が合う。
(あ、れ……?)
唐突に、既視感に襲われた。わたしは前にもこうやって誰かに同じ事を言われたことがある。泣いていたわたしに手を差し出した誰かから、力になるよ、と……
「{{kanaName}}?」
「あっ、えっ…と、その……」
ミクリさんの声で意識が今へと戻ってくる。心配そうに眉を下げたミクリさんからとっさに視線を逸らす。ぱちりと合ってしまった視線が、わたしの心臓を激しく突き動かしていた。今まで平凡な人生を歩んできたわたしには、ミクリさんのような美人の視線は刺激が強すぎる。
息を整え心臓を落ち着ける。このまま一人で悩んでいてもきっと解決しない。それにミクリさんだってああ言ってる。相談するのに最適なタイミングは今で、これを逃したらきっともう訪れない。今度は言葉が先走らないように気を付けて、口を開く。
「ここ数日タマザラシの調子が良くないんです。でも原因が分からなくて……本当に済みません!」
頭を下げながら、今さら自分の姿勢にはっとする。
ミクリさんが来ているのにしゃがんだままで、しかもミクリさんにも同じ格好をさせてしまって。ああもう、罪悪だ。今度は違う種類の動悸で心臓が煩くなる。
「あぁ、たしかに最近彼らは少し緊張しているね」
ミクリさんは立ち上がると「おいで」と、わたし達を遠巻きに眺めていたタマザラシ達へ呼び掛け片手を腰に当てた。ただ立っているだけなのに、立ち姿でさえミクリさんは様になる。ここぞとばかりに一緒に立ち上がったけれど、横に並ぶのは何だか烏滸がましい気がして半歩後ろへと下がった。
「私はね{{kanaName}}、バトルやショーの前には必ずポケモン達の目を見て笑うようにしているんだ。何故だか分かるかい?」
傍までやって来たタマザラシの一匹がミクリさんの腕の中へと収まる。伏せていた耳はぴんと天を向き、つぶらな瞳はキラキラと輝いている。先程までの不調な様子はどこにも見当たらない。
「ポケモンの調子を確認するため、ですか?」
沈黙する訳にもいかないから答えてみたけれど、満点の解答でないのは自分でも分かっていた。案の定、ミクリさんは「それもあるね」と頷いたけれどまだ何か別の理由を待っている。タマザラシの耳がまたぺたりと寝始める。
「ふふっ、難しく考え過ぎているね。なに、簡単な事さ。どれだけ試合を重ねても不安や緊張がなくなる事はない。だから“おや”である私がそれらを吹き飛ばしてやるのさ」
ミクリさんはわたしに微笑み、そしてまた緊張で張り詰めた面持ちのタマザラシに笑顔を向ける。毛艶を褒め、今日までのトレーニングを褒め、当日までの練習も頑張ろうとタマザラシを励ました。タマザラシが自信を取り戻してゆく。
「そしてその反対に我々が落ち込んだり不安がっていると、ポケモン達も同じ様に不調を抱えてしまう。{{kanaName}}、思い当たる節があるんじゃないかな」
どこまでも透き通った緑の瞳がわたしを見つめていた。批難する訳でもなく、かと言って同情するでもない、まっすぐにわたしに問い掛ける眼差しだった。
言われてみれば、タマザラシ達の調子が悪くなってからわたしも笑顔で接する機会が少なくなっていた気がする。
いや、違う。ショーが近付くにつれ、わたしの方が先に不安になっていた。こんな世話で大丈夫なのか、タマザラシ達が最高のパフォーマンスを出来るようにコンディションを整えられるか、もし怪我でもさせたらどうしよう……そんな不安を抱えてすっかり笑顔なんて忘れていた。だからタマザラシ達も元気がなくなったんだ。
「済みません! わたし、そんな事も分かってなくて」
「今分かったならそれでいい。それに、私も君が悩んでいるのに気付いてやれなかった。だからこれはおあいこだよ」
ミクリさんの手が、腕の中のタマザラシを大事そうに撫でている。心地良さそうにタマザラシが目を瞑る。わたしの頬から緊張が抜けてゆく。
「そう、その笑顔だよ。忘れないで」
