嵐の前の静けさ

少しおしゃれした夢主とそれに興奮するミクリ

 待ち合わせ場所で待っていたミクリさんはわたしを見るなり綺麗なエメラルドグリーンの瞳を見開くと、唇に三日月を浮かべて微笑んだ。


 前日、美容院で何がどうしてそうなったのか、いつものようにカラーとカットをお願いした筈なのに気付けばインナーカラーを選んでいた。担当の美容師さんがわたしの前のお客さんにインナーカラーを入れたとか何とか、たしかそんな話の流れだったと思う。
 とにかく、翌日のデートを心待ちにして浮ついていた心は数ある色の中から緑を――ミクリさんの髪色と同じその色を選んでいた。
 そして今日、ミクリさんはわたしの大きな変化に目を細めて心地の良い声でわたしの心をくすぐった。
「とても良く似合っているよ。それに、美しい」
 ミクリさんの瞳はわたしの瞳を真っ直ぐに覗き込み、エメラルドグリーンの覗く髪へ視線を動かし、またわたしを見つめる。
 ステージ上で見せる視線と違って、わたしだけのミクリさんの時間に見せてくれる瞳はずいぶんと柔らかい。夜空を写す水面のように仄かな煌めきを湛えてわたしに微笑み掛けてくれる。
 けれど今、わたしの目の前にいるミクリさんはどうも様子が違う。ともすれば見落としてしまう程些細ではあったけれど、困惑の混じった色を瞳に写していた。
「ミクリ、さん?」
 視線はぶつかっているのにどこか遠くを見ているような感覚の刹那、ぱちりと目が合ってミクリさんがやや眉を下げて笑う。
「ふふ、あまりにも綺麗だから言葉も忘れて見惚れてしまっていたよ。今日は一日{{kanaName}}を眺めているだけでも構わないくらいだ」
「ミ、ミクリさん!」
 熱っぽい視線が降ってくる。わたしは反射的に照れた顔を隠そうとそっぽを向いた。どぎまぎした顔は見られていないだろうか。真っ赤になった頬に気付かれていないだろうか。
 ちょっと普段とは違う髪にしただけなのに、ミクリさんってば大袈裟すぎる。面と向かって言われると恥ずかしくてたまらない。
 そんなわたしをミクリさんがまた笑って、すっかり熱くなった手を取った。体温の上がった指に触れるミクリさんの手のひらは少し冷たくて、まるで彼の手持ちの水ポケモンのようだった。
「君が美しいのは事実なんだ、そんなに照れることはないだろうに」
 その言葉一つひとつがわたしを火照らせていると分かっている癖に。ご機嫌な表情を浮かべるミクリさんを一瞬だけ睨み付けると、悪びれた様子もなく肩を竦められた。


 ミクリさんのようにホウエン中に顔の知られた有名人は、ちょっと出掛けるだけでも注目の的となってしまう。今日もチラチラとミクリさんを見つめる視線が折角のデートの邪魔をする。それでも普段はミクリさんが気にしないから、わたしも不躾な視線を無視してデートを楽しんでいた。だから、
「家に行こうか」
 ミクリさんが眉根を寄せてこんな事を言ったから驚いてしまった。いつもなら変装になっていない変装で別人を装い続けるのに、一体どうしたんだろう。
「これから雨が降るようだし、たまには家で寛ぐ日があってもいいと思わないかい?」
 空は雲一つない晴天だ。けれど水タイプのエキスパートが言うのなら、そうなんだろう。わたしはその提案に頷いた。ミクリさんがほっと息を吐いた。

 * * *

「あの、ミクリさん…、っ」
 首筋に息が当たる。髪が耳をくすぐり、ぬるりと熱くなった首を舌が這う。刹那、鋭い痛みが首筋に走り、ミクリさんが体を起こす。白い頬がやけに赤らんでいて、いやに扇情的だ。
 困惑と期待とがない混ぜになって心臓が激しく鼓動する。たまらず顔を背けたら、また首筋に痕を付けられた。痛みが、熱が、わたしを淫らにさせてゆく。
 何がどうしてこうなったんだ。止まらない愛撫に理性を持っていかれそうになりながら、必死で考える。
 ミクリさんの家にお邪魔して、まだ日も明るいのに飲みたいと言う彼に付き合ってワインを飲んだ。目の前のローテーブルには空になったグラスと、まだ半分以上飲み残したグラスが見える。お酒に強い筈なのに、今日のミクリさんはたった一杯のワインで酔ってしまったんだろうか。
 両手で耳を塞がれ唇も塞がれる。体の中にくちゅりと舌を絡め合う音が響く。ミクリさんが私の舌を吸い、歯列をなぞり、咥内をたっぷりと撫でていく。時々漏れる息は熱く艶めかしく、わたしの理性をどんどん溶かしていく。それをどうにか引き止めるワインの渋みに意識を集中させて、ミクリさんの変貌の理由をもう少しだけ考える。
 飲む時には既に様子がいつもと違っていた。家に誘われた時も何かおかしかった。それよりもずっと前、そう、今日は最初から様子が違っていた。
 唇が離れる。ミクリさんの両手が頬を撫で、髪を梳く。視界の端にミクリさんと同じ色が映る。似合っていると、美しいと言ってくれた髪だ。
 エメラルドグリーンの瞳を見上げる。穏やかとは程遠い、獲物を狩る捕食者のようにギラつく眼差しが、どこから食べようかとじっと私を見下ろしている。
 そうだ、ミクリさんは今日この髪を見て、喉を鳴らしていた。
「この髪…、」
 私の声にミクリさんが微笑みを思い出す。けれど止まらない。次の言葉を吐く前にまた唇が塞がれる。手で私の髪を弄りながら、息さえ混じり合うほどのキスを浴びせられる。
「気に入って、くれましたか」
 ルネの海より透き通りきらきらと輝く瞳が僅かに見開かれる。次の瞬間、
「ああ、とても。私に染まる{{kanaName}}は何よりも美しい」
 ミクリさんがささやかに微笑む。でもそれは。
「食べてしまいたい」
 一瞬の凪だった。