Candytuft smiles, love comes true.

初恋の少女と憧れの人

Candytuft smiles, love comes true.


 日々は何事もなかったように過ぎていく。わたしは相変わらず小さなミスを繰り返す頼りないジムスタッフで、ミクリさんはホウエン最強のジムリーダーとして華麗に職務を全うしている。重大な事実にわたしが気づいてしまったことも、けれどそれを確認する勇気を持てずにいることも関係なく、時間だけが過ぎていく。

「もしかしてミクリさんと喧嘩でもした?」

 挑戦者も業務も少ないとある午後、先輩が心配そうな顔で尋ねてきた。名前を聞くだけでも過敏に反応してしまう身体が案の定ぎくりと跳ねる。先輩がやれやれとため息をついた。

「何があったか知らないけど、そんなに露骨にミクリさんの事避けてたらバレバレなのよ。話し合いくらいちゃんとしなさい」
「あのっ、わたしはそんな」
「{{kanaName}}のミスはいつもの事だから構わないけど、“ミクリ様”が精彩を欠くのは大問題なのよ。それに今週末はコンテストでしょう? あなただって良いコンディションじゃないと困るじゃない、いいわね?」
「だから、その」
「返事は?」
「は、はぃ……」

 先輩はもう一度ため息を吐いて自分の作業へと戻る。わたしは先輩の関心が自分から仕事に戻るのを確認して小さく息を吐いた。
 たしかに先輩の指摘するように、わたしはミクリさんを避けているかもしれない。だって、今まで散々気の所為だ勘違いだと否定し続けたミクリさんからの好意が気の所為でも勘違いでもないかもしれないのだから、どうやってミクリさんと接したらいいか分からなくなっていた。もう知らない振りは出来ない。
 だから業務で困った事があればすぐに先輩に助けを求め、昼食も休憩に入るなり一目散にジムを飛び出し外で食べた。休日の練習も同様に、ミクリさんに声を掛けられる度に大丈夫だと言葉を遮って極力会話をしないように振舞っていた。
 その結果、ミクリさんとわたしの距離はスタッフとして問題ないものになり、代わりにミクリさんの調子がほんの少し悪くなった。といっても今までが120点で、それが100点になっただけ、完璧な状態には変わりない。けれどミクリさんはそれを良しとしていないし、実際先輩が言うように最近のバトルは精彩を欠いたように見える。わたしですら感じるならミクリさんのファンはとっくに気づいているんだろう。何か問題が起こる前に調子を戻してもらわなくちゃ、このままじゃ駄目なのは明らかだった。
 だとしても。
 強くて美しい憧れの存在が、まさか自分を想い続けていたなんて、どうしたらいいんだろう。それが本当に事実かを本人に確認した後に起こるであろう関係の変化を、わたしはまだ受け入れる自信がない。だからまだもう少しだけ、逃げたい。
 けれど同時に、ミクリさんの家で見た写真が思い浮かぶ。あの、トロフィーを抱えて満面の笑顔を浮かべるルッチーとミクリさんのツーショット写真が。ミクリさんから逃げてるままじゃ、優勝しても写真は撮れない。
 それにきっとミクリさんもわたしに思い出してもらいたいはずだ。今まで少しずつ思い出すきっかけを与えてくれていたのだから。だから、このまま逃げ続ける訳にはいかない。覚悟を決めなくちゃ。
 わたしは大きく深呼吸して決意する。
 それでも結局わたしはその日もミクリさんを避けてしまい、明日は絶対に決着をつけるぞと覚悟を先延ばしにすることになる。帰り支度をする先輩にじろりと睨まれ「コンテストは明後日なのよ、分かってるの?」と怒られたけれど言い返す言葉もなく、わたしは先輩に向かって謝るしかできなかった。

「謝る相手が違うでしょう!」

 そこまで言うなら先輩が無理やりにでもわたしをミクリさんの元へ連れてってくれたらいいのに。本気で心配してくれる彼女に感謝をしつつも、少しだけ不満を覚えたのは絶対に言えない。