構ってもらえて満足したのか、タマザラシはぱっちり目を開けるとミクリさんの腕の中から勢い良く飛び出した。そうして仲間のいるプールの中へダイブすると、ゆらゆら揺れる他のタマザラシ達と並んで遊び始める。どの子もいつの間にかすっかり調子を取り戻していて、時おりこちらに向けられる眼差しはどれもきらりと輝いていた。
「{{kanaName}}にはずっと笑顔でいてほしいんだ」
「ミクリ、さん…?」
プールを見つめながら、ミクリさんがぽつりと呟いた。その言葉にどくんと胸が高鳴る。けれどわたしからはミクリさんの顔は見えなくて、今聞こえた言葉自体が何かの聞き違いに思えてくる。けれど、
「笑っている君はとても美しいから」
視線に気づいたミクリさんが振り返った。決して冗談でもなければ大袈裟に言っているのでもなかった。嘘を吐いてない瞳がまっすぐにわたしを捉える。どくどく、と心臓が騒ぎ出して全身が熱くなる。
「あ、りがとう…、ございます」
もし相手がサイユウリーグで一緒に研修を受けた同期の男の子だったら“そういう事”かな、と期待なり意識なりをするだろう。でも目の前にいるのはあのミクリ様、有り得るはずがない。
でも、けれど。妙に優しくて意味深な言動を取られているのも事実ではあって、先輩にも「ミクリさんってそんなにスタッフに構う人じゃないのよ」と言われたことがあって、わたしの勘違いではない可能性がほんのりと見えてくる。だとしても。
「何かまた困った事があれば直ぐに言うんだよ」
呼吸すら忘れてしまう真剣な瞳がふっと和らぐ。一番のパートナーであるミロカロスに向けるような慈愛に満ちた眼差しがわたしへ微笑んで、少し口角を上げると出入り口へと歩き出す。
ミクリさんの背中を見つめながら考える。
そうだとしても、あまりにも現実味がない。単にわたしがミクリさんの期待する能力に満たなくて、だから世話を焼かれているだけのような気もしてくる。
「がんばらなくちゃ」
ぎゅっと握り拳を作る。それに合わせるように、プールの中のタマザラシ達が大きく飛び跳ねた。
*
「{{kanaName}}も昔コンテストに出てたんだってね」
控え室でお弁当を食べていたら、サイユウリーグの定例会議――各ジム一人以上の参加が命じられている――から帰ってきた先輩に声を掛けられた。
先輩はわたしのお弁当に「美味しそうね」とくすりと笑って向かいの席に座った。先輩は近所のベーカリーのサンドウィッチが昼食だった。
正面だと何かと目が合ってそれはそれで気を使うものの、ただの同僚ならそう座るのが普通だろう、と箸を動かしながら考える。あれからも頑なに隣の席に座るミクリさんを思い出してため息が零れる。同僚相手には近すぎる距離感に、ついうっかり勘違いに拍車が掛かりそうになってしまう。
「もうコンテストには出ないの?」
リーグでの研修の時、仲良くしてくれた先輩スタッフに昔何度かコンテストに参加ていたと話した事がある。先輩はきっとその話を聞いたんだろう。長いまつ毛を揺らして、わたしに何かを期待する眼差しを向けている。この先輩もミクリさん同様に些細な仕草さえやたらと美しい。思わず見蕩れそうになる。
「わたしはスーパーランクで優勝がやっとでしたし…、それに今さら復帰なんて無理ですよ」
最後に参加したコンテストを思い出す。
入念に準備したハイパーランクコンテストは優勝に掠りもしない3位で、ここが辞め時だと確信してしまった。審査員の一人からは期待の言葉を掛けてもらったけれど、優勝者との圧倒的な差に自信をなくしてそれを次の努力へ繋げられなかった。だから、もう一度コンテストに出るだなんて考えた事もなかった。
「あら、あたしがコンテストに参加し始めたのはここのスタッフになってからなのよ」
「そ、そうなんですか」
先輩が大きな口を開けてサンドイッチを頬張る。彼女はハイパーランクの常連参加者で、優勝こそ未だないもののマスターランクでも好成績を残している。だからてっきり昔からコンテストに出て切磋琢磨しているものだとばかり思っていた。
