バレンシアにアパタイトを添えて

バーで知り合った飲み友達のダイゴと少し距離を縮める

 週末、わたしはいつものように会社近くのバーへと向かう。そこは以前先輩に教えてもらったバー、落ち着いた雰囲気と朗らかな笑顔が印象的なマスターを気に入って一人でも足を運んでいる。
 けれどもう一つ、わたしが常連と呼ばれる程度に足繁く通うようになった理由がある。
「やぁ、お疲れ様」
 それが彼――わたしの入店に気付くなりマスターより早く声を掛けてきたツワブキダイゴの存在だ。
 ダイゴはわたしに向けて軽く挙げた指先をそのまま彼の座る席の隣へ向ける。誘われるまま隣へ座ると、ダイゴの手が乱れて顔に掛かった髪をさっと撫でた。
 突然の事に驚いていたらダイゴは少しきょとんとして、「走って来たのかい?ふふ、珍しいね」と軽く酔いが回って蕩けた頬を緩ませた。
「すぐ傍でボーマンダを出した人がいて、そのせいです」
 ちょうどお店の扉を開けようとした瞬間で、中に入ってから整えようと思っていた。こんなにすぐにダイゴに気付かれると分かっていたら先に整えてから入ったのに。髪に残る彼の体温を手の平に移しながら小さく溜め息をついた。
 ダイゴは元々先輩の友人で、先輩に連れられ初めて此処を訪れた時に紹介された。バトルには疎いわたしは彼がチャンピオンとはつゆ知らず、ツワブキの名前にばかり気を取られ、すごい人と知り合ってしまったと内心とてもはしゃいでいた。そうしたらダイゴはチャンピオンでもあって、後日気付いた時にひどく驚いてしまった。
 上質なオーダーメイドのスーツを着こなす彼がバトルをする姿は思い描けず、アルコールでふにゃりと笑う彼が鋭い眼差しでポケモンに指示する様子だって未だにちっともイメージ出来ない。今もまさにそう、頬を赤らめ上機嫌で微笑む彼に、ホウエン最強の面影は何処にも見当たらない。
 それにしても、今日のダイゴは随分と飲んでいるようだった。わたしの注文を取ったマスターもダイゴへちらりと視線を向けてかすかに苦笑している。半分ほど残っているグラスを一気に呷って空のグラスを小さく振りながら「同じのを」と頼むダイゴを咎めはしなかったけれど、出てきたグラスは明らかに量が少ない。それなのにダイゴは気にもしないで笑っている。これは思った以上に酔っている。
「飲みすぎ」
 大衆居酒屋と違って質の良い酒を使っているこのバーは値段もその分チェーン店とは比べ物にならない。そんなお店でこんなにも楽しく酔えるのは少し羨ましくて、少しおっかない。住む世界の層が違うのだと見せ付けられているようだった。実際そうなのだけど。
「ふふ、そうかな、そうかもしれないね。{{kanaName}}に会えると思ったら、つい」
 それでも当のダイゴはこうだから、わたしは今日もいつものように――今日くらいはそんな事気にせずに飲んじゃえ、と勢い良くグラスを呷る。大企業に勤めるエリートでもなければ自分のポケモンすら持っていないわたしが、唯一ダイゴと気さくに心地良い時間を過ごせるこの時を存分に楽しむため、勧められるまま夢のような時間を過ごせる魅惑の液体を飲み干してゆく。



 それでも、何度も特別な時間を過ごしていると流石に能天気でもいられなくなってくる。
 週に一度の楽しみ――ツワブキダイゴと一緒に過ごせる時間が近づくにつれ、わたしは同時に心の中にもやを感じるようになっていた。
 ダイゴと交わすのはいつも他愛もない話で、それこそ天気の話だったり前日に食べたスイーツの話、時々仕事の愚痴も聞いてもらってお礼に延々と続く彼の趣味の話に耳を傾けることもある。
