知らないは罪

残業するデボン社員夢主と気が気じゃないダイゴ

 誰もいない部屋でひとりディスプレイとにらめっこしながらキーボードを叩く。終わらない、帰りたい、そんな事を考えているせいなのか、作業は遅々として進まない。そろそろ集中力も限界で、たまらず呻き声が漏れ出てくる。
「まだ残ってたんだ」
 それは自分のものではない声だった。ぎょっとして声のした方、部屋の入口に体を捻ると壁に寄りかかってこちらを見つめる人影がひとつ、私とは違って随分キラキラとした顔で笑っていた。
「ダ……ツワブキさん、」
 いくら恋人でも此処には私たちしかいなくとも、社内では名前では呼ばない、それが私たちのルール。
 なんだけど。
「{{kanaName}}は頑張りすぎだよ」
 ダイゴはそんなルールを飛び越えてくすぐったくなるような柔らかい声で名前を紡いでくる。
「それだって別に今日中に終わらせる必要はないんだろう?」
 いつの間にか私の傍まで寄っていて、背もたれに手を付き私越しにディスプレイを覗き込む。顔が近い。
 どうしよう、まさかダイゴが来るなんて思ってないから髪も整ってないしメイクだって直してない。眠気を何とかしようとカフェインたっぷりのコーヒーを大量に摂取しているし蒸し暑いからってジャケットは脱いでシャツのボタンはいくつか外している。
「今夜は雨が降るそうだよ」
「傘は持ってきてるので大丈夫です」
「ボクは持ってきてないんだよね」
 だから早く帰ろうよ。ダイゴがこちらを向くのを感じたけれど一日の疲れが溜まったこの顔を晒せるはずもなく自然と逃げるように首が動く。
「ほら……ん、それはどうしたんだい」
 ギシ、椅子が軋む。それ、と言われたのはキーボードの傍に落ち着いている手のひらサイズのぬいぐるみだ。
「そんなの、この前はなかったよね」
 なぜかピリピリとした口調で、私がそのぬいぐるみを手に取ろうとするとその手を払いのけて取られてしまう。ダイゴは掴んだぬいぐるみをじっと見つめ、やや冷たくなった視線を私へと向けた。
「ガラルに出張してた先輩がお土産だ、って」
 いつも頑張ってるから、と個人的に頂いてしまったそれはカジッチュというポケモンのぬいぐるみ。リンゴのような見た目が可愛らしくてデスクのよく見える場所に置いていた。
「これはボクが貰うね」
「えっ、なんで」
「いいよね」
「ダ、ダイゴ……?」
 にこり、笑った顔を見せているけれど機嫌を損ねているのは明らかだった。カジッチュのぬいぐるみが原因であるのは何となく分かる。けれどなぜそのぬいぐるみが原因でダイゴが不機嫌になるのか、それがちっとも分からない。
 今にも帰りそうなダイゴの腕を引く。メイクがどうだ服装がなんだとか言っている場合じゃない。
「ごめん、なさい」
「{{kanaName}}は謝るようなことをしたのかい」
「そ、れは」
 自信のない瞳はこちらを貫く視線に耐えきれずに逃げるように伏せられる。そうだと思ったよ、そんな呟きが聞こえたと思ったらダイゴが手を伸ばしてキーボードを叩く。私の後ろに回り込む必要なんてないのに、わざと体を寄せるような体勢を取っていて。こんな時でも早まる鼓動に自分でも呆れつつディスプレイに目を向けるとカジッチュに関するページが開かれていた。
「ここ、読んでみて」
「えっと、『好きな相手にカジッチュを渡して』」
 想いを伝えると恋が成就する。
「そんなの知らない」
「知ってて受け取ったら大問題だよ」
 渡した方はどういうつもりだったんだろうね、ダイゴのため息が耳にかかった。いつの間にか柔らかな空気に戻っている。
「そういう訳だから、これはボクが預かるよ」
 ふと窓に目を向けると水滴が付いていた。知らないうちに雨が降り出している。傘がないというダイゴはこのままだと濡れてしまう訳で、私はデータを保存するとパソコンの電源を落とした。
「帰ろっか」
 何だか一気に疲れたな、こぼれ落ちた言葉は遠くに聞こえる雨音に溶けていった。