ガラスの靴はないけれど

恋人に振られた夢主と恋に落ちたダイゴ

 ガン、突然右足が動かなくなる。何が起きたと足元を見るとマンホールの穴にヒールが嵌っていた。
 最悪、無理やり引き抜こうと足に力を込めると嫌な感触がして穴からヒールが抜ける。嘘でしょ、と右足を見つめるけど根本から折れてしまったヒールは見間違いではなく、無理して歩けば足を挫いてしまうのは子供でも簡単に予想ができた。
 お気に入りのそれは勿体なくてまだ数回しか履いていない。真っ赤なソールが印象的なヒールは昔からの憧れで、それが似合う女性になりたいと自分なりに努力をしてきていた。それがまさか今日という日にポキリと折れてしまうなんて、どうして今日なんだろう。
 昨日突然掛かってきた電話は彼からで、今日会いたいといやに深刻な声で告げられた。その前から何となく分かっていたけれど、いよいよ振られるのかと暗くなる気持ちを振り払うためにお洒落をしてこのヒールを履いてきたのに。ついてないの一言で済ますにはあまりにも辛い出来事だった。
 泣きそうになるのを必死で我慢して近くの修理店を調べる。けれどこの近くには見当たらず、かと言って代わりの靴を買うには場所が悪すぎた。ここはハイブランドが立ち並ぶ通り、ヒールが折れたからといって気軽に買えるような店はない。
 わたしは折れたヒールへ恨みを込めた瞳を向けてぐちゃぐちゃになった感情を吐き出すようにため息をついた。
「きみ、大丈夫」
 不意に声が掛かる。
 顔を上げると銀髪の男性が心配そうにわたしを見ていた。その男性は折れたヒールに目を向け再びわたしへ視線を戻すと「これなら丁度そこにあるね」躊躇うことなくわたしを抱え上げた。
 一体何が起こったのか分からず、急に近くなった男性の顔から視線を逸らす。けれど道行く人々の視線と囁きに恥ずかしくなって顔の向きを戻して両手で顔を隠した。どうしてわたしは見ず知らずの男性にお姫様抱っこなんてされているの、どうしてこの人は平気な顔をして歩いているの。
「あの、わたし自分で歩け―」
「もうすぐ着くから」
 一体何処へ、わたしは指の隙間から辺りを覗く。目の前にはこの折れたヒールを買ったショップが見える。
 もしかしてこの人、まさかそこへ向かおうとしているの。有難いけれどわたしは今すぐこのヒールを直す必要があって、もしあそこで修理をお願いしてしまったら別に靴を用意しなくちゃならない。
 それを伝えようと顔を隠していた手をのけて真っ直ぐ前を向く彼に声を掛けようと口を開く。
 が、それより先に彼がわたしへ話しかけた。
「少しだけボクの連れの振りをしてくれるかな」
 その言葉と同時に自動ドアが開き、品の良い店員が瞬時に状況を把握して近くのスツールをこちらに持ってきてくれた。わたしを軽々と抱きかかえていた彼は何か言いたそうにわたしへ視線を落としたけれどすぐに顔を上げ、そのスツールへとわたしを下ろした。
 あのマンホールからこのショップまでは大した距離ではないのに、自分の体が自分の思う通りに動かせる感覚が久しぶりで何処かふわふわとしている。それを何とか落ち着かせわたしを置いて話をしている二人の会話に耳を傾ける。
「――それと彼女にヒールを一足見繕ってくれるかな」
「畏まりました」
 えっ、と声を上げると「あのヒールじゃまともに歩けないじゃないか」と男性が微笑む。確かにそれはそうだけど、替えの靴をこんな所で買うような余裕は財布にも心にもない。わたしは傍を離れた店員には聞かれないようにと願いながら小声でここで買うつもりはないと慌てて伝えた。
「そのヒールが似合っているんだ、他のもきっと良く似合うよ」
 そういう問題ではない。けれど爽やかに笑っているこの男性に果たしてそれが伝わるだろうか。よく見れば彼の身に付けているものはどれも高そうで、よく磨かれた革靴がひどく眩しい。自分のご褒美にと奮発して靴を買うような生活とはきっと縁遠いに違いない。わたしなんて今ここで新しく靴を買ってしまったらしばらく贅沢禁止が待っているというのに。
「そうじゃなくて、」
「お待たせしました」
 そこへ店員が戻ってきてわたしは抵抗も出来ずに促されるままそのヒールを履く。
 その色も素敵だと思って最後まで迷っていた、こうやって履いてみると欲しくなってしまう、でもそれは出来ない。
「きみにぴったりだ」
 彼から差し出された手を取って鏡の前に立つ。買えないと分かっていても、ついこのヒールで出かけるのを想像してしまう。こんな素敵なヒールを毎日履けたらいいのに、思わずため息が零れた。
「他に気になるのはあるかい」
 耳元で声がして、はっとして鏡に映る姿に目を向ける。両肩に手を置き耳元で囁く彼が鏡越しにわたしを見つめていた。
「履くだけならタダなんだから」
 いたずらっぽく笑う彼につられてわたしの頬も緩む。それを承諾のサインだと受け取ったのか、男性は満足気に笑って「あれも良さそうだよ」とわたしから離れてゆく。
 一人で鏡の前に立っていると途端に不安になる。このまま流されて買ってしまっていいのだろうか。いやよくないのだけど、かと言ってきっぱり断れる自信もない。適当に理由を作って逃げ出そうにもヒールは折れているからすぐに捕まってしまう。どうしよう、本当にどうしたらいいのか。
 内心オロオロと困っていたら店員さんが品のある微笑みで近づいてきた。
「今日のダイゴさまは何だか楽しそうですね」
ダイゴ、それが彼の名前なんだろう。その音を舌で転がしながら店員の言葉に耳を傾ける。
「ご自身の靴を選ぶ時はもっと退屈そうで私たちに全て任せてしまうのに」
 今言ったことはご本人には秘密ですよ、苦笑気味の店員さんを見るに手間は掛からないけれど面白くない客であることが何となく察せられた。変な人、両手にヒールを持ってこちらへ戻る彼を見ながら再びため息が出る。