「まさかここで働いてるなんてな。元気にしてた?」

 ジムの受付で挑戦者の試合後の手続きをするわたしに、ミクリさんに惜敗した挑戦者が話し掛ける。彼はスクール時代のクラスメイトで、あの頃しなかったジムへの挑戦を休日を使って頑張っているらしい。彼以外にも同じように挑戦する友人を何人か知っているけど、学生時代と違ってトレーナーに全力を注げない社会人でルネまで挑戦する人間はとても少ない。学生時代のわたしだってバッジを6つ集めて挑戦をやめてしまったのだ、感心せずにはいられなかった。

「もしかして惚れ直した?」

 にやりと笑う彼に、少しの下心を感じつつも久々の再会を無下には出来ず「どうでしょうね」と曖昧に返した。スクールでの彼はもっと生真面目でこんな軽口は叩かなかったから、ちょっと驚きもした。
 あの時よりずいぶん女性慣れした彼は受付に両肘をついて、わたしをじっと見つめると、

「なあ、次の挑戦で勝ったら」
「手続き、終わってますよ」

 いつの間にそこにいたのか、隣に立つミクリさんが彼にトレーナーカードを返した。彼の視線がわたしからミクリさんへ移り、途端にピンと姿勢を正して「次は絶対勝ちますから」その瞳に闘志を燃やす。
 一方のミクリさんは寄せては返す波のように掴み所のない笑顔を浮かべている。それでも、次も負ける気はないという意思は感じ取れた。わたしがそうなのだから彼にも分かったのだろう。キッ、と一層視線を尖らせてミクリさんを睨むと最低限の会釈をしてジムを出て行ってしまった。わたしをナンパするより次の挑戦に向けて特訓するのを選んだようだ。ほっとする反面、ミクリさんに負けたようで少し悔しくもあった。

「言い寄られているように見えたから間に入ったけれど、もしかして知り合いだったかな」
「あぁ…、えっと、そ、そんな感じです」
「それは悪い事をしてしまったね」

 わずかに眉を下げて謝るミクリさんは、しかし言葉ほど謝っているようには見えなかった。何かを言いたげな、或いは聞き出したがっている視線がわたしをじっと見下ろしている。エメラルドグリーンの瞳は妙に影を背負っていてどこか居心地が悪かった。

「彼とは…、ずいぶん親しそうだったね」

 ミクリさんはそう言ってにこりと微笑む。わたしもつられて口角を上げるけれど、ミクリさんと違って上手に笑えなかった。
 親しかったと言えばそうなのだけど、今はもうすっかり忘れていた存在だった。恋に憧れて成り行きで付き合ったものの、唇がわずかに触れるだけのキスで気まずくなって終わった相手で、今さらどうこうするつもりもない。わたしはもっと誠実で頼りになる、今目の前にいるミクリさんのような人がいい。

「{{kanaName}}、……」
「はっ、はい! 何でしょうか」

 けれどミクリさんは口を閉ざしたまま何も言わない。わたしの顔をじっと見つめ、ほんの少し眉間にしわを寄せ、一瞬だけ視線を逸らし、そうしてようやく口を開いた。

「君だけ昼休憩がまだだっただろう。次の試合まで時間もあるから、今のうちに行ってきなさい」

 お昼休憩は先輩と順番に取るのだけど、今日は休憩に入るタイミングで試合が終わってその手続きを優先してしまっていた。休憩の順番はその日の仕事の具合で決めているのに、ミクリさんはそんな事まで把握しているとは。バトルは本調子ではないようだけどその他の気配りはいつもと変わらないようだった。
 けれど、そんなミクリさんの笑顔はいつもより暗く見える。ステージの上で太陽よりも眩しい照明を受けてなおそれよりも煌めく笑顔を振りまく人が、影を落とした顔をしている。早く、何とかしなくちゃ――あの日わたしと遊んでくれた人魚姫の正体の答え合わせをして、ミクリさんの初恋の相手を確かめなくちゃ。でも、一体どうやって切り出したら……

