Candytuft smiles, love comes true.

初恋の少女と憧れの人

I can't believe it, but I am his first love.


「ジムやバトルに関する質問者以外はお答え出来ません」

 わたしは、これで何度目になるか数えるのも面倒になった問答を繰り返していた。けれど押し掛けた挑戦者、もといミクリさんのファンは引き下がるつもりがないらしく、頑として受付から動こうとしない。これ以外に言えることは何もないのに、この人達はどうすれば帰ってくれるんだろう。

「ですから、何もお答え出来ません」
「じゃあミクリ様を呼んでよ! あたしは挑戦者としてミクリ様とお話がしたいの!」
「それも出来ません。ここはポケモンジムで、ジムリーダーと出来ることはポケモン勝負以外ありません」

 ここで手の空いた警備員が受付に応援に来てくれて、ようやく厄介な訪問者が外へ追い出される。ふう、と大きく息を吐いたら、後ろで大人しく待っていた少年が苦笑いを浮かべてジム挑戦の申請書をおそるおそる差し出した。わたしは疲れきった顔に笑顔を浮かべると素早く処理を行った。



 世の中の会社に繁忙期があるように、ジムにも一年の中で特に忙しくなる時期がある。スクールの長期休暇期間がそれに当たるのだけど、ここルネジムはその他にも人が大勢詰め掛けるタイミングがあった。

「ミクリさんって時々こういうの引っ掛かっちゃうのよね」

 ぐったりしているわたしに先輩が話し掛ける。後は家に帰るだけなのにすっかり疲れ果てたわたしは、当分控え室から出れそうになかった。そんなわたしを他所目に素早く帰り支度を済ませた先輩はキイキイと音の鳴る折り畳み椅子に腰掛けて雑誌を広げている。
 週刊誌だった。普段はそんな物が控え室に置かれることはないから、誰かが持って来たんだろう。今それを読んでる先輩か、もしくは案外ミクリさんかもしれない。

「『深夜の自宅に招いて』……ねぇ。こんなの女側が撮らせたに決まってるのに、どうしてファンは信じちゃうんだか」

 週刊誌を覗き込む。そこにはずいぶんラフな格好をしたミクリさんと、今を時めく人気女性タレントが抱き合った写真が大きく載っていた。
 記事によると現場はミクリさんの自宅で、恋人を出迎えた彼が玄関前で愛しの彼女を抱きしめている決定的瞬間、らしい。わたしには転びそうになったタレントを支えようとするミクリさんにしか見えないけれど。

「ミクリさんから直接言われてると思うけど、こんなの気にしちゃダメよ。彼女は貴女なんだから」
「いやっ、あの、わたし達本当にそんな関係じゃ」
「はいはい、分かってるから。じゃ、お先に失礼、お疲れ様」

 ぱたん、と週刊誌を閉じて先輩が立ち上がる。そうして今日もまたわたしの言い分を適当に流すとわたしを残して先に帰ってしまった。
 ミクリさんが恋愛事でメディアに取り上げられると必ずルネジムは大忙しになる。理由はもちろんミクリさんのファンが真相を確かめるべく押し寄せるから。
 配属先を伝えられた際にルネジムは大変だと聞いていたけれど、たしかに大変すぎる。しばらくこの騒動が続くかと思うとうんざりしてくる。
 大きなため息がこぼれ落ちる。明日の仕事が今から憂鬱なのと、今さっき見たスクープ写真にぎゅう、と胸を締め付けられたせいだ。
 先輩はああ言っていたし、ミクリさん自身も朝礼で「注意が足りなかった」と謝っていた。だからこれは週刊誌とタレントででっち上げたデマで、本当に何の関係もないんだろう。
 でも。閉じた雑誌をもう一度開く。このタレントはミクリさんの自宅を知っていて、深夜に訪問するほど親しい関係には違いない。
 じゃあわたしは、やたらと親切にされるわたしはどうだろう。休憩時間に一緒にお昼を食べても就業時間外で会うことはない。この前の休みに会ったのもコンテストの練習場所を借りる為で、親しいから会った訳でもない。そもそも個人的な連絡先も交換していないし、当然自宅だって知らない。
 それによくよく思い返すと、ミクリさんは「注意が足りなかった」とは言ったけれど記事の内容自体は否定しなかった。それはつまり――

