恋人のミクリに一目惚れしたコートを贈る
今月は少し使いすぎたから買い物は必要な物だけ、ウィンドウショッピングで気持ちだけ買い物気分を味わおう──そう思ってカナズミへ出掛けたら素敵なコートに出会ってしまった。ショーウィンドウの中でマネキンが羽織るグレーのピーコートはとても格好良かった。 ミクリに似合いそう、ミクリなら間違いなくこのコートを完璧に着こなすと思った。鼻と目の窪みが僅かにあるだけのマネキンにミクリの顔を重ねてみるとますますその確信は強くなる。 マネキンのようにすらりとした手足で、マネキンよりもしっかり筋肉のついた体がコートを羽織る様子を思い浮かべたら、もはやミクリ以外に着こなせる人はいないんじゃないかと思えるくらいよく似合っていた。このコートを着て欲しい!ミクリは着なければならない! わたしはギラリと目を光らせてマネキンの足元に控えめに掲げられた値札へ視線を落とす。予想の倍以上の数字にぎょっとして二度見すれば有名ブランドのロゴが目に入る。もう一度値段に目を落とすと、今度は納得の値段に見えた。 とは言え今月の出費を考えればこれを買う余裕はない。 でもこのコートは絶対にミクリに似合う。着ている姿を見てみたい。このコートを着たミクリに腕を絡めてデートに行きたい。だからこれは必要な買い物だ。決して無駄遣いなんかではない。 わたしは興奮した頭が冷静さを取り戻す前に店へと入って素敵なピーコートを購入した。 半ば衝動的に買ったコートは、次のコンテストの優勝祝いに贈ることにした。ミクリの誕生日は近くなく、何もない日に贈るには少々、いや、随分と値の張ったコートは気安く渡せる代物でもなかったからだ。 ちょうど次に参加するコンテストは少し特別だと言っていたから、これ幸いにとそれを理由にコートを贈ることに決めた。 件のコンテストまでは2週間ほどあった。それまでに急激に冷え込んでコートが入り用になったり、ミクリがわたしの知らない内に新しいコートを買ってしまわないか気が気でなかった。一緒に出掛けた時には自分のコートすら見ないようにして出来るだけ話題に出さないようにした。 それなのにミクリときたら、あのピーコートの前で立ち止まって「ふむ……」なんて何かを考え込んでしまって。慌てて隣のショーウィンドウのセーターを指さして「こんなの誰が着るんだろうね」と話題を逸らした。茶色の食いしん坊なポケモンが大きくデザインされたセーターは独特な絵柄と色使いで、誰が着ても持て余しそうな一品だった。 どうにかミクリの興味をコートから引き離して迎えたコンテスト当日、何も心配する事なくあっさり優勝したミクリがインタビューを受けている間に控え室へと入らせてもらう。 ドアを開けるなりふわりと花の香りがして部屋を見渡せば、奥のソファに沢山の花束と紙袋が見つかった。今日もまた沢山の差し入れを受け取ったようだ。 これらに不満を抱くほど子供ではなかったけれど、ユニセックスの香水を見付けた時にはこっそりと処分した。安全で質が良ければ有り難く使うよと言っていたミクリがもしそれを使ったなら、どこの馬の骨とも分からない女とお揃いの香水を使うことになってしまう。それは許せない。他にも良からぬ下心を感じたものはミクリに気付かれないように持ち帰っていた。 今日も一通り危ないものがないかを確かめると、持ってきたコートをソファのプレゼントの山の中へと押し込む。 特別なコンテストを優勝したのだから彼女のわたしが贈り物をするのは別段おかしな事ではないけれど、直接渡すのは何だか気恥ずかしかった。それに今さらになって、ミクリの趣味じゃなかったらどうしよう、ありがた迷惑に思われたらどうしよう、と不安になってしまったのだ。 だからわたしからの贈り物だと分かるようにちゃんと手書きのカードを添えつつも、ミクリが戻ってくる前に控え室から撤退した。 『ファンから素敵な差し入れを貰ったよ』 その日の夜掛かってきた電話に出ると、ミクリの機嫌の良い声が鼓膜を揺らした。 普段は差し入れのさの字も口にしないミクリがわざわざ話題に、それも最初の話題に話すなんてよっぽど気に入ってもらえたんだろうか。続く言葉にソワソワしながら、期待を込めて「どんな?」と訊ねる。もちろん答えは分かっている。あの素敵なピーコートだ。ミクリはそれをどう表現するのかしら、ドキドキと逸る気持ちを抑えてミクリの言葉を待った。 