 ただ、そうやって色々と会話を重ねると嫌でも気づいてしまう、ダイゴとわたしの住む世界があまりにも違うということを。片や平凡な社会人でポケモンも父親のロコンくらいしかろくに知らず、就職して一人暮らしを始めたらいよいよ身近に触れるポケモンのいなくなった女。片や大企業の御曹司でホウエン地方で一番強くて凄いと称されるチャンピオン。重なっているのは週末にあのバーで飲むという習慣たったひとつだけ。
 ダイゴがにこにこと笑顔で喋る事はどれも楽しいけれど、ダイゴの笑顔の理由にわたしが含まれている自信はない。酔いで軽くなった心が自然と笑みを浮かべているだけかもしれないし、邪魔されることなく石の話が出来るからかもしれない。話し相手がわたしだから、と思える理由は今のところ見つかっていない。もやの原因は、それだった。
 だから、今日こそはあの話をしてみよう。わたしとダイゴを繋ぐ糸を少しでも強くするために。
 わたしは大きく深呼吸してバーのドアを押し開ける。マスターがわたしへ会釈するのを横目に薄暗い店内のとある一点――カウンターの端から3つ目の席に目を向ける。そこはダイゴのお気に入りの席で、今日もまた彼はわたしより先に来てひとりグラスを傾けていた。
「今日は遅かったね、忙しかったのかい?」
 隣に座ったわたしに、ダイゴが頬杖をついて首を傾げる。何度もダイゴと飲んできたけれど、こんなに姿勢を崩した姿は滅多に見ない。前に見た時は確か気持ちの良い試合をしたとかで、かなり機嫌良く何杯も飲んでいたっけ。今日はどんな良いことがあったんだろう。
「だって、きみが来てくれなきゃ飲むしかする事がないからさ」
 思わぬ回答に思わず言葉に詰まる。勝手に緩む頬にどうにか力を込めてみるけど「そんなに怒らなくてもいいじゃないか」とダイゴには何か勘違いされてしまった。
 わたし達は特に約束をして毎週会っている訳じゃない。わたしもダイゴも都合が付けばこのバーへ来るけれど、仕事が忙しかったり他に予定があればそちらを優先している。先週はわたしが、数週間前はダイゴの方が来なかった。
 それなのにダイゴは今日もわたしが来ると信じて待っていたのだと言うのだから、どうしてにやけてしまうのを抑えられるだろう。
「ほら、{{kanaName}}も飲んで。ふふっ、チャンピオンのボクがきみの愚痴を聞いてあげるよ」
 わたしの目の前にグラスが差し出される。すっかりわたしの好みを覚えてくれているマスターが注文より先に作ってくれていた。それを手に取って一口飲み込む。ダイゴがにっこりと笑う。
「ボクも聞いてほしい話があってさ、{{kanaName}}を待ってたんだ」
 初めてダイゴに会った時、彼は凛とした雰囲気に包まれひとりスマートにお酒を楽しんでいた。今隣に座るダイゴはあの時感じた芯をどこへなくしたのか、雲みたいにふわふわで風が吹けば綿毛のように飛んでいってしまいそうだった。けれど一瞬絡んだ視線はあの時と変わらない強さを持っていて、不覚にも時めいたわたしを掴んで離さない。
「それでね、…………だったけど、思ったより………………でさ。だから…………ふふっ、……すごいだろう?」
 愚痴を聞くと言いながら見つけた珍しい石の話をするのに忙しいダイゴに相槌を打ちながら、わたしの話はまた今度、ダイゴが今日ほど酔ってない時にすればいいやとカクテルを飲み干した。



 近くの書店の紙袋を提げてバーへ向かうと、今日はまだダイゴは来ていないようだった。いつの間にかわたしの指定席になっている、カウンターの端から2つ目の席に腰を下ろして紙袋はカウンターに置く。一冊あれば十分だと分かっていてもついあれもこれもと買ってしまったのは、ポケモンの飼育指南書だ。
 一人暮らしにも仕事にも慣れたら自分のポケモンでも捕まえようと考えてはや数年、未だわたしはモンスターボールひとつも持たない人間だった。