「まだ帰ってなかったのかい」

 バン、とドアの開く音がして弾かれたように体が震えた。はっとしてドアへ顔を向けるとミクリさんがちょっと驚いた顔をしている。あんまりわたしが驚いたものだから、ミクリさんもびっくりしたようだった。
 壁の時計に目を向けると時計の針は自分の思っていより随分進んでいる。慌てて荷物を鞄に詰めると「もう帰ります」と週刊誌を閉じた。

「その子、」

 どの子かなんて聞き返さなくても分かっていた。深夜にミクリさんと抱き合ったあの人気タレントだ。

「今度コーディネーター役でドラマに出るそうで、伝手を辿って私にアドバイスが欲しいと連絡してきたんだ。それはその時の写真だよ。その時間しか無理だと押し切られて仕方なく夜遅くに自宅に招く事になったんだ。でもまさかこんな事になるなんてね」

 はあ、と重いため息がミクリさんから零れ落ちた。苦笑いを浮かべる顔も心做しか疲れが滲んでいるようだ。そんなミクリさんは初めてだった。どんなに忙しくても決して笑顔を絶やさずしんどい顔を見せないのに、たしかに目の前のミクリさんは疲れた顔をしていた。

「まったく…、注意が足りてなかったよ」

 ミクリさんが困ったように肩をすくめる。恋人との逢瀬を激写されたにしては疲労しか感じられない姿に、無意識にほっと胸を撫で下ろす。

「この件でもう暫く君達に迷惑を掛けてしまうけど、どうか許してほしい」
「もっ、もちろんです! それに迷惑だなんて…そんな事全然ありませんから!」
「ふふっ、{{kanaName}}は優しいね」

 生命力に満ちた木々の葉を思い出させる深い緑を閉じ込めた瞳がゆっくりと微笑む。瞳に反射するのはよくある電灯の光なのに、相手がミクリさんだとその輝きすら何か特別なものに見えた。わたしも思わず頬を緩め笑顔を浮かべる。

「それにしても、こうも無い事ばかりを書かれるのも面白くないものだ」

 ミクリさんが怒ったような顔を作って週刊誌を手に取る。ぱらぱらと捲って嘘八百を書き並べた件のページを開くと、うんざりとしたため息を吐いた。

「『恋多き男』なんて私の何を見て書いたのだか。未だに初恋を引き摺っている男に、新しい恋など出来ないよ」

 その時見せた表情はひどく悲しげで切なくて、事情を何も知らないわたしの胸まで苦しく締め付けた。
 舞台に上がればいつだって観客を笑顔にするミクリさんの、この一瞬に見せた弱い一面。わたしはどう返せばいいか分からず、曖昧に微笑むしか出来なかった。

「さぁ{{kanaName}}、もう遅いから早く帰った方がいい。何もないとは思うけれど、帰り道には充分気をつけて」
「っ、はい…、お疲れ様です」

 大きく頭を下げ、そのまま目を合わすことなく控え室を出る。
 色々な感情が頭の中で、そして胸の中で絡まりあって自分でもよく分からなかった。どくどくと速くなる鼓動を抑えるように深呼吸して、どうにか一つずつ紐解いてゆく。
 ひとつはショック、ミクリさんに好きな人がいた。ひとつは羞恥、ちょっと仲良くされて先輩からもおだてられていつの間にか調子に乗っていた。ひとつは悔しさ、ミクリさんのあんな悲しげな顔を見たらもう何も出来ない。そして、それらをすんなりと受け入れ諦めようとする心。
 初恋は実らないとよく聞くし、初めての恋は忘がたいことも多い。どんな相手か知らないけれど、あのミクリさんが忘れられない相手に勝てる気が全くしない。しかも逃がした魚は大きいというように、きっとその彼女も記憶の中でどんどん美化されているはずで、勝ち目なんてあるはずがない。
 やっと認めた恋だけど、結末がこんなに早く訪れるなんて。わたしは恋心に急いで憧れのレッテルを貼り直す、これ以上気持ちが溢れてしまう前に。
 けれどその後数日、何をする気力も湧かず、溶けるように時間が過ぎていった。



