世界を彩るエメラルド

結果を出せず次の大会を最後にコンテスト挑戦を辞めようとしていた夢主はひょんな事から憧れのミクリと出会い師事を受けることになった。二人で特訓を繰り返す内にミクリへの憧れが次第に恋へと変わっていき……。先生と呼んで慕うミクリとの恋が始まるまでの話。
2021.08頒布合同誌「Tell me Love」よりweb再録
※web再録にあたり、名前変換出来るようにしました。

【1】
――頑張ってはいるけどトップにはなれない子だねえ。
 もう何度目か分からないコンテストを終えたわたしの耳に届いたのは、そんな辛辣な観客の言葉だった。着替えてしまえば参加者とは気付かれまいと裏口ではなく正面玄関へ向かったのが間違いだった。コンテスト談義に花を咲かせる自称コンテスト通の後ろを足早に通りながら耳だけはそちらに向ける。
「華がないんだよ、華が」「他のも大した事ないがあの子はもっと駄目だ」「マスターランクには届かないだろうなあ」「ハイパー優勝も怪しいんだ、マスターなんて寝言は寝て言えってもんだ」
 悔しさに拳を強く握りしめる。今日はこのまま帰るつもりだったけれど一秒だって休んでいられない。わたしはうっすら赤く染まる海へと足を向けた。
 ミナモシティの砂浜から向かうのは最近見つけた小さな無人島。そこの洞窟がちょうどコンテスト会場と同じくらいの広さで練習場所にぴったりなのだ。夢を追うのに疲れたわたしは次のコンテスト――最後と決めた半年後のハイパーランクコンテストに向け、誰にも邪魔されないその洞窟へと向かった。

* * *

「じゃあ……まずは今日の復習ね」
 パートナーのマリルリと今日のコンテスト映像を見返す。手厳しい観客の言う通り、どの技も華がない。今日は特にバブルこうせんが不調で、ただ泡を吐いているだけ、美しさの欠片もない。練習するならこれだろう。
 地面へ置いた的用のボールにマリルリがバブルこうせんを放つ。「もっと強く!」と言えば泡は四方へ散り、「もっと小さく!」と指示すると勢いがなくなって全然思った通りにならない。勿論これでも及第点は越えていて、入賞だけなら難しくない。けれど、優勝には程遠い。これじゃ駄目だ、わたしは敢えてボールのすぐ傍に立って「もう一度、強く!」指示を出す。今までと同じ練習では半年後に優勝なんて不可能だ。わたしの覚悟を見せればマリルリだってより本気になって、今なお眠っている輝かしい才能が開花するかもしれない。ためらうマリルリを睨みつけ「さあ、もう一度!」と叫ぶ。一呼吸して、覚悟を決めたマリルリが泡を吐く体勢に入った。
――その時だった。
「もっと大きく息を吸って細く吐くんだ」
 わたし達しかいないはずの空間に男性の声が響き渡った。マリルリが声に驚き、その拍子に狙いが大きく逸れて天井に向く。激しい泡の連撃が天井に、そしてそこから伸びる太い鍾乳石に叩き付けられ、泡に抉られた石が流星のように飛び散った。そして、
 バキンッ――鍾乳石から大きな音がした。落ちてくる、そう気付いた時には真下のわたし目掛けて鋭く尖った岩が落下していた。
「みずのはどう!」
 咄嗟に目を瞑って身を縮めるしか出来なかったわたしは、足に大きなゴムボールがぶつかる感覚に目を開けた。
 マリルリが大きな声で泣きながら抱き着いている。大丈夫だよと頭を撫で、辺りを見渡すと、鋭く尖った鍾乳石はすぐ傍で石の山へと形を変えていた。どうして、と一瞬前を振り返ると第三者が現れた事を思い出す。はっとして声のした方、洞窟の入口へと目を向けるとそこには、
「ミロカロス……」