「{{kanaName}}っ!」
「え、あっ、痛っ……」

 視界にも自分の動きにも一切注意を払わなかったわたしは、ふらふらと柱の方へ歩いていた。そのくせ勢いはあったようで、ごちん、と額を打ち付ける。あまりの痛さと間抜けな自分にいたたまれなくなって額を押さえて俯く。
 わたしってばいつもこんな馬鹿みたいなミスをしている。ミクリさんは初恋の相手を忘れられないと言っていたけれど、こんな醜態を晒し続けるわたしに今もまだ恋心なんて持ち続けているんだろうか。視界が雨の日の窓のように滲む。

「大丈夫かい」

 大理石の床にミクリさんの靴音が響く。それはわたしのすぐ傍までやってきて、ふっと頭上に影が落ちたと思ったらくしゃりと頭を撫でられていた。恥ずかしくていよいよ顔を上げられない。

「{{kanaName}}、今日の夜は空いてるかな」

 あまりにも唐突な言葉に、何を言われているのかうまく理解ができなかった。だって今日も仕事は夜まであって、その後は明日のコンテストの最終確認をするつもりで、空いてるとは一体何の話だろう。もしかしてミクリさんは挑戦者の予約の有無を聞かれているんだろうか、たしか午後の予定は…………そんなずれた事を考えていた。
 けれどそれが誘い文句だと気づいた途端、初めての出来事に体がはっとするように震えた。俯いていた頭を上げようとして、ミクリさんが頭に置いた手に力を込めた。これではミクリさんの顔が見れない。

「明日はいよいよコンテストだからね。このミクリが君の演技を見てあげよう」

 断っていいのなら、断っていた。でももしこの誘いを断ってしまったら、このぎこちない関係を終わらせるチャンスはもう二度と来ないような気がした。遠慮がちにわたしを誘った声も、今断れば次はないと言っている。返事は決まっていた。

「お願い…、します」

 ミクリさんが手を離す。軽くなった頭を上げるといつもの様に穏やかに微笑むミクリさんと目が合った。エメラルドグリーンの瞳にもう影は見当たらず、ルネの水面のようにきらりと輝いていた。



 下手な言い訳を繰り返しながら先輩達が帰るのを見届け、どうにかみんなを先に帰らせると小走りにミクリさんの部屋へと向かった。サクラビスは日中ポケモンセンターに預けているのでお昼休憩中に呼び出しておいた。
 3回ノックしてドアを開ける。ミクリさんは帰り支度を済ませたところで、わたしの入室ににこりと微笑んだ。ミクリさんは誰よりも先に来て誰よりも後に帰るから、ジム内で彼の私服姿を見ることはめったにない。休日の練習の際にジムへ顔を出すミクリさんはさすがに私服だけれど、それでもまだ見慣れるには至らないその姿にドキリと胸が高鳴る。
 オープンカラーの白いシャツは普段の衣装で隠している首元をさらけ出し、すらりと伸びる足を包む濃藍のワイドパンツは軽い生地で出来ているからか少しの動作でも裾をひらりと揺らす。着ているものはいたってシンプルなのにそれでも充分舞台映えしそうで、わたしの心臓は大きな鼓動を立ててゆく。

「準備は出来ているようだね。じゃあ行こうか」

 ミクリさんはそう言って手際良くジムの施錠を始める。今から使うはずのプールへの扉もなぜかしっかりと鍵を閉め、全ての室内照明を落とし防犯システムを作動させると最後に裏口のドアをガチャリと閉めた。わたしは昼間の言葉を思い出しながら眉を顰める。

「近頃リーグが厳しくて、ジムに居残っていると注意されてしまうんだよ。だから申し訳ないが私の家でもいいかな」

 ジム内の防犯カメラの映像はリーグ本部でも確認が出来ると聞いたことがある。数分で終わるならまだしも、せっかく演技を見てもらえるならしっかり見てもらいたい。それに、わたしには他にも聞きたいことがある。それら全てを叶えるには退勤を見張られているジムでは都合が悪い。でも、少し前にあんな写真を撮られたばかりのミクリさんの家へ行ってもいいんだろうか。

「不安なら、少し波は立っているが海にしようか」

 わたしが躊躇ったのを勘違いしたらしいミクリさんが言葉を続けた。そんなつもりで返事をしなかった訳じゃない。慌てて大きく首を振って「だっ、大丈夫です。ミクリさんの家で、大丈夫です!」と叫ぶように返事をした。