 くだらないゴシップ記事が流れてから半月が経ち、ルネジムにも普段の平穏が戻りつつあった。この日寝坊してお弁当を用意出来なかったわたしは、休憩時間になるなりジム近くのベーカリーへと向かった。
 無事に目当てのサンドイッチを買えた帰り道、ふと昔ここで見た“ひみつのポケモン”――ハンテールは今どうしてるだろうと気になった。
 けれどハンテールを見たのはもう10年以上前のことだ。もう居ないかもしれない。そもそも彼を見た場所の記憶も曖昧で辿り着けるかもあやしい。
 それでも少ない記憶を手繰り寄せる。たしか消波ブロックがあって、大きな岩もあったような気がする。他の港と記憶が混ざっている可能性もあったけれど、どこか見覚えのある波止場をわたしは記憶を頼りに進んでいく。
 波止場、と言っても立地上ここに船が泊まることはない。ダイビングでやって来たトレーナーとポケモン達がルネに上陸するために使う場所を便宜上そう呼んでいるだけだ。今日も色んな人がやって来ているのをちらりと横目に、わたしは朧げな記憶を頼りに波止場の端を目指す。

「ここ、見たことあるかも」

 しばらく歩いていると、それらしい場所を見つけた。大きな波が立ったのか、岩場はあちこち濡れていて少し歩きにくそうだ。
 山道はもちろん、岩場にも場違いなヒールで慎重に岩を渡り歩く。そうしてどうにか海に最も近い岩まで辿り着くと、何か見えないかとおそるおそる覗き込ん――

「{{kanaName}}!」

 不意に、腕を後ろへ強く引っ張られた。頭がぐらりと後ろへ揺れ、その拍子に体の重心も大きく後ろへ傾いてしまう。バランスを失った体は慣性に従うように後ろへと、引っ張られた方向へと倒れ込む。ぎゅ、と弾力のあるそれがわたしを支えて包み込んだ。
 鼻を擽る爽やかな香りはよく知った香りで、目の前に見える紫のインナーもよくよく知っていて、何より耳に響いたその声は毎日のようにわたしの名前を呼ぶあの人のものだ。倒れ込んだわたしを抱きしめる腕の中で、ゆっくりと顔を上げる。ルネの海と同じ色をした瞳が心配そうにわたしを見つめていた。ミクリさんだった。
 緑玉の瞳は普段より大きく見開かれ、その分より沢山の日光を受けて明るく透き通った緑になっている。それがあまりに美しくて、一瞬、わたしは今この状況を忘れて見惚れてしまう。
 ミクリさんが僅かに眉を寄せて「{{kanaName}}?」と名前を呼んで慌てて我に返る。何がどうしてこんな事――ミクリさんに抱きしめられているんだろう。意識すると途端に心臓が全力で駆け出し全身が熱くなってくる。
 反射的に手を前に出してミクリさんの胸を押した。ミクリさんがわたしを囲う腕を解く。

「たまたま近くを通ったら君が海に落ちそうに見えたんだが、すまない、どうやら私の早とちりだったみたいだね」

 ミクリさんはそう言うと気恥しそうに笑って水面へと目を向けた。わたしも振り返って風に揺れる水面を見つめた。今にもあの時のハンテールが飛び出て来そうな気がした。

「ところで、{{kanaName}}はどうしてここに?」
「ハンテールがまだ居るのか気になって。多分この辺りで見たはずなんですけど」
「おや、よく覚えているね。ふむ……、出てくるか分からないけれど呼んでみよう」

 ミクリさんはわたしと違ってしっかりとした足取りで岩の端まで行くと、腰のボールからルンパッパを呼び出した。現れたルンパッパはくるんと一回転して軽快なリズムを刻むとちゃぽんっ、と海の中へと飛び込む。
 不思議なことに、その背中に何故か引っ掛かりを覚えた。以前にもポケモンが海に飛び込むのを見た覚えがあるような気がする。けれど何も思い出せない。
 ルンパッパの飛び込んだ辺りにぷくぷくと小さな気泡が立ち始める。深く潜っているのだろうか、しばらく海面に現れるのは気泡ばかりだった。
 ルンパッパは水ポケモンだけど、サクラビスやミロカロスのように泳ぎが得意なイメージが薄い。少し心配になってちらりとミクリさんを窺う。ミクリさんは何ともない顔でじっと泡を見つめていた。綺麗な横顔に、こんな時でもわたしの胸が高鳴る。
 ざぱん、と海面が大きく揺れた。次いでルンパッパが勢いよく飛び出した。跳ねた水しぶきが日光に煌めきまるで宝石箱を広げたようだ。思わずわあっと歓声を上げたら、声に反応したミクリさんが顔を綻ばせた。その優しげな笑顔にまた胸がとくんと時めいた。