けれどミクリの声が紡いだのはアクセサリーや手紙、それから今の時期にならではの手編みのマフラーもあったよと予想外の言葉ばかり。コートの話は一切出てこない。誰とも分からない贈り物ばかりがミクリの機嫌を良くしている。 もしかして、わたしと分かるように添えたメッセージを見てもらえなかったのだろうか。それともやっぱり気に入ってもらえなかったのかな。或いはちゃんと念入りにサイズを確認したけれど合わなかったのかもしれない。 ミクリの明るい声とは裏腹に、わたしの心はどんよりと分厚い雲に覆われすっかり真っ暗になってゆく。 『それから、とても良い物を貰ってしまったよ。私の好みも体もよく分かっている大切なファンから、素敵なコートをね』 ありがとう、{{kanaName}}。耳元で聞こえる声は、実際は遠く離れて姿も見えないのに、本当に耳元で囁かれたように熱と息遣いを感じた。 その柔らかで温もりのある声に、ぶわり、わたしの体温も上がってゆく。火照って熱くなった頬を冷ますように手をぱたぱたと扇いで、照れを隠すように少し茶化した声で「どういたしまして」と返事をする。ミクリのくすりと笑う声に、ついさっきまで暗雲立ち込めていた心はすっかり春の陽気に満ちていた。 『次のデートには是非このコートを着ていくよ』 ショーウィンドウの中であのコートを着たマネキンを思い出す。そこにもう一度ミクリを重ねたらやっぱり世界一似合っていて。それが実際に見られるのかと思うと今から胸がドキドキと高鳴ってソワソワしてくる。楽しみにしてる、と浮かれた声を返して電話を切った。良い贈り物をした、と心は満足感に満ちていた。 と、そこへミクリからメッセージが届いた。何だろう、デートの予定かしらと鼻歌交じりに開いたわたしは、しかし表示された写真に何とも言えない気分になった。 送られてきたのはミクリの写真だった。全身の写る姿見の前で撮ったらしい。ポケナビを掲げたミクリが写真の中で笑っている。その完璧な笑顔に胸が高鳴り、視線を下へ向けて更に頬が緩む。 あのピーコートを着てくれていたのだ。やっぱり、案の定、もちろん、ミクリに似合っている。 わたしはミクリに似合ってると送ろうとして、けれどコートの中に〝それ〟を見つけてメッセージを打つ手が固まった。 ――こんなの誰が着るんだろうね。 1週間ほど前に発した言葉を思い出す。 あの独特な、単刀直入に言えばダサセーターが、ボタンを留めていないコートの隙間からちらり、いや、しっかりと見えている。ギョロっとした目玉のヨクバリスと目が合う。 流石にこれは似合わ……。ちらり、ミクリの顔を見てそれから全身を眺める。格好良ければ何でも似合ってしまうという事実にわたしはどう言葉を返せばいいのか、コートを買った時以上に頭を悩ませた。 *** 『もう家には帰っているのかな』 ポケナビから聞こえる声に耳を傾けると遠くにショッピングモールのアナウンスが流れていた。 一際寒い冬の夜、わたしはその日の自分の仕事を片付け、残業させたがる上司の魔の手を掻い潜って家へと帰っていた。 ポケナビが鳴ったのは、家へ着いて一息ついた頃だ。あと30分早かったらミクリのいるモールに向かうのだけど、暖房ですったり暖まった体をまた寒い外へと出すのはひどく難しい。 こんな時にお気に入りのコートでもあれば話は別かもしれないけど、それはわたしではなくミクリが着ているわけで。そうだよ、と答えてから続けて「外は寒いからもう出たくないの」と誘われる前に誘いを断った。 『ふふ、そうだろうね。では、部屋を暖かくしてホットワインを用意しておいてもらえるかな?』 わたしの言葉は織り込み済みだったようで、ミクリは小さく笑うと『宜しく頼むよ』と電話を切った。返事を待たずに切られてしまったポケナビにため息が漏れる。けれどその実ミクリが遠慮せずに家に来るのが嬉しくて、ソファへ沈めていた体をぐいと起こすと軽くなった足でステップを踏みながらキッチンへと向かった。 あのショッピングモールから我が家までの時間を計算して、ミクリがちょうど家へ着いた頃に暖かいホットワインが飲めるように準備をする。そろそろかな、と出来上がったミクリ直伝のホットワインをグラスへ注いでいるとチャイムが鳴った。 ちょうどぴったりのタイミングにひとり満足しながら玄関へと向かう。ドアスコープを覗くとそこに立つのはもちろんミクリで、ひらひらと手を振っている。