 けれどダイゴと知り合って彼の愛するポケモン達やバトルした相手の勇敢なポケモンの話を聞くうちに、すっかり忘れていた夢を思い出してわたしもポケモンが欲しくなっていた。この前ダイゴに話してみようと思ったのもそれで、今日こそ絶対に話すんだと気合いで仕事を定時に終わらせ急ぎ足で本屋にも寄ったのだ。
 紙袋から適当に一冊取り出してぱらぱらと捲る。ポケモンを捕まえる前に知っておくべき事と題されたページが目に留まった。適した飼育環境を用意出来るか、ポケモンの習性と付き合っていけるか等など、当たり前でそして重要な事が見開きのページに分かりやすくまとめられている。わたしは狙っているあの子の事を思い浮かべながら一つずつ項目を確認して、きっと大丈夫だろうとひとり頷いた。
 後ろの方に載っているポケモン自慢コーナーに頬を緩ませていたらバーの扉についた鈴の音が響いた。はっとして顔を上げると入口には果たしてダイゴがいて、わたしに軽く手を挙げる。
「あっ、今日は早いんだ。扉を開けたら{{kanaName}}が出迎えてくれるのも、悪くないね」
 でもボクは美味しいお酒を飲みながらきみを待つ時間も好きだな。ダイゴはそう言って、カウンターに置いた鞄を開く。
 彼は自分の言った言葉の意味を分かっているのだろうか。じわりと熱くなる頬を誤魔化すようにグラスを呷る。
 けれど真剣に本を読んでいたわたしを気遣ったマスターの特製ノンアルドリンクは心地良い冷たさばかりで酔いには程遠い。ダイゴはそんなわたしに意味深に笑顔を向けると、「それは?」わたしの読んでいた本に気が付いた。両手に綺麗な水晶を握りながら。
「うん、ダイゴさんの話を聞いてたらわたしもポケモンを捕まえてみようかな、って……。それで――」
 それでわたしもココドラを育てようと思ってるの――ドキドキする心臓を抑えながら口を開く。
 でも、わたしの一番聞いて欲しかった言葉は食い気味に言葉を返すダイゴの勢いに負けて喉の奥へと引っ込んでしまう。
「そうなんだ! 良い考えだと思うよ。でも確か{{kanaName}}はあまりポケモンに詳しくないんだっけ。それならジグザグマやスバメ、他はそうだな…、エネコも女の子に人気があるし苦労もしないと思うよ」
 今は捨て置けとカウンターに投げ出された水晶に照明が当たってキラキラと輝いている。ダイゴの瞳の中にも同じ輝きがあって、それがわたしをきらりと照らしている。
 わたしはカウンターの下できゅっと拳を作って「そうなんだ」と声を絞り出す。喉の奥で言いたい言葉がイガのようにチクチクと刺さる。
 わたしの予定では、ココドラを捕まえると言ったらダイゴが喜んでくれて、そこからココドラの色んな話が聞けると思ってた。そうでなくとも、勧められるのはダイゴのお気に入りの鋼ポケモンだと信じて疑っていなかった。
 でも、現実はそれほど上手く進まない。
「ボクが言うのも何だけど、鋼ポケモンや化石ポケモンはとにかく世話が大変でさ、あの苦労は軽い気持ちで捕まえた人には耐えられないだろうなって思うんだ。もちろん他のポケモンにも同じような苦労があるんだろうけど、さ」
「うん、」
「それで? 捕まえたいポケモンはもう決めてるのかい?」
 無邪気に笑うダイゴの笑顔をやけに眩しく感じた。鋼ポケモンを愛し、極めた彼が言うのだから今の言葉は全て正しい、何も間違っていまい。鋼ポケモンは――ココドラは素人が手を出していいポケモンではなくて、ある程度飼育経験がなければ避けた方がいいんだろう。いつの間にか力を込めすぎた拳の中で、手の平に爪が食い込む。
「まだ…、決めて、ない」
「ふぅん、そっか。そうだね、何を捕まえるか考えるのも楽しいよね。じっくり考えたらいいと思うよ」
 ふと、もしわたしがトレーナーで、新しく育てるポケモンに悩んでると話したらどうだったのかと考える。ダイゴはココドラやエアームド、ダンバルを勧めたかもしれない。或いはダイゴの親しい友人だったなら、手を貸すからと言ってダンバルを勧めてくれたかもしれない。