「少し期待はしてみたが、やっぱりこの時間は出てくれないか」

 ミクリさんの言う通り、残念ながら海面に姿を現したのはルンパッパだけだった。そのせいだろうか、いつでも笑っているルンパッパが普段より暗い笑顔を浮かべているように見える。
 けれどわたしの視線に気がつくとすぐにぱっと明るい笑顔に戻って岩場に飛び上がると、元気よくステップを踏み始めた。ハンテールを呼べなかったお詫びのダンスのようだ。ミクリさんも目を細めて楽しそうに眺めている。

「お前のせいじゃないよ。でも、ダンスはとても素晴らしかった。さすが私のポケモンだ」

 ダンスを終えてぺこりとお辞儀をしたルンパッパにミクリさんが口角を上げる。わたしもぱちぱちと拍手を送った。ルンパッパが満面の笑みでもう一度深く頭を下げた。その仕草はミクリさんによく似ていて、けれど彼よりコミカルな動きでついふふっと笑ってしまった。ルンパッパが不思議そうに首を傾げながらボールへと戻っていく。

「あんまり長居すると休憩時間が終わってしまうね。{{kanaName}}、私はジムへ戻るけれど君はどうするかい。今日は波も穏やかだから此処で昼食を取るのも悪くないと思うよ」

 今日は天気も良く、ここは静かで一人ゆっくり昼食を取るにはぴったりの場所だった。ジムで食べると何かと仕事を頼まれ慌ただしく休憩時間が終わってしまう。
 けれど今帰る選択を選べばジムまでの帰り道をミクリさんと歩ける。悩むまでもない二択だった。

「わたしも、戻ります」
「じゃあ行こうか」

 そう言ってミクリさんが手を差し出した。「足を滑らせて海に落ちたら大変だから」と、躊躇うわたしの手を取る。大きくて逞しい手がわたしを包む。じわりと手のひらが暖かくなった。
「……あっ、」

 濡れて滑りやすい岩を越え、きちんと整備されたアスファルトの地面へ足を着いてはたと気付く。
 手を繋ぐなんて誰かに誤解されかねない事を喜んで受け入れていたらミクリさんの迷惑になってしまうのではないか。スクープを狙う芸能記者が何処に潜んでいるか分からない。ミクリさんがわたしに優しくするのを止めろとは言えないから、せめてわたしが適切な距離を保って彼の名誉を守ってやらなければ。
 けれどミクリさんはわたしの心配を大きく口を開けて笑い飛ばす。

「何も気にする必要はないよ、君はどう見てもジムのスタッフだ。うっかり名札を提げたままなのだから」
「えっ? あっ…! ホントだ、もうっ…」
「それに、女性と並んで歩く程度では流石に記事にはされないよ」
「そう…、なんですね、そっか…」

 自分の勘違いに頬が熱くなる。相手があのタレントならまだしも、わたしはジムスタッフでただの一般人だから何のスクープにもなるはずがなかった。分かっていたつもりだつたのに、やっぱりまだ少し思い上がっているらしい。今度先輩にミクリさんとの事を何か言われたらちゃんと訂正しよう。あの言葉で持ち上げられ続ける限り、きっとわたしは身の程を弁えずに思い上がり続けてしまう。
 ジムまでの道がひどく長い。ミクリさんがもっと早足だったらあっという間に過ぎるのに、彼の歩みはわたしでも難なく隣を歩ける速さだった。



「{{kanaName}}、ポロックはどうしてるのかな」

 休日のルネジムでコンテストの練習をしていたら、ミクリさんがプールにやって来た。
 1ヶ月前に借りて以来、週末の度に使っていいと声を掛けられ断るに断れず、ジムで練習をするのがすっかり当たり前になっていた。そんな私が心配なのだろうか、ミクリさんも必ずジムに顔を出してわたしの様子を見に来た。
 でも、こんな風にコンテストに関わる事で声を掛けられたのは初めてだった。ミクリさんはバトルでもコンテストでも、ポケモンが傷付かない限りトレーナーの行動に口出しや注意をしない。背筋にヒヤリとしたものが流れる。今から叱られるのだろうか。
 けれどミクリさんは穏やかな表情で言葉を続けた。