「ふふっ、{{kanaName}}は元気だね」
 では行こうか。ミクリさんが歩き出す。わたしも遅れないように大きく足を踏み出した。
 なお、実はリーグのチェックが厳しいという事実は存在せず、わたしを家に呼ぶ口実に吐いた嘘だと知るのはそれから数ヶ月後、サイユウで開かれた定例会議でのことだった。



 先日ポロックの事を教わる際に訪れた時と同じく、ミクリさんの家はモデルルームのようにある種の理想を形にしたような家だった。それでいて生活感もあって、彼がこの家で日々充実した生活を送っているのが容易に窺えた。
 前回と同じくリビングに通されソファに腰掛けるよう促され大人しく待っていると、視線が自然と戸棚の写真へと向かった。この数週間の間にショーもなければ大きなコンテストも開かれていないため、写真は何も変わっていないように見えた。けれどよく見ると記憶にない写真が飾ってある。わたしは確かめようとソファから立ち上がって戸棚へと近寄った。
 ミクリさんは庭のプールの準備をしていて、それには少し時間が掛かると言っていた。ちょっと見るくらいなら平気だろう。別に見ていたのを知られても構わないのだけど、気恥ずかしいから出来れば秘密にしておきたい。
 新たに飾られていた写真は幼い姉妹の写真だった。どちらもミクリさんと同じくエメラルドグリーンの髪を持ち、意外と日差しの強いルネにも関わらず新雪のような白い肌をしている。夏の写真らしく、姉の方はツバの広い麦わら帽子を被ってワンピースの裾をドレスのように持ち上げている。妹はセーラー服とそれに合わせた水兵帽を被って、照れ隠しにそのツバを両手でぎゅっと掴んでいた。
 その写真を手に取る。ぱっと見て姉妹だと思ったそれが、実はそうではない事にわたしは気付いている。
 これは、姉弟の写真だ。そしてその弟こそ、人魚姫であり、この家の主である――

「何か気になる写真でもあったかな」

 わざわざ手に取って。頭上からよく通るテノールの声が響いた。振り返るとミクリさんが微笑みを湛えている。慌てて背中に隠すけれど家主のミクリさんにはどの写真を持っているかすぐに気付かれただろう。ミクリさんの顔があっ、と何か言いたげに口を開く。

「すっ、すぐに戻します!」

 慌てて写真を元に戻す。けれど焦った手は震えていて、写真立ては無様にぱたんと倒れてしまう。すぐさま置き直そうと手を伸ばしたら、ミクリさんがわたしを呼び止めた。びくりと大袈裟に肩が震える。振り向くと少し呆れた顔が間抜けなわたしを見つめていた。

「私が戻しておくよ。プールの準備は出来ているから、君は先に行っておくといい」

 そう言って、ミクリさんは一歩前へ出るとわたしに背を向けて倒れた写真立てを手に取った。彼の足元にはハスブレロがいて、わたしを案内するように庭の方を指差している。
 でも、わたしは動かなかった。

「あの、ミクリさん、」

 本当はもっと言葉を考えて場を整えて切り出すつもりだった。けれど直感が告げている、今この機会を逃したらわたしはずっと逃げる選択をしてしまう、と。
 それにコンテストは明日で、聞くなら今しかない。演技を見てもらったその後で、なんて、わたしはそれほど器用ではないしミクリさんだって何かと尤もらしい理由でわたしをさっさと家に帰すだろう。だから、わたしは動かなかった。
 ミクリさんはわたしに背を向けたまま「何かな」返事をする。その声はいつもと変わらない。ただ、主人の顔を見上げたハスブレロが不思議そうに首を傾げている。わたしはもう一度ミクリさんの名前を呼んで、緊張で大きく轟き始めた鼓動の痛みを受け止めながら言葉を続けた。

「ミクリさんが…、あの時迷子のわたしを助けてくれた子だったんですか」

 夢と混じった幼い頃の記憶ではあったけれど、写真の中のミクリさんを見てこの子だと確信した。この子が夢の中の人魚姫で、わたしにルネの素敵な場所を案内してくれた友だちだった。
 わたしが倒した写真立てが綺麗に並べられる。ミクリさんが振り返った。潤いに満ちた唇が綺麗な弧を描く。そして、