 最も美しいポケモンが優美な眼差しをこちらへ向けていた。ミロカロスはわたし達の視線を引き付けると、その隣に佇む男性へといざなう。そこには、コンテストマスターとしてコンテスト界に名を馳せ、今はホウエンリーグの王の座にも就くチャンピオン・ミクリが立っていた。
「そんなポケモン任せの練習で身に付くのは戦う為の力、コンテストでは通用しない。ポケモンが舞台で輝くか否かはいかにコーディネーターがポケモンを知り、魅力を引き出せるかにかかっている」
 どうして此処にミクリさんが。雲の上の存在に話し掛けられている事実が信じられず頭が回らない。ただその姿を瞳に映し、見つめる事しか出来ない。
 ミクリさんがミロカロスの傍を離れて此方へ歩き出す。彼の歩みにあわせてマントが揺れ、見えないはずの風の流れがくっきりと浮かび上がる。白のヒールがコツ、と音を立てる度に空気が踊り、その足元には水面に広がる波紋が見えた。優雅さに目を奪われる。同時に、漂う緊張感で肌がビリビリと痺れる。そうして呼吸も出来ない数秒の後、目の前までやって来たミクリさんはこう言った。
「このままではいずれ、入賞も厳しくなるだろう」
 歌うような声が告げる辛辣な言葉が胸にずぶりと突き刺さる。冷ややかな視線が、憧れの人を前に熱くなった身体を凍らせた。肺が膨らまず、上手く呼吸出来ない。
 コンテストの覇者がそう言うのなら、きっと正しい。知ったふうな口でコンテストを語る観客とは違う、確かな目がそう判断したのだ、間違いない。それに、認めたくはなかったけれど自分でも薄々気付いていた。わたし達には明るい未来は待っていない、と。わたしは何も言い返す事が出来ず、ただ俯いて拳を握るだけだった。
「ルリッ」
 突然マリルリが大声を上げ、腕の中から飛び出した。何をするのかと思えばミクリさんを威嚇し、ボールを拾い上げてわたしへと差し出す。こんな奴無視して早く特訓を続けよう、マリルリの瞳はメラメラと燃えていた。けれど、わたしはボールを受け取れなかった。
 マリルリはボールとわたしを交互に見つめると、ひとりで特訓を再開した。彼女はいつだって前を向き、どんなに高い壁でも乗り越えわたしを引っ張り上げる。そうだ、こんなところで立ち止まっていられない。マリルリの姿に止まっていた思考が動き出す。ミクリさんは才能がないとは言っていない。このままなら成長はない、と言っただけ、正しく練習すればわたし達にだってきっと可能性はある。ショックを受けている暇なんかない。今出来る事をやれるだけやろう。まずは、目の前に現れた幸運の女神の前髪をどうにかして掴むんだ。わたしは深呼吸をすると顔を上げた。ミクリさんは、健気に練習するマリルリをじっと見つめている。
「わたしに、コンテストの事を教えてください」
 視線がゆっくりとマリルリから私へと動く。ミクリさんの二つの緑玉は画面越しに見るよりずっと綺麗で、それなのに木枯らしが吹いたような身震いに襲われる。一瞬で悟る、わたしの手は前髪を掠りもしなかったと。
「申し訳ないが誰かに」
「ミロロー」
 洞窟に鈴の鳴るような声が響き渡る。わたしとミクリさん、それからマリルリの視線が声の主に集まる。虹色に煌めく鱗に覆われた身体をくねらせてマリルリの隣へ動いたミロカロスが、ボールに向けて大きさの整った泡を放った。
 見惚れてしまうほど美しいバブルこうせんだった。ミロカロスがマリルリに微笑む。お手本を見せてくれたんだ、直感が告げる。
 はあ、聞こえた溜め息に視線をミクリさんへ戻す。僅かに険しくなった瞳がパートナーを怪訝そうに見つめている。
「私にはきみを指導す――」
 バンッ――ミクリさんへ戻った視線は大きな音によって再びミロカロスへと向かう。四つに分かれた空色の尾びれが地面を叩いていた。普段は温厚であろう眼差しは鋭く尖り、ミクリさんを強く睨み付けている。