「そうなのよ。それに最近コンテストに出始めたジムトレちゃんもいるし、{{kanaName}}もやってみましょうよ」
ルネジムで働き始めて、とうの昔に捨ててしまったコンテストへの関心が実はひっそりと戻ってきていた。タマザラシの世話を任された時には、コンテストに向けて自分のポケモンの手入れをしていた頃を懐かしく思い返していた。今なら結果に囚われずに昔のようにまたコンテストを楽しめるかもしれない。
「うんうん、その顔は“やる”って事ね。じゃあ出場する大会が決まったら教えてね」
「大会なんて、まだまだ先の話ですよ!」
そう返しながらも頭の中によぎるのは年間の大会スケジュール。経験者といっても大きなブランクがあるからまずはノーマルランクに出るべきか、もしくは練習期間を充分に取ってスーパーランクに挑戦するのも悪くない。それからコンテストに出るなら色々と揃えなくちゃならない。忙しくなりそうだ。
「{{kanaName}}、今のあなたとても良い顔してるわ。ミクリさんにも見せたいくらい」
「えっ、」
「ミクリさん、きっと喜んでくれるわよ」
先輩が訳知り顔でにんまりと笑う。慌ててミクリさんとは何もないと返して、勘違いも甚だしい言葉にますます焦って「ちっ違、違うんです!」と子供みたいな否定を重ねる。けれど先輩はにこにこと笑うばかりでわたしの嘘偽りない否定を受け入れてくれない。それどころか、「ここのスタッフはみんなミクリさんが大好きだけど、恋愛感情ではないから安心して」大きな勘違いをしたまま話を進めてしまう。
「でもあんまり仕事中にイチャイチャするのはやめた方がいいわよ。ミクリさんにも言っておいてね」
「ほっ、本当に何もないんですって!」
昼食どころじゃなくなったわたしを他所に先輩は一人先にサンドイッチを平らげる。そうして誤解を解かせてもらえないまま午後の仕事に戻ってしまった。
違う、絶対に違う、有り得ない。たとえそれがミクリさんと付き合いの長い先輩ですら“恋”だと勘違いするものだとしてもそんなはずはない。
だってわたしは平凡で、コンテストもバトルも中途半端で、ミクリさんと親しくなる接点を一つも持たない人間だ。だから、ミクリさんが直接何かを言うまで何も信じない。信じられない。
お弁当箱に残ったおかずを胃の中へ収めていく。いつミクリさんに見られても大丈夫なように見た目に気を使ったそれは、何故だかあまり味がしなくなった。
*
ミクリさんの事は兎も角、コンテストに復帰しようと準備を始めたわたしは早速大きな問題に直面していた。だからだろう、今日最後の挑戦者を見送りながら思わずため息が零れる。挑戦者の、誰に向けて言ったでもない大きな独り言にその問題を思い出したからだ。
「どうしたのかな」
ポチポチとパソコンにデータを入力していたら、よく通るテノールが優しい音色を響かせた。顔を上げると案の定目の前にはミクリさん。その顔は笑っているけれど何か言いたげにも見える。
そうだ、もう帰るところとはいえまだ挑戦者が建物内に残っていた。それなのにため息を吐くなんて、ミクリさんが毎日掲げる“チャレンジャー達へ最高のパフォーマンスを”を正面から破っているようなものだ。慌てて「すみません!」と頭を下げる。けれど、
「私は『困った事があったら直ぐに言うように』と言った筈だよ。あの挑戦者と何かあったかい?」
ミクリさんの鋭い視線が、とうにジムを出て行った挑戦者へ向けられた。あらぬ誤解にわたしはまた急いで「ち、違います! あの人は何も関係ないです!」と首を振った。
「ではどうして? 君のその溜め息は仕事が疲れたから出たもの…、ではなさそうだったよ」
腕の良いトレーナーは日頃から優れた観察眼を持っている。もちろんミクリさんもそうで、だからきっとこの人に隠し事は出来ないんだろう。
それに隠し通そうとして詰め寄られでもしたら、わたしの心臓はきっと今度こそ爆発するだろうし、万一その現場を先輩にでも見られたら何を言われるか分かったものじゃない。