「そうだよ。私が“人魚姫”だ」

 両手を広げ、ステージでするようにポーズを取った。エメラルドグリーンの瞳がわたしを揶揄うようにキラリと煌めく。

「{{kanaName}}が私を女の子と思っていたようだから言うに言えなくてね。でも思い出してくれたのは喜ばしい事だ。素敵な思い出と宝物を譲ってくれた彼女に、次に会えた時に私は何を贈ろうかとずっと考えていたから」

 ミクリさんはくすりと笑って、足にしがみついたハスブレロに何かをお願いする。ハスブレロは大きく二度頷くとペタペタと足音を鳴らしてリビングを出て行った。ミクリさんの視線がハスブレロの背中からわたしへと戻る。
 まっすぐに見つめられ、山ほどあったはずの言いたい言葉が喉の奥へと引っ込んでいく。聞かなくちゃいけないことはまだある。それはきっと明日の演技の出来栄えにも大きく関わる。
 けれど苦いコーヒーを飲んだ時のような苦しさが、わたしの言葉の邪魔をする。問いたださずとも待てばいいじゃないかと、楽をしたがる自分が声を奪おうとする。

「ああ、ありがとうハスブレロ。お前もプールで遊んでおいで」

 うじうじしている間にも時間は進む。ハスブレロが頭の蓮の葉に小箱を乗せて戻って来て、そのままひとりプールへと走ってゆく。よく見れば庭には他のポケモンも出ていて、それぞれ気ままに遊んでいる。

「あの時のお礼さ。受け取って」

 手渡されたのは小さな宝石箱で、中には小粒の真珠や綺麗な貝殻、カラフルなシーグラスなど女の子が喜びそうなものが沢山詰め込まれていた。ただその中にひとつだけ、幼い少年には決して用意出来そうにないものが紛れ込んでいる。受け取れない。こんなもの、気付かない振りをして受け取れる代物ではない。

「ミクリさん、」
「……何かな」

 宝石箱から顔を上げミクリさんを見上げる。気のせいでなければミクリさんも緊張していた。頬もいつもより血色が良く、見つめ返す瞳に普段の余裕が見当たらない。

「ミクリさんの初恋の相手って……、あの時の、迷子の女の子…、ですか」

 心臓が今にも胸を突き破ってしまいそうだった。鼓動は外のポケモン達にまで聞こえていそうな程大きく、どくんどくんと拍動する度に自分の体が波打つようだった。
 ミクリさんはわたしをじっと見つめたまま動かない。ゆっくりと数度瞬きをして、それでも返事はまだない。
 今さらになってとんだ思い違いをしていたのかもと怖くなってきた。ミクリさんの言動は全て純粋な善意で恋愛感情なんて少しもなかったのかもしれない。初恋の事だって、今までのミクリさんを見てそう思っただけで、確信がある訳でもない。
 そもそも、たった半日遊んだだけの見知らぬ少女を今もまだ忘れないだなんで、あまりにも都合の良い夢だ。宝石箱に入っているそれも、きっと何かの間違いで紛れ込んだものに違いない。激しく鼓動する心臓が、後悔と羞恥の色を強めていく。

「ご、ごめんなさいっ、わたし、変なこと…」
「そうだね」
「そっ、そう…、ですよね、迷惑な勘違いをしてすみま――」
「あの時の彼女が初恋の相手で、私は今でも彼女を忘れていないよ」

 ミクリさんが微笑む。

「だからこれはあの時のお礼のお返しで、同時に今の私の気持ちだ。受け取ってほしい」

 わたしより一回り大きな手が、宝石箱ごと――本物のルビーの指輪が入った宝石箱ごとわたしの手を包み込む。触れた肌から伝う体温はとても熱くて、けれどじんわりと混じり合う熱はとても心地好い。