「私の見立てでは質の良いポロックを与えれば君のサクラビスはもっと美しくなるよ」

 怪我にも繋がるから鱗の手入れは丁寧にしている。けれどポロックは後回しになっていた。作るのが苦手で、何より凝り始めるととにかく大変だと聞いた事があったから本格的には手を出せずにいた。だからサクラビスには市販品か、わたし手製のそこそこのポロックしか与えていない。ミクリさんに手入れの相談をした事はなかったけれど、さすが水タイプ専門のジムリーダーなだけはある。見ただけで見抜かれてしまった。

「私で良ければポロック作りについて教えよう」

 ミクリさんが笑う。業務でわたしが困っているとその笑顔で助けてくれるのを思い出す。あたふたするわたしを見ていられないミクリさんが、堪えきれずに手を貸す時に浮かべる笑顔とよく似ている。そこまで酷いコンディションでもないと思うのだけど、この感覚の差がコンテストの優勝実績の差なのかもしれない。
 だとしても、ミクリさん――コンテストの王者とも言える凄い人に助言を貰ってもいいものだろうか。最初の1回は自分でやってみて、コンテストの結果を踏まえてから頼るのでも遅くはないと思う。けれど、

「私では君の力になれないかな」
「い、いいんですか」
「もちろん。私は君のコンテストを一番楽しみにしているんだ。力になれるなら喜んで手を貸すよ」

 善意で助けようとするミクリさんの提案を断れるほどわたしの肝は据わっていなかった。
 ミクリさんの笑顔がより一層明るく晴れやかになる。パフォーマンスが上手くいった時に見せる笑顔と同じそれに胸が時めいて肌がじわりと火照る。ミクリさんの目の前という特等席で見る微笑みは格別だ。
 無謀な恋が実ることはなかったけれど、憧れの存在に世話を焼かれ、わたしにだけ笑ってくれるのはあたりにも役得だ。ミクリさんのファンなら誰しも羨む立場で、もしも不満なんて吐き出したらそれこそ熱心なファンに刺されかねない。わたしはこの幸運をじっくりと噛み締めると、分不相応な欲望を胸の奥底へと押し戻した。

「じゃあ支度をしておいで。戸締りは私がしておこう」
「…あの、どういう」
「おや、ジムでポロックが作れると思っているのかい? 道具も材料も全て私の家だよ」

 さあ早く支度をしてきなさい。ミクリさんが背中を押す。
 どうしてミクリさんはこうも不用意に思わせ振りの態度を取るんだろう。こんな風にみんなに優しくしていたら、いつか勘違いした誰かに刺されてしまいそうでヒヤヒヤする。
 これで初恋を引き摺っているというのだから、本当に手に負えない。ゴシップ記事がミクリさんを恋多き男と称する気持ちがよく分かる。
 ふう、と息を吐く。ため息にしては熱い吐息が零れて、何かを期待するように頬は緩んでいた。



 ルネに建つ家がみな青い屋根と真っ白な壁であるように、ミクリさんの家もまた青と白が美しい外観をしていた。敷地内には庭もあって、門扉からちらりと見えたそこはよく整えられた芝生の緑が綺麗で奥の方には小さめの樹木がいくつか植わっていた。遠目ではっきりとはしないけれど、きっとあれはポロックにも使う木の実を育てているんだろう。ちょうど庭の方から飛び立ったキャモメが嘴にモモンの実を咥えている。それに気づいたミクリさんがやれやれと言わんばかりに小さく息を吐いた。