わたしとミクリさんはただの仕事仲間で特別な関係なんかじゃない。だからこそ個人的な悩みは言いたくない。けれど隠しても暴かれるのは時間の問題で。それでもやっぱり私的な事を話すのは躊躇ってしまう。でも、そうすると……。
思考が袋小路から抜け出せずに同じ事をぐるぐる考え続ける。そんなわたしを見かねたミクリさんがふっと息を吐いてぽん、と頭を撫でた。途端に意識がミクリさんに向けられる。目の前に立つミクリさんは少し眉を下げながら笑っている。この人にこんな顔を――ただのスタッフを本気で心配する顔をさせてはいけない。わたしは務めて明るい口調で悩みを白状した。
「コンテストに出てみようと思ってるんです。でも練習場所がなかなか確保できないんです。水上フィールドのある練習場って数が少ないから全然予約できなくて…、」
海は波があるからコンテストの練習には不向きで、もちろん家には練習に耐えうるプールなんてある筈もない。小さなお風呂場で出来るのはせいぜい水浴びくらいで練習なんて夢のまた夢だ。
「ミクリさんはどうしてましたか?」
あまり深刻にならないように表情や声色ばかり気を使っていたから、自分の吐き出す言葉の精査が甘くなっていた。口に出してからハッとする。こんないかにも一般人らしい悩みを、スターのミクリさんが抱えるはずがない。うっかり尋ねてしまったけれど、迂闊すぎた。わたしは閉じたばかりの口を急いで開く。
「あっ、いやっ、ミクリさんはそんな事で困ったりは」
「それなら、」
あわあわと不躾に投げた問いを取り繕うわたしの声に、ミクリさんの声が覆い被さる。思わず声を止めてミクリさんを見つめ直した。木漏れ日の眩しさを思い出させる瞳の輝きが、わたしに笑いかける。
「ここで練習するといい。以前{{kanaName}}と同じように練習場所に困っていたジムトレーナーがいてね、それからジム休館日を彼女達の為に開放しているんだ」
「ほ、本当ですか。あっ、でもわたしのはコンテストで、ジムの業務には関係ないから……」
「おや、そんな些細な事で私が断るとでも?」
不敵な笑みを浮かべるミクリさんに、わたしの眉間のしわが消えてゆく。ミクリさんの顔からも浮かない表情が消えている。
利用する時は必ず事前に連絡する事を約束したら、ちょうどジムトレーナーにミクリさんが呼び出された。ふう、とミクリさんが残念そうに小さく息を吐き出す。
「コンテストに興味を持ってくれて嬉しいよ。君とパールルの演技、楽しみにしてるよ」
花が綻ぶようにミクリさんが笑う。壇上で見せるスター然とした自信に満ちた笑顔とはまた違う、素朴な笑みだった。胸がどくどくと騒がしくなって顔も熱くなってゆく。それらを“わたしが頼りない新人のせいだから”と言うには、ミクリさんの眼差しはあまりにも熱を持ちすぎていた。
背中を見送りながら全身の熱を鎮めてゆく。それでも頭の中では去り際の言葉が何度も繰り返されて熱がなかなか引いていかない。その時、はたと気づく。
「なんでパールルって知って……」
まさか、ね。きっとミクリさんも先輩から話を聞いたんだろう。リーグ研修で仲良くなった先輩スタッフに、コンテストで優勝した時のパールルの写真を見せた事がある。だから知っていたんだ。わたしは上手く筋の通った理由にひとり納得してうんうんと頷く。今までに数え切れないほど審査員を務めたミクリさんがたった1回の審査を覚えているはずがない。流石にそんな事は有り得ない。
すっかり止まっていた作業の手を再び動かす。けれどいつにも増してタイプミスが多くて、先輩には遅いと言われてしまった。
*
休日の朝、歩きやすいランニングシューズに同じく動きやすい服装、それから腰には2つのボールを提げてルネジムへと向かう。通勤用のオオスバメ以外をルネジムに連れて行くのはなんだか奇妙な感じがしたけれど――かつてジムへ挑戦していた頃の自分は、6つ集めて旅を終えてしまった――ジムに挑戦しに行くのではないのだから気にしちゃダメだ、と後ろめたさのような心のモヤを振り払った。
