シュレディンガーの箱、或いはパンドラの猫

ルネジム職員の夢主
休憩中にミクリの特集された雑誌を見る

 ルネジムの休憩室にはミクリさん専用のマガジンラックがある。と言ってもミクリさんが買った雑誌を入れる為のラックではなく、ミクリさんに関する雑誌専用のラックだった。
 ジムにはファンが高じてジムトレーナーやスタッフになった人が多く、誰かが休憩室用にミクリさんが載った雑誌を買ってきたのが始まりらしい。いつの間にかラックも備えられ、今では雑誌代専用の募金箱も用意され、雑誌が発売されればそれを使って買いに行くようになっている。
 今回その役目を任されたのがわたしで、自分用と休憩室用の二冊を買いにいそいそと書店へやって来ていた。
 一部の雑誌はあまりの人気に、発売日に即完売も珍しくない。今日発売の目当ての雑誌もその類で、ちらりと雑誌コーナーを確認するとまだ午前の早い時間だというのに残り数冊となっていた。
 ミクリさんの人気の高さに妙な高揚感を覚えつつ予約した二冊を引き取るとその足のままジムへと向かった。



 午後、出勤が遅かったわたしはひとり遅れて休憩を取っていた。休憩室でお弁当を食べながら、ふとあの雑誌は何処にいったんだろうと辺りを見渡す。
 出勤してすぐテーブルに置いたはずのそれは目につく所には見当たらず、おかしいなと首を傾げながら探せばラックの隅に隠れるように置かれていた。
 せっかく買ってきたのに、と席を立ち雑誌を取りに行く。いくら発売当日といってもお昼休憩を過ぎれば皺の一つや二つ付いててもおかしくない雑誌は、何故かとても綺麗な状態のままだった。
 みんな忙しくて目を通す時間もなかったんだろうかと首を傾げるも、今日はショーの準備もなければジム挑戦者も少ない、どちらかといえば暇な一日で。そんな日はミクリさんも「ゆっくり休憩しておいで」と言ってくれるから、雑誌がこんなにも綺麗な状態で、しかもわざわざ裏表紙を前にしてラックへ押し込まれていたのは不可解極まりなかった。
 マガジンラックからそれを抜き取りお弁当の横に置く。後でゆっくり見ようと碌に表紙も見ていなかったからまずは表紙のミクリさんを堪能しよう。そう思ってミニトマトのヘタを摘みながら表紙へ目を向けた。
 女性誌の表紙は基本的にモデルや女優が飾るものだけど、この雑誌は結構な頻度で男性が表紙を飾っていた。それは定期的に組まれる特集に男性グラビアがあるからで、今回ミクリさんが表紙になっているのは勿論その特集に選ばれたからだった。
 表紙に大きく載ったミクリさんは、惜しげもなく肌を晒しており、普段の煌びやかさをそのままに艶やかさを色濃く匂わせていた。
 そんなの半裸なのだから当然と言えば当然だけれど、実際は単に肌を露出しただけでは色気なんて出ない。ルネ近海を泳ぐ海パン野郎を見れば分かるように、脱げば必ずしも色っぽくなる訳ではない。
 けれど表紙のミクリさんは見てるこちらが照れてしまう程、色香を放っていた。
 すっと筋の通った鼻、鮮やかなエメラルドグリーンの虹彩、陶器のような滑らかな肌。思わず視線が釘付けになる。
 常に絶やさない笑みは今ばかりは顔を潜め視線は鋭くぎらつき、決して細くはない首筋には男性である事を強く主張するように喉仏がくっきりと浮かんでいる。
 その下では鎖骨の窪みに影が落ち、程よく張った胸筋は艶めかしいの一言では表せない色っぽい魅力を醸し出している。一般男性よりも鍛えられ、しかし徒に筋肉を追求してはいない身体は見事に綺麗なラインを作り上げ、わたしの心の奥でとある感情がひっそりと呼吸を始めた。
 口の中でミニトマトが転がり、その異物感にはっとする。すっかり見惚れてしまっていた。
 もぐもぐと口を動かしミニトマトをぐしゃりと咀嚼して卵焼きを箸で摘む。そうやって意識と視線をお弁当へ戻したものの、雑誌が気になって仕方がない。
 口の中の卵焼きをごくりと腹へと収めると無理やり逸らしていた視線を再び雑誌へと投げる。
 これはわたしもお金を払ったんだから読む権利は持っている、何も悪いことはしていない、そんな誰に向けたか分からない言い訳を心の中で必死に繰り返した後に向けた視線は、ミクリさんの身体を丁寧にひと撫でして特集タイトルを拾い上げた。
『恋人と育む愛』
 陳腐なタイトルはしかし表紙の妖艶なミクリさんのお陰で妙な期待を掻き立てた。
 お弁当箱に添えていた手を離し、秘密を暴くような気持ちでページを捲る。どくどく、心臓が煩くなる。目次で特集ページを確認して、逸る気持ちを必死で抑え、読んだ跡が残らないよう慎重に手を動かす。
 そして遂に件の特集ページを開いたその時、