 でもわたしはトレーナーでもなければ友人ですらない。ただこうやって時々一緒に飲むだけ、所詮その場限りの知人だ。
「捕まえたら教えてよ。鋼ポケモンじゃなくても基本的なアドバイスなら出来るから」
「ありがとう、ダイゴ」
 引き攣る頬で無理やり笑う。ぱたん、と本を閉じて紙袋に投げ込んだ。今日はもう何も考えないでダイゴが話したそうにしている水晶の話だけに集中しよう。わたしはこの時間が好きで、それ以上はもう求めない。
 ぴしりと亀裂の入った心の痛みを紛らわすようにカクテルを頼む。その日マスターはいつもより少し強いお酒を入れてくれた。


 買ったばかりの飼育本が本棚に仕舞われる事なく一週間が過ぎた頃――つまり再び迎えた金曜日、押し付けられた残業をどうにか終わらせ、気怠い体を引きずって帰路へと就く。
 今日はまっすぐ家に帰ろう。バーはまた今度、もっと早い時間の元気な時に寄ればいい。ダイゴはきっと今日も店へ寄るのだろうけど約束をしている訳でもないし、ダイゴだって来なかった日もある。だから気にする事なんかない。わたしはいくつも行かない理由を並べ立てて帰り道をなぞっていく。
 それなのに慣れというのは怖いもので、何も考えないようにと足を動かしていたら何故かバーの近くまでやって来ていた。信号を渡らずに道を曲がったせいだ。気付いて引き返そうとして、わたしは見覚えのある、けれど同時に見た事のない人影を前方に見つける。
 前方を歩く後ろ姿は間違いなくダイゴだ。夜の湖面に映る月明かりで染めたような銀髪は遠くからでもよく目立つ。体にぴったりと沿ったシルエットもオーダーメイドのスーツだからこそ浮き上がるものだ。思わず見惚れてしまう。
 けれどそのすぐ隣、ダイゴの腕を取って自分の腕を絡めて歩く小柄なシルエットは知らない。短めのスカートから伸びる足はとても華奢で、あまり高くないエナメルのヒールは街灯の光をぴかりと反射している。キャスケットから零れる髪は綺麗なエメラルドグリーンをしていて、歩く度にさらりと軽やかに揺れていた。わたしの足が止まる。
 後ろ姿だけでも二人が親しい関係にあるのは明らかだった。胸がずきりと痛んで指先が冷えていく。
ダイゴが彼女に向けて笑顔を見せて、その横顔がわたしの目にも届いた。見たくないのに目が離せない。けれどダイゴが何かに気付いたように顔を後ろへ向けたから、慌てて踵を返す。
 早く交差点まで戻って信号を渡ろう。ダイゴがわたしに気づいて追い掛けるなんて万に一つないと思うけど、一秒でも早くここから逃げ出したい。
 バーに行かなかったらダイゴがまたわたしを待って飲み過ぎるかも、なんて少し心配していたけどそれも愚かな杞憂だったらしい。今日はダイゴも彼女とデートのようだし、何も心配いらない。
背中から男女の会話が聞こえる。聞きなれた耳心地の良い声が「知り合いが居た気がしたんだけど、どうやら気の所為だったよ」と苦笑して、鈴の音のように軽やかな声が「ふぅん。それより早く行きましょ!」その声を攫っていった。


 ダイゴのデート現場を目撃して以来、わたしの足はますますあのバーから遠ざかっていった。マスターはいい人だしお酒も美味しい、雰囲気だってとても好きから行きたい気持ちはある。でももしダイゴに会ったら、と思うとあの扉を押し開ける勇気は湧かなかった。
 そうして気づけば二ヶ月ほど経っていた。行かない期間が長くなれば長くなるほど、ますます足が遠のいていく。
 所詮その程度の関係だった。同僚と食事をした帰り道、考えたくないのに浮かんでしまうダイゴのことを考えながらひとり大通りを歩く。この道をもう少し進んで右に曲がればあのバーがあるのも理由のひとつだろう、つい考えてしまっていた。