休館日だからもちろん正面の自動ドアは開いておらず、わたしは裏口へ回ってミクリさんから預かった鍵を取り出した。それを使って鍵を開けるとしかし、ジムには既に明かりが点いていた。まだ9時を過ぎたばかりだというのに熱心なスタッフがいるらしい。わたしは音を立てないようにそっとドアを閉めると小走りでスタッフ用控え室へと向かった。
ぱちりと照明を点け荷物をロッカーへ仕舞う。既に誰か来ているはずなのに何故だろう、昨日わたし達が退勤してから今まで誰かが入った様子が感じられない。椅子の傾きやテーブルに置きっぱなしのクリアファイル、空になったペットボトルもそのままだ。それらを片付けながら一体誰が来ているんだろうと首を傾げる。誰が来るのか聞いておけばよかった。そうすれば控え室の不気味な静けさに背筋をゾクリとさせる必要もなかったのだから。
気を取り直して練習用のプールへと向かう。ルネジムにはもちろん一般的なバトルフィールドも設けられているが、明かりはプールに続く廊下だけを照らしている。先に来た誰かもプールにいるようだった。胸をドキドキさせてドアを開く。
「あっ……」
夏空の青さを纏った暴れ竜が、荒々しい水飛沫を立てて天へと昇ろうとしていた。豪快で見事なたきのぼりだった。わたしはすっかり圧倒されて息も忘れて見入っていた。
ばしゃん、と大きな水音と共にギャラドスがプールの中へ潜る。水面に見える大きな影に畏怖を覚えて自然と足を後ずらせた。思わず小さな悲鳴が漏れ、ばくばくと心臓が煩くなる。
「随分早いね」
ちょうどわたしと反対側のプールサイドから声がした。はっとして視線を水面からそちらに向ける。そこに居たのは、ミクリさんだった。
「このギャラドスも試合に出そうと思って君が来るまでに調整をしようと思ったのだけど、{{kanaName}}がこんなに早く来るとは思わなかったよ」
くすりと笑ってミクリさんがギャラドスをボールに戻す。たしかに練習したいと伝えた時に午前中には行くと曖昧な言い方をしたけれど、そんなに驚かれるほど早く来たつもりもない。けれどすぐに以前一緒にお昼を食べた時にルネは少し遠いから毎朝大変だと零したことを思い出す。それに付け足すように休日はつい二度寝してしまう、とも。
「休日なのだからもう少しゆっくりしても良かったんだよ」
記憶力の良い人なんだろう、今度からはちょっとした雑談も気をつけなくちゃ。わたしは「折角使わせてもらうので」と二度寝せずに起きた理由をミクリさんへ話した。
「プールは自由に使ってくれていい。ただしここは深いから、もしプールに入るなら気を付けて。足を滑らせて落ちでもしたら大変だから」
まるで幼い子供に言い聞かせるように、真剣な眼差しがわたしに向けられていた。普段の穏やかさは消えて、怒っているようにも感じられる鋭い視線がわたしを貫く。初めて向けられた感情に戸惑いを覚えながら頷く。ミクリさんはふっと表情を緩めて笑顔を戻すと「私は少し失礼するよ」練習場を後にした。
一人きりになったプールは少し温度が下がったような気がした。ミクリさんいつ戻ってくるのかな。構われると困ってしまう癖に、いざ適切な距離を取られたら淋しさを感じてしまう自分は、少し我がままなのかもしれない。
ぱちん、と両手で頬を叩く。今日はコンテストの練習をする為にここへ来たのだ、練習に集中しなくちゃ。
腰のボールをプールに投げる。特訓を始めよう。
それにしても、わたし以外にジムを借りに来るのは一体誰でいつ来るんだろう。練習を始めてそろそろ3時間が経とうとしているけれどその誰かは一向に現れない。
このプールにはわたし達がいるだけで、しかも練習しているのはわたしだけ。ミクリさんはわたしに遠慮しているのか、プールにミロカロスとギャラドスを放ってもバトルの特訓もショーの練習もしているようには見えない。もしかして、誰かかジムを使いたいと言う度にミクリさんは休日をここで過ごしているのだろうか。もしそうなら無闇に使いたいと言わない方がいいのかもしれない。
「{{kanaName}}、一度休憩したらどうだい」