その鼻は寒さでじわりと赤く染まっていて、珍しいものを見れたと嬉しくなる。 「今開けるね」 手と視線を鍵へと伸ばし、けれどその手を止めてもう一度ドアスコープを覗く。魚眼レンズから見える景色の大半はミクリの顔で覆われている。腰を屈めてわざわざ覗き込んでいるから当然だ。でも目に留まったのは顔ではなくてその下で。 見えたのは、あの素敵なピーコートだった。どくんと胸が跳ねる。いよいよ実際にコートを着たミクリが見れるのだと思うと途端に落ち着かなくなる。上手く吸えない息をどうにか吸って改めて視線を鍵へと戻し、ガチャリと鍵を捻った。 「お疲れ様」 務めて冷静に、いつも通りに、普段と変わらない態度で。心の中で復唱しながら労うと、耳も赤く染めたミクリがにこりと微笑んだ。 キラリと輝く瞳はそこだけ真夏のホウエンの海の色をしていて、わたしの心をいつだって焦がしてゆく。恥ずかしさにまっすぐに射抜く瞳から目を逸らせば淡い紅色の唇が目に留まる。 綺麗な弓形だったのが形を変え、「{{kanaName}}」とわたしの名前を紡いだ。極上の楽器を奏でたような心地良さが両の耳から全身に巡ってゆく。ホットワインはテーブルの上、まだ一口も飲んでいないのに体が芯から熱くなる。 さらに視線を下げ、見上げていた頭をまっすぐに戻せば待ちに待ったピーコートがそこにはあって。細身のマネキンが着ていた時よりも綺麗なシルエットは、まるでミクリのためにあつらえたオートクチュールのようだ。グレーの生地は陶器のような滑らかな肌とシーグリーンの髪によく映えて、中に着ている白のハイネックとも合っている。 普段はあの奇抜なステージ衣装にばかり注目がいくけれど、スタイルが良くて完璧だからこそあの衣装が似合うのだと、今のような服装の時に実感する。洗練された雰囲気と仄かに漂う艶やかな空気に、何度目か分からない恋に落ちる瞬間をまた迎える。 「このコート、とても気に入ったよ。ありがとう」 ミクリの長くてすらりとした指が腰を撫でるように掴む。ビクリと体を揺らしたら次の瞬間、額に柔らかい唇がそっと落とされた。反射的に額を押さえ顔を背けてしまうと「つれないね」と揶揄するような声がわたしを笑った。 家の中へミクリを招き入れると、ハンガーの用意をしていないことを思い出した。取ってくるねと腕から抜け出す。少し惜しい気がしたからつい足は小走りになっていた。けれど急いで戻ってきた瞳に映ったその姿に「あっ」と上擦った声が零れ落ち、向かっていた足は一歩後ろへ下がっていた。 丁寧に手入れされた爪が光るミクリの指先が、ピーコートのボタンを摘んでいる。上から一つずつ、ゆっくりと外されるボタンに思わず息を呑んでしまう。一番下までボタンを外し終えるとちょっとした荒れすらない手が襟の辺りを掴み、滑らかな所作でコートから肩を抜いた。 誰もがする動作で、ミクリが特別何かをしているわけじゃない。それなのに、目が離せなくてドキドキと心拍数が上がって体の熱が上がってゆく。中に着ている白のハイネックはぴったりと体を覆い、ミクリが一日たりともトレーニングを欠かさず最高のコンディションを保った肉体美が薄らと浮かび上がる。 いつもの衣装でその肉体は何度も目にしているのに、程よい弾力のそれに数え切れないほど触れているのに、それらが隠された今の方が心臓がうるさくてたまらない。だからわたしは、ハンガーを受け取ろうと手を差し出すミクリを無視してコートを奪うと自分の体ごと押し付けた。 「もうちょっと、着てて」 きっと今なら贈ったコートが理由だと勘違いしてくれる。まだ着ている姿を見ていたいんだと思ってくれる。背中に回した腕にぎゅっと力を込めて「おねがい」と蚊の鳴くような声で言った。本当はこの心臓が示す通り、コートを脱いだミクリにまともに呼吸も出来ないくらい心と体が掻き乱されていた。 「ふふ、そんなに熱烈な視線を向けられたら仕方ないね。{{kanaName}}がいいと言うまで脱がないでおこう」 ちらりと視線を上げると訳知り顔のミクリが唇に弧を描く。 わたしの心はどこまで知られているのだろう。答えを求めるように見つめ返す。けれどどれだけミクリを見つめてもそれは分からなくて。 答えを知るのはもうしばらく後のこと。ミクリがもう一度コートを脱ぐ際に艶美な微笑みでわたしを見つめたその瞬間まで、わたしの熱はミクリの胸の内で彼の心に艶やかな炎を灯していた。