 たまたま会えば一緒に飲むだけ、名前は知っていてもそれ以上は深くは知らない。連絡先だって知らないし、何処に住んでいるかも聞いたことがない。なんて薄い繋がりだろう。
 曲がり角まで歩いてバーに通じる道を見つめる。行ってみようか。でもダイゴにどんな顔を向けたらいいか分からない。それに今日は財布の中身も寂しい。やっぱりまた今度にして、今日は大人しく帰ろう。体を大通りの方へ向けた。
「{{kanaName}}?」
 不意に名前を呼ばれる。反射的に振り返った。
「ダイ、ゴ」
「やっぱり{{kanaName}}だ。何だかすごく久しぶりだね。今から行くのかい?」
 目の前のダイゴは、まるで昨日も会っていたかのように今までと変わりなく笑顔を見せた。その人懐っこい笑顔に面食らって声が上擦る。
「きょ、今日は持ち合わせが」
「なんだ、それならボクに奢らせてよ。さあ、行こう」
 見つめる瞳は傷一つない硝子玉より透き通っていた。純然な好意がわたしに微笑んでいる。わたしはこれを断る方法を知らなければ断る覚悟も持っていない。仕方なく歩き出す。こんな事になるならせめて恋人の有無くらい聞いておけば良かったな、と今さら後悔した。
 重い足取りでバーの扉をくぐると、マスターの暖かな笑顔に出迎えられた。懐かしい笑顔に、わたしの頬も僅かに緩む。
 ダイゴはいつもの席――カウンターの端から2つ目の席へわたしを座らせると「ちょっと待ってて。マスター、{{kanaName}}に一杯お願い」と店を出て行ってしまう。
 どくどくと心臓が激しく音を立てる。わたしをまっすぐ捉えて言ったダイゴの顔は笑顔がなくて、ピリピリと殺気のようなものすら感じ取れた。何だか分からないけれど、ひどく不安だった。
「悪い事ではないと思いますよ」
 マスターがグラスを差し出しながら微笑む。
「そうだといいけど」
 グラスに口を付ける。少し気持ちが落ち着いたような気がした。
 カクテルの嵩が半分ほどになって、ようやくダイゴが戻ってきた。走って来たのだろうか、肩を上下させて髪が少し乱れている。
「ダイゴも走るんだ」
 いつもスマートな彼が走る姿を思い浮かべてみるけどうまく想像出来ない。不思議な感じを覚えながらお酒で気持ちの緩んだわたしは、ダイゴの顔へ手を伸ばして綺麗な銀髪をそっと撫でた。わたしのとは違う感触に思わず頬が緩む。乱れた髪はすぐに元へと戻った。
 息を整えて腰を下ろしたダイゴは「{{kanaName}}、」わたしの名前を呼んでことん、と何かをカウンターへ置いた。わたしとダイゴのちょうど真ん中に置かれたそれに目を向ける。
 球体のそれはモンスターボールのようだった。けれどわたしでもよく知る赤色でもなければ、実家のロコンに使われる青いスーパーボールでもない。紺鼠の中に黄色のラインの入ったそれは、どことなく高級な雰囲気を漂わせている。顔を上げ、ダイゴへ首を傾げる。
「この中には、この前石の洞窟で捕まえたクチートが入ってる」
 酔いの回り始めた頭だったけれど、クチートの名前に反応して思考を巡らせる。可愛い見た目に反して扱いの難しいポケモン。さらにタイプははがね、ダイゴがわたしから奪い取った選択肢にまさに当て嵌るポケモンだ。今わたしは自慢でもされているんだろうか。
「野生でも随分大人しくて人懐っこくてさ、もしまだ{{kanaName}}がポケモンを捕まえてないなら、このクチートを育ててみないかい?」
「……え、」
 星屑を詰め込んだように青白く煌めく瞳がわたしを見つめている。控えめに浮かんだ笑みはどこか不安げに見えた。珍しく眉が僅かに下がっているせいだ。
「もしかして、もうポケモンは捕まえて?」
「そう、じゃない…。けど、鋼ポケモンは、」