「でも、わたし、」

 それでも、つい先日まですっかり忘れていた自分がこれを受け取っていいんだろうか。嬉しいのに申し訳ない気持ちも大きい。想いの大きさが全然釣り合っていなくて、宝石箱を受け取る事も自分の気持ちを伝えるのも何だか失礼な気さえする。
 そんなわたしのまごつく態度をどう捉えたのか、ミクリさんが小さく笑う。そしてぎゅっと手に力を込めたと思ったらその手を離した。

「これはあくまで私の気持ちだから、{{kanaName}}が誰を好きであっても構わないよ。ただ今度は忘れないでほしい、ルネの子は一途だってことを」
「えっ、」
「今日の彼、少々言動が軽いところもあったけど良さそうな人だったね」
「いや、あれはっ!」

 あれは、久々に再会した知人に少し嬉しくなっただけでそれ以上の特別な感情はない。でもそういえば、間に入ったミクリさんはどこかいつもと様子が違っていたようにも思える。あの時は自分がミクリさんを避けてたことが原因だとばかり思っていたけれど、もしかしてわたしが彼に惚れたと思ったのかもしれない。わたしは首を大きく振って否定する。

「彼の事は何とも思ってないです! 確かに昔ちょっと付き合っていたけど、それだってすぐに自然消滅して…、とっ、とにかく今わたしが好きなのはミクリさ…っ、」

 エメラルドグリーンの瞳が瞬きもせずわたしを見つめていた。勢いで飛び出した言葉に慌ててブレーキを掛けるけれど一度声に出した言葉は取り消せない。
 ミクリさんがゆっくりと瞬きをする。長くて綺麗にカーブしたまつ毛が淡い影を肌に落とし、再び目の前に現れた瞳は何倍もの輝きに満ちていた。あの子も――昔ルネで出会ったミクリさんも同じ目でわたしと手を繋いで一緒に歩いてくれたことを思い出す。その瞳がとても綺麗で、だから宝物の指輪を渡したことも、やっと今思い出した。

「{{kanaName}}、」

 ミクリさんがわたしの名前を呼ぶ。砂糖菓子のような甘さを含んだ声に全身がとろけてしまいそうになる。

「やっぱり少し訂正させてもらうよ。もし君が私の想いに応えてくれるなら、明日その指輪を着けてほしい」

 宝石箱のルビーがミクリさんの声に応えるように煌めく。

「さぁ、あまり遅くまで君を拘束しては明日のコンテストに支障が出てしまうね。演技を見てあげよう」

 シャボン玉が弾けるように一瞬にしてミクリさんがいつもの顔へ戻る。こんなにもわたしをクラクラにさせておいて、ひとり逃げてしまう。そう気付いたわたしの体は勝手に動いていた。
 宝石箱から指輪を取り出す。本物のルビーはおもちゃと比べ物にならないほど美しくうっとり見惚れてしまいそうになる。けれど今はそんなことをしている場合じゃない。わたしは覚悟を決めて薬指に嵌めると、先に歩き出したミクリさんの手を掴んで引き止めた。
 ミクリさんが振り返る。わたしは左手を掲げて浅く速くなる呼吸をどうにか落ち着かせて口を開く。

「わたしも、ミクリさんが…っ、す、好きですっ」

 明日なんて待てなかった。
 ミクリさんが困った顔で笑う。

「コンテストの前夜は出来るだけいつも通り過ごすのがいいんだよ。それなのに君は……。まぁ、誘ったのは私の方か」

 ふふっ、とミクリさんが微笑む。今までのどんな微笑みよりも艶やかな笑みに心臓がどくんと大きく跳ねて体の奥から熱を帯びる。反射的に手を離す。けれど次の瞬間、ミクリさんにその手を取られ指を絡められる。

「さぁおいで」

 この時一緒に踏み出した一歩は記憶の中のどれよりも心が弾んでいて浮かれていて、幸せに包まれていた。





 翌日は案の定コンディションが最悪で、コンテストの結果は当然ながら優勝には遠く及ばなかった。サクラビスには呆れられ先輩達には慰められミクリさんには謝られた。
 そんなわたしが優勝トロフィーを掲げてミクリさんと写真を撮るのはまだもう少し先のことでその日わたしに大事件が起きるのだけど、未来の話はまたいつか、その時に。



一途な人魚の恋が叶う
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