 結局わたしは買わない意志を示す隙を与えられず、勧められるままに何足か靴を履いては鏡の前に立ちどれが一番似合うか話し合う二人の意見に振り回されながらこれだという一足を決めてしまっていた。
「あの、わたしこんな靴」
 店員さんが離れたタイミングで再度抗議する。けれど最後まで言いきらないうちに彼の指がわたしの口をそっと押さえる。
「ここへ入る時に連れの振りをしてと頼んだよね」
 まさかここでボクに恥をかかせるつもりかな、すっと滑らかに弧を描く唇があまりにも綺麗で反論の言葉を失った。
 わたしはダイゴさんが慣れた手つきで支払いを済ませるのをただただ見つめ、ごく自然に組んだ腕に緊張しながらショップを後にした。
 しばらくそのまま歩き、けれど理解の追いつかない状況に耐えきれず足を止め声を絞り出す。
「あの、どうしてこんな事……」
 理由が思いつかない訳ではない。ただそれはあまりにも都合が良すぎる思い込みで。だからきっとこれは今から怪しい壺でも売りつけられるんだと覚悟する。
 けれどダイゴさんはそんなわたしの心を見透かしたように微笑んで「大丈夫、ボクは君に何かを売ったり騙したりするつもりはないよ」と答えた。
「じゃあ、どうして」
 もう一度問うと、今度は微笑むだけで何も答えてくれない。そのまっすぐに送られる視線が恥ずかしくて目を逸らすと、ふふ、と笑い声が聞こえた。
「話の続きは一緒に食事でもしながらでどうかな」
 振られたばかりなのに、わたしは目の前に差し出された誘惑を振り払えず静かに手を取った。