「準備が出来るまで少し待っててもらうよ」

 広いリビングに通されわたしをソファに座らせると、ミクリさんは手早く飲み物を用意してキッチンの方へ消えてしまう。
 ローテーブルに置かれたグラスにはよく冷えたフルーツティーが注がれている。一口飲んでみると甘酸っぱい。何となくミクリさんの好みとは少し違うような気がして、初恋の彼女が好きなのかなと考えてしまった。慌てて頭から追い出す。ミクリさんが誰を好きだとか、その人を家に招いているかもだとか、そんな事は一介のジムスタッフが考えることじゃない。
 視線をグラスから室内に向ける。お洒落な調度品はどれも素敵で品の良さを感じた。
 ふと、小ぶりの戸棚の上に写真が飾られているのに気がついた。どんな写真だろう、気になって近寄ると色んなミクリさんが飾られていた。
 つい最近の写真から幼少期の写真まで、おそらくお気に入りを飾っているんだろう、家族と写っていたりポケモンと並んでいたりコンテストの優勝トロフィーを持っていたりする。
 セーラー服を着た幼いミクリさんは女の子のようで、思春期の頃らしい彼が写るのは家族写真で照れ隠しに少しムッとした顔をしている。
 驚いた事にあの人気アイドルのルッチーとの写真もある。そういえば二人は容姿が似ているから、もしかして親戚なのかもしれない。
 と、その時、何枚も並ぶ写真立ての奥に何かを見つけた。思わず手が伸びそれをつまみ上げる。それは大きくて真っ赤なルビーの指輪……のおもちゃだった。

「私の一番大好きな女の子が別れ際にくれた物でね。『宝物だけどミクリにあげる』って、譲ってくれたんだよ」

 準備が出来てわたしを呼びに来たミクリさんが、ひょいと指輪を取り上げた。プラスチックで出来たおもちゃの指輪がミクリさんの小指に嵌められる。おもちゃなのにミクリさんが嵌めると本物のようだ。

「女の子はこういうのが好きなのかな。姪も…、ルチアも興味を示していたよ、あたしも持ってた、ってね」

 昔を懐かしむように微笑んだ瞳が指輪からわたしへと向けられる。求められた同意に、昔の記憶を掘り返してみる。わたしもおもちゃの宝石はいくつか持っていた。安いプラスチックでも光にかざすとキラキラしてとても綺麗だった。
 そういえば真っ赤なルビーの指輪も持っていた気がする。そうそう、夏祭りか何かで買ってもらったんだ。でもわたしの指には少し大きくてすぐに落としちゃうからアチャモのポシェットに入れて持ち歩いていたんだっけ。あのポシェットと指輪はどうしたんだろう。いつの間にか使わなくなって覚えていない。
 いや、そんな事より今ミクリさんはルッチーのことを姪だと言わなかっただろうか。

「ルチアちゃんって、ミクリさんの姪っ子なんですか?」
「おや、知らなかったかい?」
「だからここにも写真があったんですね」

 ルッチーとのツーショット写真をもう一度見る。優勝トロフィーを抱えて満面の笑みを見せるルッチーに、その隣のミクリさんも嬉しそうに笑って写真に写っている。もし、もしもわたしが今度のコンテストで優勝したらこのルッチーみたいに写真を撮ってもらえるだろうか。欲が滲み出す。

「あのっ、」
「……ん、何かな」
「あ、いえ、えっと……、その、ポロックは……」
「そうだったね、始めようか」

 厚かましいお願いはすんでのところで胸の中に押し戻された。指輪に注がれたミクリさんの視線があまりにも恋焦がれて見えて、とてもそんな約束できなかった。
 その後わたしはミクリさんからポロック作りの基本をみっちりと叩き込まれ、日が水平線に沈む前に沢山のお土産――ポロックに必要なきのみやその他サクラビスの手入れに役立つもの――を頂いてミクリさんの家を出た。夕食に誘われなかったのは少し残念で、同時にミクリさんでも最低限の線引きは出来ているんだとほっとした。
 だったらわたしにやたらと優しくしてその気がある素振りをするのも、その癖手の平を返すように初恋が何だかんだと言って眼中に無い態度を取るのもやめてくれたらいいのに。そういうのは好きな相手、それこそ引き摺ってる初恋相手にするべきで。考えれば考えるほど、気持ちが重たくなる。

「失恋を引き摺ってるのは、わたしも同じかも」
 オオスバメの背中でため息を零す。声を掛けられたと思ったオオスバメが首を傾げ、水平だった体が少しだけぐらりと揺れた。
 けれど数時間後、偶然掛かってきた実家の母からの電話で事態が大きく動く。バラバラだったはずの事実のピースが綺麗に組み合わされひとつの形を作り出す。わたしは言葉を失った。

『あの指輪なら{{kanaName}}がお友だちにあげたでしょ? ルネで迷子になった時に面倒見てくれた可愛い男の子に。あら、そういえばあの子の名前…、たしか、ミクリって……、っ! {{kanaName}}、明日仕事でしょ、確かめてみたらどう? 本人だったらお礼言っときなさいよ』



誰か嘘だと言って
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