悩み始めたわたしの傍にミクリさんがやって来る。
休日のミクリさんは普段の衣装ではなくもちろん私服を着ている。シルクの白いシャツは胸元が大きく開いていて、陶器のような綺麗な肌が顕になる。普段は決して見ることの出来ないそこに、つい視線が吸い寄せられる。すらりと伸びる足は黒のベルボトムを穿いて、裸足だからこそ見える足の爪は綺麗なマリンブルーで彩られている。今日ここに来なければ見れなかったミクリさんの私服姿に、つい今し方抱いていた申し訳なさが薄れてゆく。自分の現金さに呆れてしまう。
「昼食にも良い時間だ。{{kanaName}}は何か食べたいものはあるかい?」
「……ミクリさんに、お任せします」
当たり前のように昼食に誘われたけれど、わたしのせいで用もないジムに閉じ込めているかもと思うと流石に断れなかった。
ミクリさんは口元に手を当て悩ましげに眉間にしわを寄せ、次の瞬間、ぱっと花が咲いたように笑顔を綻ばせた。どこか少年のような笑顔に、心臓が飛び跳ねる。
不意打ちで今まで見せたことのない笑顔を見せてくるのは反則だ。そんな風に心を揺さぶってこられたらわたしの心はいよいよ限界を迎えて――自分の気持ちを誤魔化しきれなくなる。
「じゃあ支度をしておいで。私は外で待っているよ」
つむじ風が舞ったかのようにミクリさんが軽い足取りで歩き出す。床を濡らす水がミクリさんが足を動かすのに合わせて小さな飛沫となって跳ね上がる。わたしの心も同じように軽やかに跳ねていた。
「あの…、今日はわたし以外に誰が来ますか」
テーブルの上がドリンクだけになり、その中身も半分ほどになってようやく、わたしは気になっていたことを切り出した。ミクリさんが困ったように眉を下げて微笑む。薄々察してはいたけれど、やっぱりそうなんだ。今日ジムに来るのはわたしだけ、ミクリさんが何をするでもなくジムにいるのもきっとわたしが練習したいと言ったせいだ。グラスを掴む手にぎゅっと力が入る。
「でも気にする事はないよ。私は{{kanaName}}が再びコンテストに興味を持ってくれて、今とても嬉しいのだから」
「えっ、」
はっとしてグラスの氷に落ちていた視線が反射的にミクリさんを追う。ルネの海に負けないほど透き通った瞳が緩やかに細められる。
「次の参加を楽しみにしてると言ったのは本心だったからね」
「お、覚えていたんですかっ!」
思わず大きな声が出る。それは最後のコンテストでミクリさんに言われた言葉だった。まさか覚えていて……。いいや、数え切れない程のコンテストを見てきたミクリさんがパッとしない演技を覚えているはずがない。先輩からわたしの事を聞いてコンテスト映像を見たんだろう。それだって本来なら有り得ないのだけど。
けれども、
「きみのパールルは美しかったよ。それ故に君達の表情が硬くて存分に魅力を発揮出来ていなかったのが惜しかった。だからもう一度、今度は笑顔で演技する姿を見たかったのだが…、私の言葉が重荷になってしまったようだね」
ミクリさんの言葉は熱がこもっていて、決して急ごしらえのセリフとは思えなかった。
鼻の奥がつん、と痛くなる。上手く言葉に出来ない感情の大きな波が胸に押し寄せ、視界の端が揺れ始める。ぎゅっと締め付けられるような胸の痛みに今にも零れそうになる涙をぐっと堪えてふるふると首を振る。
「違うんです。あの時はどうしても自分がハイパーランクで優勝する姿がイメージ出来なくて、それで諦めたんです」
でも。わたしはそこで一度言葉を切ってグラスに口を付ける。食後のドリンクが運ばれてから時間が経ったせいか、氷の溶け始めたそれは水っぽくなっていた。
「もう一度、頑張ってみます」
意識して口角を上げる。ミクリさんの顔にも笑顔が戻ってゆく。ルネの山肌と同じ白い肌が上気して鮮やかな赤で薄く覆われる。一際色付いた唇が綺麗な弧を描く。
審査員席に座ったミクリさんもこんな風に笑っていたのを思い出す。数年前と同じ笑みをまた向けられ、懐かしさと照れを感じてわたしの頬も緩んでいく。