「確かに世話は苦労する事も多いけど、それは他のポケモンだって同じさ。それに、何か困った事があってもボクがすぐに駆け付けるし」
 だから、どうかな。左右に揺れていた視線がわたしの瞳に戻ってくる。透明の薄い青はサファイアを思い出させ、こんな時ですらとくんと胸が高鳴る。
 ダイゴがカウンターのボールを手に取り床へと落とす。小さな花火のような眩しい光が薄暗い店内を一瞬明るくして、愛らしい笑顔を見せるクチートが現れた。ポニーテールにも見える大きな顎は牙を隠すようにぴったりと閉じられ、顔に付いた方の小さな口も彼女の可愛らしい両手で隠されている。
 この見た目に騙され下手に手を出すと危ないのだと、何かで読んだ事がある。けれどダイゴは平然とクチートの頭を撫でて、クチートも嬉しそうに笑っていた。
「ほら、ね?」
 これがダイゴじゃなかったら、わたしは喜んで二つ返事で引き取ったかもしれない。でも目の前にいるのはダイゴ、この子を引き取ったらきっとわたしはそれを口実に期待を膨らませてしまう。酔っていてもそれくらいの判断は出来る。ひとつ呼吸をして口を開く。
「そういうのは、彼女に言ってよ」
「かのじょ」
「そう。可愛い彼女がいるの、知ってるんだから」
 何かを期待するようにわたしを見上げるクチートに手を伸ばす。一度撫でるくらいは構わないだろう。そっと頭を撫でると、金属のようなつるりとした感触に驚いた。
「あのさ、ボクには何の事だか全く身に覚えがないんだけど、少なくとも彼女がいたら女の子と二人で飲んだりはしないよ」
 クチートを撫でる手が止まる。でも体を起こしてダイゴに向き直る勇気はない。
 けれど、
「えっ、もしかして……そんな事気にしてたのかい?」
「そんな事、って!」
 信じられない、と言わんばかりのダイゴの声に思わず顔を上げ大声を出していた。視線がかち合う。ダイゴの瞳は普段より大きく見開かれていて、けれど「ふっ、」と息を吐いたと思ったら目を細めて吹き出した。
「ははっ、なんだ、そんな事…、あはっ、……じゃあこのクチートは今からきみのものだ」
 ダイゴがわたしの手を取る。手の平にボールが乗せられ、そのボールごとダイゴがわたしの手を包み込む。初めて触れた彼の手に、重なった肌がにわかに熱を帯びる。
「それから…、あぁクチート、ありがとう」
 空いた手がクチートから何かを受け取る。何だろうとわたしもそちらを向くと、黒の手袋をはめたようなクチートの小さな手がポケナビを――いつの間にか鞄から抜き取られていたわたしのポケナビを握っていた。予想外の展開に、わたしはただダイゴ達を見つめることしか出来ない。
「何だか今さら過ぎて変な感じがするよ」
 わたしのポケナビと自分のそれをしばらくいじって、そうしてちょっと照れたようにダイゴが笑う。彼はまだ飲んでいないのに、ふにゃりととろけた笑みを浮かべていた。
 返されたポケナビは一見すれば何も変わった所はない。けれどすぐにメッセージが一件届く。『よろしく』と簡素なメッセージがダイゴから送られる。
「うん、これでもう待ちぼうけもなくなるね」
 ダイゴがマスターからカクテルを受け取りながら言う。赤く透き通ったそれはダイゴの日焼けしてない肌によく映えた。何て名前か尋ねたらダイゴの代わりにマスターが答えてくれた、ロブ・ロイですよ、と。
「じゃあ今からクチートの事教えるから、ちゃんと覚えて帰ってね」
「はい、お願いしますダイゴ先生」
少しおどけたようにダイゴが言うから、わたしも照れを隠して芝居がかった調子で仰々しく頭を下げた。
 頭を上げたらダイゴがきっ、と真面目そうな顔を作って待ち構えていた。けれど見つめて数秒、わたしもダイゴもむず痒さに耐えきれずに二人して笑い出してしまう。いつもの心地良い時間が戻ってきたのを肌で感じる。
 そんなわたし達を、足元のクチートが不思議そうに見上げていた。