「話を続けよう、私は」バンッ「コンテストもバトルも」バンッ「誰かに」バシッ。ミクリさんが話そうとする度にミロカロスが地面を強く打つ。綺麗な尾びれが少しずつ傷付いていく。そしてとうとう、
「分かった。分かったからやめるんだミロカロス」
 ミクリさんが折れて大きく溜め息を吐いた。
「教えるといっても基本的な事だけ、技の構成や振り付けには一切関与しない。それでいいね」
 最後の一言はわたしではなくミロカロスに向けられていた。すっかり大人しくなった彼はにこりと微笑んで嬉しそうに一鳴きする。やれやれ、とミクリさんがもう一つ溜め息を零した。
「それできみ、名前は?」
「はいっ、{{kanaName}}です。よろしくお願いします、先生!」
 無意識だった。すぐにミクリさんと言い直したけれど、緊張で声量を間違えた声はミクリさんにしっかりと届いていた。冷ややかな瞳がにわかに大きくなり、眉間にしわが深く刻まれる。折角掴んだチャンスがたった一言でふいになってしまう。
「ち、違うんです!」
 必死に弁解の言葉を並べ「今のは言葉の綾で」損ねてしまった機嫌を「浮かれてしまって」何としても「ごめんなさい、まちが――」
「センセイ……か」
 呆れたような顔にうっすらと笑みが浮かぶ。
「まあ、悪くない響きだね」
 それは、ミクリさんがわたしに初めて見せた笑顔だった。


【2】
 あのミクリさんに指導してもらう、そう言えば誰もがわたしを羨ましがるだろう。ミクリさんが誰かの指導を行うなんて話、噂ですら今まで一度も聞いた事がないから。それもそのはず、ミクリさんは「皆それぞれに美を追求してほしい。誰かの物差しに頼るのは勿体ない」と指導をする事にはひどく消極的なのだ。だからそんなミクリさんに師事してもらえるなんて、一生分の運を使い果たしたと言っても過言ではない……はずだった。
 けれど蓋を開ければどうだろう、初めこそミクリさんに掛けられる言葉一つ一つに有難みを感じていたけれど徐々に物足りなくなってきた。ミクリさんはわたし達が練習しているとふらりと現れ一言二言アドバイスをして、助言通りに練習をしているといつの間にかいなくなっている。そのアドバイスも宣言通り基本的な事ばかり。それぞれの技には最も適した姿勢と呼吸、タイミングがあり、それを知っているか否かで技の完成度が大きく変わる――ミクリさんは何度もそう言って、けれどそれしか言わなかった。ミクリさんのように立ち居振る舞いすべてを美しく見せる秘訣は教えてもらえず、コンテストで優勝するためのコツもちっとも聞き出せない。
「本当にこれで大丈夫なのかな」
 ふと不安が声になる。半年後のコンテストで結果を残したいなら基本を叩き直せと言われ、ひたすら言われた通りにして一ヶ月が経とうとしている。結果、マリルリは野生のポケモンにも自信を持って立ち向かえる強力な力を身に付けた。ミクリさんの言う通り、姿勢や呼吸を変えるだけで目に見える変化があった。
 けれど、これではバトルの練習だ。日に日に威力を増していくバブルこうせんに心は落ち着かない。
「おや、信じられないかい?」
 声がして振り返る。乳白色の艶々した身体をくねらせたミロカロスが「ミロロ!」と笑ってぐるりと長い身体を巻き付けてきた。非情にもわたしを盾に逃げたマリルリがキラリと目を輝かせて胸いっぱいに息を吸い、大量の水をミロカロスへと発射する。この一ヶ月で随分自信をつけたハイドロポンプだ。
「バトルなら満点のハイドロポンプだが、」
 マリルリの繰り出した水が一瞬にして凍り付く。ミロカロスのれいとうビームが見事に決まっていた。すんでのところで氷漬けになるのを回避したマリルリが悔しそうに地団駄を踏む。