「お疲れ様」

 ガチャリとドアが開いて軽やかな声が室内に響いた。
 びくりと大袈裟なほど飛び上がった体は一気に体温が上昇し、変な汗が吹き出てて心臓がばくばくと音を立てる。
 反射的に雑誌を閉じて声のした方、つまりドアへ体ごと視線を向ければそこには今一番顔を合わせたくない人物、ミクリさんが立っていた。
 ばちりと合ってしまった目は、わたしの不自然な動揺に関心を見せ、エメラルドにも負けない煌めきを宿した瞳がきらりと瞬く。
 まずい、そう思ってもわたしに出来ることは何一つなく、ミクリさんの視線がわたしからテーブルの雑誌へ向けられるのをただ眺める事しか出来なかった。

「ああ、なるほど」

 ミクリさんが納得したように頷く。そして、冷や汗だか脂汗だか何だか分からない汗を滲ませるわたしへ完璧な笑みを見せて雑誌を取り上げた。
「なかなか美しく撮ってもらえた特集で、私も気に入っているんだ。特にこれが良いと思うんだが{{kanaName}}はどうだろう」
 雑誌を捲る音がしたと思ったら「これだよ」とわたしへよく見えるように雑誌が戻ってきて。そこには表紙と同じく、いつもの衣装を脱ぎ捨てたミクリさんが写っていた。
 頭から臍の辺りまで、一糸まとわず肌を晒すミクリさんは、片腕で女性の腰を抱いている。顔の写っていないその女性もミクリさんと同じく裸で、触れた肌からはきっと互いの熱を強く感じているのだと思った。
 女性へと落とされた眼差しは普段のコンテストやバトルでは決して見せない熱を帯びていて、その視線がこちらを向いていないのがひどく惜しかった、惜しいと思ってしまった。

「{{kanaName}}?」

 名前を呼ばれ、意識が紙面の中のミクリさんからすぐ傍に立つミクリさんへと移る。雑誌の中の色めいたミクリさんではなく、いつもの、わたしのよく知るミクリさんだ。
 でもどうしてだろう、心臓が痛くて合わせた視線が恥ずかしくて口がうまく動かない。

「まだ…中は見て、なく、て」

 逃げるように瞳がお弁当箱へと向かう。

「そ、それより、どう…されましたか」

 浅くしか出来なくなった息を無理やり大きく吸って、覚悟を決めてミクリさんを見た。緑玉のような瞳は柔らかな木漏れ日のように輝いてゆるりと微笑む。それはわたしの憧れたミクリさんだった。
 どんな時でも笑顔を絶やさず自信に満ちたその姿は、スターでありヒーローでもあった。わたしもミクリさんのようになりたい、そんな気持ちがきっかけでルネジムで働くようになり毎日のように憧れの姿を目に焼き付けた。
 コンテストを見に行ったり、出演してるラジオを聞いたり、雑誌を買い集めるのも、一つでも多くミクリさんの事を知ってミクリさんのような完璧な人に近付きたかったからだ。
 そう、わたしが今日まで抱えていた感情は純粋な憧れであり、しかしミクリさん本人へと向けられたものではなかった。わたしが一心に見つめていたのは、ミクリさんが築き上げた〝水のプリンス〟で、その形は憧憬だった。
 けれど。

「この書類なんだけどきみのサイン抜けで処理が止まっていてね、これだけいいかな」

 書類を受け取って、すぐにサインをしようとペンを探す。けれどこんな時に限って胸ポケットにも首から提げた名札にもペンを挿していない。慌てて隣の椅子に置いた鞄からペンを取り出そうとして、それより先にミクリさんからペンを手渡された。

「これを使って」

 いつもなら、注目するのはミクリさん自身ではなく彼の差し出したペンだった。何を使っているんだろう、同じのを買おうかな、そんなことを考えるのがいつものわたしだった。
 でも今は違う。今わたしが釘付けになっているのはペンを持つミクリさんの手だった。触りたい、わたしも雑誌の中の女性のようにその大きな手で触れられたい、ミクリさんの肌の熱さを知りたい、そんな思いが全身を支配していた。

「あ、りがとうござい、ます」

 受け取る時に僅かに指が触れた。途端、触れた場所が熱くなる。今まで感じたことの無い感情がミクリさんへ向けられる。今まで見てこなかったものが鮮明に見え始める。憧憬の背中に隠れていたものが姿を現してゆく。
 どうにかサインを終えて書類とペンを返す。今度は触れないように注意をしたら、本当に何も起こらなかった。
 安堵する一方、残念がる自分の方が大きくて心の中はめちゃくちゃに散らかって収拾がつかなくなっている。憧れという名で蓋をした箱がこじ開けられ、確認するまでなかったはずの感情が大昔からそこにあったと言わんばかりに存在感を示している。

「休憩中に悪かったね、ありがとう」

 ミクリさんが笑う。ただそれだけなのに体が熱くなって頭が真っ白になる。今までこんな事、一度もなかったのに、ああ、どうしよう。
 すぐ傍にいて、けれど遠い存在だと意識すらしていなかったその存在が、突如はっきりと輪郭をもって目の前に現れる。わたしは今、ようやくミクリさんを一人の人間として、異性として瞳に映した。
 体が熱い。息が浅くなって胸が苦しい。目を合わせたら浅ましい下心を見透かされそうで視線はすぐに下を向く。
 そんなわたしをミクリさんはどう思ったのか、くすりと笑って「人手は充分足りているから、少しくらい休憩時間が伸びても構わないよ」俯く頭をくしゃりと撫でた。
 ドアが開き、静かに閉まる。一人きりになったわたしは開きっぱなしの雑誌を閉じると、もう絶対に視界に入らないようラックの奥へ押し込んだ。