「それにしても…、覚えてたなら言って下さったら良かったのに」
きゅっ、と頬に力を込めて目の前のミクリさんにほんの少し唇を尖らせる。どうしてやたらと世話を焼くのか疑問に思っていたけれど、あのコンテストでの言葉を気に病んでいたのなら納得がいく。
「わたしがミクリさんと会った事を忘れる筈がないんですから」
謎が解けてあれらの思わせぶりな態度に理由がついて、途端に自分の勘違いが恥ずかしくなってくる。それらに舞い上がって馬鹿な事をする前に気づけて良かった。もし勘違いのまま“わたしも好きです”なんてアピールしたらどうなっていたか。あまりのいたたまれなさに異動を願い出ていた可能性も十二分にある。
わたしは全てを誤魔化すように意地悪な職場の上司をにらみつける。
「それより、あのパールルはサクラビスに進化させたんだね」
わたしの幼い八つ当たりはあっけなく避けられ微笑みを返される。誤魔化されたのは不服だったものの、あまり深追いしても墓穴を掘るだけのような気がして、わたしもすぐに舵を切って話題はサクラビスへと移っていく。
コンテストに出ていた時はパールルが進化をするポケモンだとは知らなかった。それにコンテストはバトルと違って進化が結果に大きく影響しない。みんな好きなポケモンで参加していた。パールルを気に入っていたわたしが進化の有無を調べなかったのもそういう理由だ。
だから実は二つの進化先があると偶然知ったのはコンテストを辞めてしばらく経ってからで、わたしはパールルの意思をしっかり確認した上で進化を選んだ。
「ただ、本当はハンテールにするつもりだったんです」
ドリンクのグラスに手を伸ばし、けれど氷の溶けきったそれを飲もうとは思えず代わりに水の入ったグラスを手に取った。話し込んでいるつもりはないのに、ミクリさんと居ると時間があっという間に溶けてゆく。
「ハンテール…、それはまたどうして」
「昔、見た事があって。その時にかっこいいなと思ったんです」
ぬるくなった水が喉を通る。レモンのきいた水がふと何かを呼び起こす。あの時は喉の乾くような潮水だった、と。
「……そうだ、そのハンテール、ルネで見たんです。あの、前に話した女の子と一緒に……、えっと、たしか」
「“ひみつのポケモン”」
「そう、そう言って……えっ?」
どうしてミクリさんがその言葉を。驚いて視線をミクリさんに合わせるとうすら笑みを浮かべた彼が両手を組んでわたしを見つめ返した。
「秘密と言ってもルネの子の間であのハンテールは広く知られていたからね。そうじゃないかと思ったんだ」
「そう、ですか」
一瞬、何か分かるかもと期待したけどそう上手くはいかないらしい。少し残念に思ったけれど、あんな曖昧な話では見つかる方が稀だろう。それでもミクリさんは、
「もしまた何か思い出したら教えてほしい。大事な記憶が思い出せないのは悲しいことだよ」
と、本当に居るのかすら定かではないあの子を見つけ出そうとしている。だったらもう少しだけ、期待は胸に残してもいいかもしれない。それに、こうやってわたしの事を考えてくれるミクリさんをまだ手放したくなかった。
「そろそろ戻ろうか」
ミクリさんが立ち上がる。わたしも続いて立ち上がり店を出た――今回もまた「これは応援の気持ちだよ」とお金は出させてもらえない。次こそは自分の分を払うんだから、そう強く決心して、と同時に当然のように次があると疑いもしないことに気がつく。
違う、絶対に違う。決してわたしは期待なんてしていないし、ミクリさんの優しさは友愛だと分かっている。それにこれは尊敬に値する人への憧れで、ミクリさんが好意を向けるからわたしも返しているだけで。それ以外の理由も感情も、存在しない。
けれど隣を歩くミクリさんは歩く度に手の甲が触れるほど近くにいて、芽吹いてしまった感情は今さら無かったことには出来なかった。
恋心を誤魔化せない
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