 ああ、今の技は。何の予備動作もなく自然に、ただ息を吐いただけのような、静かに放たれた凍てつく光に目が奪われる。わたしはそれをよく知っている。ミロカロスが得意とする技の一つで、コンテストで何度も見ていた。
 けれど今目の当たりにした光景は、そのどれよりも美しかった。ミクリさんが最近コンテストに出ないのは勝てなくなったからだ、なんて出鱈目を言う人はこれを見てどんな顔をするだろう。コンテストマスターは今も変わらず美を追及していて、たちまち観客を虜にしてしまう。
「直線的で遊びがない。コンテストで使うならひと工夫が必要だ」
 ミロカロスの尾びれが氷の柱を撫でる。刹那、細かく砕かれた氷が星屑のようにキラキラと宙に舞った。
「私はきみ達の面倒全てを見るとは言ってない。基礎はもう充分だと思うなら、いつもの練習もすればいい」
 ミクリさんのその言葉に反応したのはマリルリではなくミロカロスだった。紐を解くようにわたしから離れ、的にしたボールに向かい合うと、渾身の一撃をあっさり受け流されたショックで落ち込むマリルリを尾びれでちょんと小突いた。マリルリが顔を上げたのを確認すると、優しげな笑顔を浮かべてふっと息を吐いた。均一な大きさの泡がキラリと輝くリボンのようにボールへと向かっていく。威力を最小限に抑えたバブルこうせんは引き寄せられるように真っ直ぐ進み、ボールに当たるとパチンと小さな音を立てて弾けた。
 さすがミクリさんのミロカロスだ、今まで使ったことがないであろう技ですらいとも簡単にコンテストで高得点を取れるレベルの芸術作品にしてしまう。思わず感心の溜め息を零すと鋭い視線がわたしを刺した。マリルリが悔しそうにしっぽを地面へ叩き付け、怒った顔でわたしとミロカロスを睨んでいる。ミロカロスはお手本を見せているだけなのに、彼の優しさは負けず嫌いのマリルリにはまだ伝わらないようだった。
「リルッ」
 マリルリが大きく息を吸い込む。でもそんなに大きく吸ったら小さくて繊細な泡にはならないのに、そう思った。
 けれどマリルリはこの一ヶ月でちゃんと成長していた。ささやかな風が小さな泡を運んでいく。途中で落ちる事も消える事もなく真っ直ぐに飛んだバブルこうせんは、ボールに触れるとパチンと指を鳴らしたような音を立てて弾け消えた。マリルリが嬉しそうにくるりと回り、もう一度同じように技を繰り出す。ミロカロスのお手本には見劣りするものの、とても綺麗なバブルこうせんだった。
 今までは調子の良い時にまぐれでしか出来なかった技の調節が、思いのまま出来るようになっている。わたしはご機嫌なマリルリを抱き締め、大袈裟すぎる程たっぷりと褒めた。ミロカロスも尾びれを揺らして自分の事のように喜んでいる。マリルリが照れくさそうに「ルリリ」と笑って、とどめと言わんばかりに雨粒ほどの泡を辺り一面に振り撒いた。ミロカロスの作った氷の欠片に負けない美しい光景だった。
「いいパフォーマンスだ」
 傍までやって来ていたミクリさんがマリルリを撫でる。優しい微笑みだった。わたしに向けられる瞳はいつも冷ややかでどこか居心地が悪かった。それはコンテストで観客席から向けられる視線によく似ていて、けれどどの瞳よりも澄んでいた。一切の私情を挟まない、曇りない瞳だ。その緑玉の瞳が今、はっきりとわたしを映す。
「これからきみがどのように美しさに磨きを掛けるのか、とても楽しみだよ」
 花が綻ぶような笑顔がそこにあった。テレビ越しでも一度も見た事のない、柔らかで暖かい笑みがわたしに向けられていた。
 憧れが恋に色付いた瞬間だった。


【3】
「ルリッ」
