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(ミクリ)
 唇が触れ合い、離れ、もう一度くっつく。今ここに聞こえるのは風に揺られた木々が葉を擦り合わせる穏やかな音くらいで、けれど私の聴覚の大半を支配するのはそこに不釣り合いなリップ音だった。
 またわざとらしく可愛い音を立てて唇が離れる。じわじわと物足りなさを感じ始めた体が今以上の刺激欲しさに僅かに口を開く。けれどミクリはそれに微笑むだけで、私のグロスまで丁寧に塗った唇をやわく食んでまた離れてゆく。
 色の移った唇は私のより艶っぽくて色気があった。ここが何処だかも忘れてその色気に狂ってしまいたくなる。
 なのにミクリはそんな私を全て分かった上で「人が来たらどうするんだい」唇に三日月を浮かべて試すように笑う。
「私もルネだからと少し調子に乗ってしまったね」
 観光客はもちろんルネの住民すら滅多に来ない小さな公園は、ベンチとブランコがあるだけだった。
 ここはいつ来ても誰もいない。だからつい、ミクリが私の腰を抱くのも、頬に手を寄せ何度もキスを繰り返すのを許してしまう。そうして満足した彼とは裏腹に私の体はすっかり火照ってしまって、その先が欲しいと求めてしまう。人が来るかもしれないのに。
「それに、そろそろ此処を出ないと舞台に間に合わないよ」
 ミクリの言うように、今日はカナズミで劇を見る予定だった。とても人気で、ミクリも楽しみにしていた。だから、今すぐベンチから立ち上がって出発しなきゃならない。でも。
「それとも、舞台はまた今度にしようか」
 私は覚えている。どんなに大きな会場であっても空席はよく見えるだとミクリが言っていた事を。たった一つの空席でも落ち込んでしまうんだと零していた事を。
「行く」
「そう、それは――――」
 ミクリが笑う。この時ほどミクリを狡い人と思った事は、ない。
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(ミクリ)
 風の噂でミクリさんが失恋したと聞いた。わたしだったら喜んで受け入れるのに、世の中には羨ましい立場の人間がいるらしい。
 何にせよ、これはチャンスかもしれない。傷心中の隙を狙うのは少しフェアでない気もするけれど、相手はあのミクリさん、わたしの様な一介のトレーナーにはそもそも可能性なんてないに等しい。だからズルをしなきゃきっと何も残らない。
 具体的に何をすればミクリさんに意識して貰えるか分からないけど、とにかく声を掛けるところから始めよう。がんばれわたし!

 この時わたしはすっかりやる気になっていて何も気付いていなかった。今までろくにプライベートを漏らす事のなかったミクリさんの、よりによって失恋情報が流れてきた不自然さに。そして情報元が口が軽い事で有名な人だった事に。そんな相手にミクリさんが何の意図もなく自ら失恋を打ち明けるはずがないということに。
 わたしがその事に疑問を持つのはずっと先のこと。ミクリさん本人に失恋した相手を聞けるほど親しくなるまで、彼の巧妙な罠に気付く事はなかった。
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(ダイゴ)
「分かってると思いますけど、絶対に時間厳守ですからね」

 秘書という名の世話係を任せられた私が眉を釣り上げ釘を刺すと、ダイゴさんは「分かってるよ」と私をまっすぐ見つめ返して笑った。
 今回のイッシュ旅行は単なる観光ではなく、地方間の交流の、ホウエンリーグの代表として招かれている。その為対談やインタビュー、講演会、それからバトルもする事になっていてゆっくり息をつける時間はあまりない。今日も午後にPWTでの試合が組まれている。
 だから、いくら午前中に予定がないからと電気石の洞穴に行くだなんて、本当なら絶対に阻止しなくちゃならない。ここはイッシュで、ホウエンではない。万が一遅刻でもされたら大変だ。

「そんなに心配ならきみも一緒に来るかい?」

 採鉱用の荷物を背負い、今にも出掛けようとしていたダイゴさんが僅かに首を傾げる。
 私はあわてて首を振る。お目付け役として同行してるとはいえ、仕事ではない時間まで追い回しては申し訳ない。行先も分かっているし、何か問題を起こすような人でもないからプライベートの時間は自由に過ごしてもらうつもりだ。

「本当に、一緒に来なくていいのかい?」

 それなのにダイゴさんは青く透明な瞳を私へ向けてうすら笑みを浮かべる。悪戯を企む少年のような笑顔に、一抹の不安が過ぎる。

「じゃあボクは一人で行かせて――」
「待ってください! 念の為、私もご一緒します」

 出発しようとするダイゴさんの腕を掴む。本当はヒウンシティを観光しようと楽しみにしていたけど諦めよう。バトルに遅刻するような人ではないけれど、万が一という事もある。

「分かった。一緒に行こう」

 ダイゴさんが笑う。
 笑顔の理由も僅かに上機嫌になった原因も、今の私はまだ知らない。
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(ミクリ)
 珍しくミクリさんが炎上している。と言ってもミクリさんのファン同士が揉めているだけでミクリさんが非難されている訳ではない。

「でもちょっと分かります。わたしもルチアちゃんが突然ボーマンダを使い始めたらショックですもん」

 発端はミクリさんが出たコスメのCMだった。そのCMにミクリさんはギャラドスと出たのだ。

「私がギャラドスを使うのはいけないのかな」
「そうじゃないですけど、ミクリさんと言えばミロカロスだし……」
「つまりイメージを保て、と」
「まあ、えっと…。そう、です」