 マリルリのしっぽが不機嫌そうに床を叩いた。慌ただしく準備をする参加者の視線がいくつかこちらに集まり、すぐに各々の準備へと戻っていく。わたしも乱暴にしっぽを振り回すマリルリを「ちょっと大人しくしてて」と睨み付けながら大急ぎで支度を進める。相手にされなかったマリルリがますます顔をしかめたけれど今は構う時間が勿体ない。後でポロックでもあげて――
 ガンッ――鈍い金属音が部屋に響き渡る。マリルリの傍にあったスーツケースが犠牲になっていた。持ち主の男性が出来たばかりの凹みに眉をひそめ、相棒のアブソルが歯を剥き出して唸る。まずい、慌ててマリルリに頭を下げさせると、荷物をまとめて控え室を後にした。
 今日はいつもの洞窟ではなくシダケタウンにやって来ていた。大きな公式大会の前には模擬大会が開催される事がよくある。わたし達の目指すハイパーランクコンテストも開催二ヶ月前となり、各地で模擬大会が開かれていた。今日此処へ来たのはその内の一つ、シダケ模擬大会に出るためだ。
 模擬大会での優勝は本番への自信に繋がる。今のマリルリは公式大会でも充分通用する技と魅力を身に付けている。彼女がやる気を出しさえすればこの模擬大会は間違いなく勝てる。だから何としても頑張ってもらいたい。それなのに、此処へ着くなりあからさまに不機嫌になった。眉間にしわを寄せ、わたしの注意も聞こうともしない。
「ルーリー!」
 マリルリの言いたいことは分かっていた。今日の会場はいつも参加するミナモシティの会場と比べて明らかに小さい。ミナモのような常設会場と比べたら何処も小さいが、シダケは町自体が小さいこともあって特設会場も小ぢんまりとしている。もっと言うなら、各地で開催される模擬大会の中で最も規模が小さいのが此処シダケ模擬大会だ。
 わたしは、敢えて此処を選んでいた。マリルリが不機嫌になるのも、有力なコーディネーターが出ないのもすべて承知で、それでもシダケ模擬大会を選んだ。
「そこまで不満なら、余裕で優勝できるのよね?」
 マリルリと違ってわたしは不安で仕方がなかった。今回はあのミクリさんに練習を見てもらっている。指導らしい指導は相変わらずないものの、最近はわたし達の練習を見て微笑んでくれるようになっていた。ミクリさんが微笑む度に自信は大きくなり、同時に大きなプレッシャーも感じていた。
 わたしはこの四ヶ月の成果を絶対に残さなければならない。優勝しか許されない。ミクリさんの顔に泥は塗れない。だから、シダケ模擬大会を選ぶしかなかった。
 わたしの言葉にマリルリが怯む。わたし達の胸に不安の風が不気味な音を立てて吹いていた。

* * *

 観客席から割れんばかりの拍手が起こる。足元のマリルリは強い照明が眩しそうだ。頑張ったねとその頭を撫でていると観客席から身体が覚えてしまった視線を感じ、はっと身を起こす。けれど観客席は薄暗く、前方ならまだしも後方はよく見えない。気の所為だ、こんな場所にいるはずがない。意識を舞台へ戻すと、優勝記念トロフィーを持った審査委員長がいつの間にか壇上に立っていた。スポットライトを全身に浴びたアブソルが会場中に響き渡る雄叫びを上げる。早く、この場から立ち去りたかった。
 永遠のように感じた表彰時間もようやく終わり、一目散に会場を後にする。優勝出来なかったなんて、まるでタチの悪い悪夢だ。認めたくない。知られたくない。一刻も早く忘れよう。それから今すぐ練習だ。公式大会までたった二ヶ月しかない、休んでる暇なんて一秒だって――
「今のきみに必要なのは休息だ。今日は休むんだ」
 不意に腕を捕まれ、厳しい声がわたしを襲った。会場でも感じた刺すような視線がわたしが見下ろしている。
「なっ、んで」
 ミクリさんが此処に。こんな小さな模擬大会に。
 どうしよう、見られてしまった。無様に優勝を逃したわたし達の姿を。秘密の先生に、わたしの憧れの人に、絶対に見せたくなかったひどく情けない姿を。ああ、明日からあの洞窟へは行けない。もう二度とミクリさんに声を掛けられる資格が、ない。
「この私を誰だと思ってるんだい。大会に向けた調整をしていたのは見ればすぐ分かる。それで直近の大会出場者を調べたら今日の模擬大会を知ったのさ。{{kanaName}}、一つ聞きたい事がある。今日のコンテストでマリルリは笑っていたかい」
 ミクリさんは決して表情の薄い人ではない。むしろ大袈裟すぎるくらいだ。それなのに、肝心な時に限って何を思っているのか分からない。今目の前の緑の双眸には感情が映っておらず、見えるのは一刻も早く逃げ出したいわたしの小さな姿だけ。分からない、ミクリさんが。思い出せない、マリルリの表情が。
「そうだと思ったよ。{{kanaName}}、明日の挑戦者はなかなか実力があるようで、恐らく私の元までやって来る。だからもし答えが知りたければ見に来るといい。きみに足りないものがきっと分かるはずだ」
 そう言ってミクリさんが差し出したのはポケモンリーグの観戦チケットだった。動揺して受け取れずにいるわたしに無理やり握らせるとミクリさんは憐れみ色の微笑みを浮かべ、帰っていく観客の波の中へと消えていった。

* * *

 コンテストばかり見てきたわたしにとってポケモンリーグは無縁の場所だった。それでも此処へ来たのは昨日渡されたチケットのせいだ。ミクリさんの厚意を無下には出来ない。でも、バトルなんか見て一体何が分かるのか。あっという間に四天王を倒してしまった挑戦者が観客席に手を振る様子をぼんやり眺めながら溜め息を零す。あの挑戦者は今からチャンピオンとバトルなのに随分と余裕だ。こんな大舞台で、あんなにも自信満々でいられるなんて、羨ましくて嫉妬してしまう。
 ところが煌々とフィールドを照らしていた照明が一斉に落とされ、か細いスポットライトが挑戦者を射抜くと様子が一変した。自信に満ち溢れていた表情は今やすっかり固くなり、観客席にまで緊張と不安が届いている。登場と共に大きな歓声に包まれたミクリさんとは大違いだ。チャンピオンは不敵に笑っている。
「ホウエンで誰が最も華麗にポケモンと踊れるのか、ここに示そうじゃないか!」
 バトルがコンテストに活かせるはずがない――それが四天王戦を見た感想だった。じゃあ今目の前で繰り広げられるものは何だ。ミクリさんのポケモンは今すぐマスターランクコンテストに出場しても優勝出来そうなコンディションで、飛び交う技はまるでショーを盛り上げる演出、技を受けて苦しむ姿すら演技のひとつに見える。不利な相手でもポケモン達の目は輝きを失わず、ミクリさんも挑発的な笑みを絶やさない。苦戦を強いられる挑戦者の苦々しい顔とは対照的で、次は何をしてくれるんだろうと目が離せない。そんな観客達が向ける期待の眼差しを一身に受け、ミクリさんはなお笑っている。
「――あっ、」
 昨日のミクリさんの問い掛けの真意に、此処へわたしを呼んだ理由に気付いた瞬間、じこさいせいを終えて鱗にツヤを取り戻したミロカロスのなみのりが決まった。試合終了を告げる笛が鳴る。表情を和らげたミクリさんが会場を見渡し、深く頭を下げた。しばらくして顔を上げた時、唇がわたしに言葉を紡ぐ。
 分かったね?――そう言って綺麗な弧を描く唇に、わたしはゆっくりと頷く。
 今日も昨日もそれまでも、ミクリさんは慈しみに満ちた微笑みをわたしに向けていた。


【4】
 舞台の上では誰もがキラキラと輝いていた。そこに優劣は存在せず、沢山の煌めきと憧れだけがあった。わたしが目指した姿もそんな眩しい姿だったのに、いつの間にか勝ちにばかり拘ってすっかり忘れてしまっていた。