 ちらりと向かいに座るミクリさんを見る。ひょんな事からお茶友達になってしまった彼は、目を伏せ顎に手を掛けて考え込む。長いまつ毛は綺麗にカールして、リップグロスを塗った唇はわたしのよりうんと艶やかだ。
 曖昧に頷いてしまったけれど、こうしてまじまじと見つめて思う。このイメージはずっと保ってもらいたい。綺麗で優雅で美しくて、スターとして輝く姿をこのままずっと。

「なるほど。では一つ聞いてもいいかな」

 コバルトグリーンの瞳がきらりと光る。どこか楽しそうに笑っていてわたしは少し身構える。

「私が君と付き合う事は、そのイメージを損ねてしまうかな」
「は、え、」
「尤も、損ねるからといって君を諦めるつもりはないよ」

 ミクリさんの唇が綺麗な弧を描く。一体何の話をしていたんだっけ。どうしてこんな、こんな……。

「答えはそのティーカップが空になるまでによろしく頼むよ」

 落ち着こうと手に取った紅茶がごくりと音を立てて喉の奥へと流れていく。視線を下へと落とすと、さっきまで隠れていたのサクラビスの絵が浮かび上がっている。

「さあ、質問に答えてもらおうか」

 顔を上げる。ミクリさんの自信に満ち溢れた瞳がまっすぐにわたしを貫いた。
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(ダイゴ)
 今日のデートは先週封切りされたルカリオの冒険映画を観に行く予定だった。
 なのに一体どういう事だろう。今わたしは路地裏に引っ張り込まれダイゴさんに詰め寄られている。逃げようにも路地裏は狭いしごちゃごちゃと物が落ちていて逃げ切る前に捕まってしまう。せめて距離を取ろうとしても既に背中は壁に当たってこれ以上離れられない。
「最近のきみ、」
 逃げ道を塞ぐようにダイゴさんが壁に手を突く。漫画やドラマで見掛ける壁ドンだ、状況を飲み込めない頭が思考を放棄してそんな事を考える。けれど睨むようにわたしを見つめるアイスブルーがそれを許さない。どくん、こんな場所でも心臓はドキドキと高鳴っていく。
「ボクの事ちゃんと見てるかい?」
 ちゃんと見てる、わたしの心はいつだってダイゴさんを向いている。でも少し、ほんの少しだけ、最近捕まえたばかりのマリルを優先する事もある、かもしれない。
「嘘つき」
 噛み付くようなキスをしてダイゴさんが唇を少し尖らせる。マリルも気に入らないご飯の時はそんな顔をしている事を思い出す。
「また、だ。今はボクだけを見てよ」
 もう一度、今度はわたしの肺から全ての酸素を奪う程のキスをして、わたしの体をぎゅっと強く抱き締めた。
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(ミクリ)
 まず思ったのは、このタイミングで振られるのか。次の瞬間、このタイミングだから振られるんだと思い直した。
 新年を迎えて一月が経ち、何かとイベント事が大好きな世間がチョコレートの香りに包まれた頃、わたしは恋人に手酷く振られてしまった。未練がましく追い縋る事もせず、見栄を張って静かに受け入れたら「お前も俺に飽きてたんだろ」と罵倒のオマケを貰いながら。失礼な、そんな事はない。ただ、用意したチョコレートが勿体ないなと思っただけだ。
 そんな最悪のデートの帰り道、いつもならポケモンに乗って家まで帰るところを自分の足で歩いていたら、思わぬ人物と出会した。
「ちょうど相手を探していてね。良かったら一杯どうだろう?」
 アルコールを含む吐息を吐くミクリがゆるりと笑顔を作る。流石にそんな気分にはなれない、と首を振るとしかし、ミクリがわたしの手首を掴んで離してくれない。
「そんな顔をしたレディを見過ごしたら草葉の陰で師匠が泣いてしまう」
「アダンさんはまだご健在でしょ」
「ふふ、言葉の綾さ。ほら、何でも聞くから久しぶりに飲み明かそうじゃないか」
 そう言ってミクリが歩き出す。
 そういえばミクリに最後にチョコレートを贈ったのはいつだったか。今年はミクリにもチョコを贈ろうかな。
 このタイミングで振られたのはちょうど良かったのかもしれない。への字に曲がっていた唇が僅かに口角を上げた。
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(ダイゴ)
「これは花崗岩だね」
 手の平に鎮座する小石をじっと眺めていたダイゴさんは親指と人差し指でそれを摘み上げると口端に笑みを浮かべた。
「か、こう…、がん」
 耳慣れない名前をオウム返しすると何が楽しいのかゆるりと目を細め「そう、花崗岩だよ」もう一度、今度は先程より愛おしそうに名前を紡いだ。
「つまり?」
「残念ながら大理石ではないね」
 全体は白っぽく、中に灰色と黒の混じったその石はどう見ても大理石だ。でもプロが違うと言うのだから違うのだろう。珍しい石を見付けたと思ったのに、これでダイゴさんの気を引けると思ってウキウキしてたのにがっかりだ。思わず溜め息が零れた。
「でもそんな事よりボクはきみが石に興味を持ってくれた事が嬉しいよ」
 きらりと輝いたアイスブルーの瞳は全てを見透かしたようにわたしを見つめている。気恥ずかしくて視線を逸らすと、ダイゴさんの手の中に収まるありふれた小石が少しだけ特別なものに見えた。