 あの日、バトルフィールドに立ったミクリさんは真剣勝負にも関わらず微笑んでいた。いつだったか、何かのインタビューでミクリさんが語っていた事を思い出す。どんな時でも微笑む余裕を持つように心掛けている。トレーナーが暗い顔をしていたらポケモン達のパフォーマンスも下がってしまうし観客を笑顔にする事も出来ない。だから私は常に微笑むようにしているのさ——それはとても大切な事で、わたしもそうありたいと思っていたのに、気付いたら失くしていたものだった。あのバトルを見なければ、未だに自分が微笑む余裕を失くしながら舞台に上がっていた事に気付けなかっただろう。わたしの強ばった顔にマリルリの自信が揺らぎ、彼女の愛らしい笑顔も消え、わたし達は少しも輝けないまま最後のコンテストを迎えていたに違いない。
 ハイパーランク優勝トロフィーが眩い照明を反射させている。高く掲げたそれに合わせるように一際大きな拍手が湧き起こった。わたしも清々しい気持ちで拍手を送る。マリルリも小さな手をぱちぱちと動かしていた。
 最後と決めたコンテスト、優勝目指して頑張ってきたのだから有終の美を飾りたかった。でも、それ以上に、最後にコンテストの楽しさを思い出せた事が、舞台の上でマリルリの笑顔を見られた事が嬉しかった。
 全てが終わり、晴れ晴れとした心で控え室を出てロビーを通り正面玄関へ向かう。コンテスト通を気取る観客の声も全く気にならなかった。
「お疲れ様」
 外へ出たわたしに声が掛かる。振り返ると「やあ」と手を振るミクリさんが立っていた。
「素晴らしい演技を見せてもらった。今までで一番良い姿だったよ、半年前とは大違いだ」
 いつもは観客全員へ向けられる微笑みが、今だけはわたしにだけ向けられる。とくんと胸が鳴ってチクリと胸が痛む。今日が最後のコンテストという事は、わたしがあの洞窟へ行って特訓する事はもうない。わたしがミクリさんと会う理由が、わたしとミクリさんを繋ぐものがなくなる。けれど、そもそもあの日ミクリさんに出会ったのが奇跡で、その奇跡で生まれた繋がりが今日まで続いた事が本来なら有り得ない事だった。これ以上は求めすぎている。明日からはまた雲の上の存在に戻るだけ。それに、秘めた恋というのもそう悪いものじゃない。
「今日のきみ達はとても輝いていた。{{kanaName}}、よく頑張ったね」
 くしゃり、大きな手が頭を撫でる。心臓が大きく跳ねた。今まで褒められた事なんて殆どなかったのに、どうして最後の最後でこんな事を。最後だからって急に優しくするなんて、そんな事をされたら綺麗に諦められなくなってしまう。熱くなる目頭を隠すように俯く。
 ミクリさんの手が離れ、わたしの伏せた瞳が何かを捉える。それは今日の大会プログラムだった。その端の方に、何かが走り書きされている。
「きみ程の人間がこのままコンテストを離れてしまうのは勿体ない。ミロカロスもマリルリを気に入っているしそれに……。あぁ、それは私のプライベート用の番号だから扱いには充分気を付けてほしい」
 心臓が煩くなる。舞台上で感じる高揚感と似たそれは瞬く間にわたしを包み込み、奥へと仕舞い込んだばかりの恋を引きずり出す。視界が滲む。零れ落ちそうになる感情の雫を必死で押し止め、落ち着くためにゆっくり息を吐く。
 覚悟を決めて震える手でプログラムを受け取ると、期待と不安の混じった瞳をミクリさんへと向けた。わたしが憧れて恋した緑玉の瞳と視線が絡み合う。どくん、心臓が跳ねた。
「じゃあ、また」
 ミクリさんが微笑んだ。それは、ミクリさんと出会ってから今まで一度も言われた事のない言葉で、けれどこれから何度も聞く事になる言葉だった。
 世界がエメラルドに煌めいた。