過ちにしないで

起きたら片思いしているチリが隣で寝ていた

朝、目を開けると知らない天井が広がっていた。背中を包むベッドも、肩まで掛けられた布団も見覚えがない。何がどうなっているんだろう、何度か瞬きをして昨夜の記憶を辿る。ええっと、たしか昨日は少し羽目を外して飲みすぎたんだっけ。
 と、すぐ傍に何かの存在を感じで体を傾ける。こちらに顔を向けて泥のように眠る人物がいた。長い深緑の髪が重力に従って垂れ下がって絶妙に顔を隠していたけれど、その絹のような髪もその後ろに隠れるすっと筋の通った鼻は紛れもなくチリさんだった。チリさんがわたしの隣で服を着ずに――布団の隙間からちらりと見えた肩や胸元を見る限り上半身に衣類を一切身に付けずに眠っている。
 血の気が引く、とはこういう事を言うんだろう。訳が分からず反射的に体を戻すと無理やり天井だけを視界に収める。けれど視線は隣で眠る彼女に釘付けで必死に眼球を動かしその姿を捉えようとする。視界の端にチリさんが覗く度に高速で視線を天井へ戻し、そしてまた現実を確かめるように瞳が徐々に水平へと傾いていく。
 そんな事を繰り返しながら昨夜の行動を振り返る。幸いな事に記憶は飛んでおらず、落ち着いて思い返すと細かな会話はともかく大まかな流れは思い出せそうだ。始まりはそう、クーポンがあるからと誘われ居酒屋に行ったら二人きりで、あれっと思ったけれど女同士だから気にせず飲み食いしたらいいと言われてどんどん勧められるお酒をたんまりと飲んだらもちろん飲みすぎで、一人けろりとしたチリさんに肩を貸してもらって店を出たけど足はフラフラで立つのさえやっとで、ちようど翌日は休みだったから何だか律儀に帰るのが面倒になって、それで……

「なにひとりで百面相してんねん」

 ふはっ、と吹き出す声がして反射的に首を90度回転させるとチリさんと目が合った。ぐっすり眠っていた筈なのに、一体いつの間に起きたんだろう。あんまり驚いてしまって息を呑む。
 笑う口を隠すように当てられた手にはいつもの手袋はなく、滅多に見られない五指があらわになっている。わたしはすらりと伸びた指から目が離せず、短く切りそろえ艶々と光る爪に目を奪われた。そうしてあの指の昨夜の所業を思い出してゆく。わたしの髪を梳き、頬を撫で、唇をなぞり、首筋を這い、敏感な部分に触れ、そして……記憶が蘇ると同時に顔に血が集まって耳まで赤くなってしまった。

「先にシャワー浴びさせてもらうで」

 わたしを見て笑ったチリさんは穏やかな笑みを浮かべていたはずだったけれど、すっかりいつもの、いや、いつもより冷ややかで距離の感じる声色になっていた。昨夜このベッドの中で湿っぽい声でわたしの名前を囁いた彼女の姿は、どこにもない。余韻も何もないチリさんに、この記憶は夢なのかもしれないと僅かに疑念が生まれる。けれど、身体に残る感触は確かにそこにある。
 チリさんは自分が裸であることも、わたしが昨夜を思い出して体の芯で燻り始めた熱に困惑しているのにも気にせず体を起こした。そして床へ足を下ろし、
「どないしたん」
 腕を掴んだわたしへ少し面倒くさそうな顔を向けた。
 呼び止めた明確な理由なんてない。咄嗟に掴んでいた。ただ、このまま彼女を浴室へ向かわせるのは良くない気がした。
 チリさんの深紅の瞳が不快そうに歪む。一体どうしたんだろう。わたしは目の前で不機嫌をあらわにする彼女にその理由を尋ねようと口を開く。

「ど、どうし」
「『どうしてわたしと寝たの?』って? そんなんノリと勢いやんか。自分も気持ち良かったんやから構わんやろ」

 けれどチリさんはわたしの言葉を遮って刺々した返事を返した。その勢いに思わず怯んでしまう。でも同時に違和感を覚える。わたしの記憶とチリさんの言葉ほ大きく食い違っている。
 ホテルに入ったのは確かにチリさんの言う通りその場のノリだった。それがシャワーを交互に浴びたら何故だか変なスイッチが入って、仲の良い学生同士がするようにベッドの上でけらけら笑いながらバスローブの上から互いの身体を触りあった。
 でも、その後のことはノリでも勢いでも、酔ったせいでもなかった。

「わたしは、ちゃんと本気…、だったよ」

 チリさんの伏せられた瞳を追うと、目尻を飾る控えめ睫毛が瞬きに合わせて揺れていた。けれどこちらの視線に気付かれふいっと別の方に逃げられる。普段ならわたしが視線を逸らすことはあってもチリさんに逸らされることは滅多にないから新鮮で、同時に不安になる。投げ付けられた言葉もわたしを突き放すものだったから、余計に胸がざわついた。そんなわたしの不安は表情にも表れていたようで、チリさんのきゅっと結ばれた唇がやおら動く。

「ったく……ええ顔したいんかもしらんけど、起きてこっち見た瞬間に真っ青な顔したんは誤魔化しきれてへんで」
「そ、そんな事っ」

 うんざりとした深紅の瞳に慌てて弁解を試みる。記憶の混濁していた頭がチリさんを見て驚いたのは確かに事実だった。心底驚いた。でもそこに後悔や後ろめたさは存在していない。

「あれは、一瞬訳が分からなかっただけで、」
「目覚めた今ならどうとでも言えるわな」

 怒ったように唇を尖らせるチリさんに縋るように「本当にびっくりしただけで」「昨日もノリとか勢いじゃなくて」と言葉を連ねる。チリさんがまたため息を吐いた。

「なんでそんな必死なん?」

 大きく開いた瞳がまっすぐにわたしを見おろす。普段の含みある微笑みはどこかへ消え、感情を隠してわたしの答えを待っている。真剣に答えなければいけないと悟る。わたしもチリさんと同じように体を起こして目線を合わせる。一糸まとわぬ体は朝のひんやりした空気にわずかに震えた。

「だって、本気だから」

 たとえ遊びの延長のような流れで行為に及んでいたとしても、この気持ちは本当だった。好きだから家に帰りたくなかったし、好きだから目に留まったホテルに誘った。バスローブ姿の彼女に体を寄せたのも、擽ったり撫でたのも興味がなかったら絶対にしない。だから、その想いを込めて真剣に答えた。
 チリさんはじっとわたしを見つめていた。わたしの返事を聞いても眉一つ動かさない。信じてもらえないんだろうか、不安でわたしの眉が下がり始めた瞬間、ようやくチリさんが動いた。まっすぐに結ばれていた唇が緩やかな弧を描く。

「じゃあもう一度言うて」

 チリさんが言う。でも一体何を、だろう。今の言葉をだろうか。わたしはもう一度真剣に言葉を繰り返した。けれどチリさんは「ちゃうちゃう!」遮るように首を振った。

「昨日の、熱っつい告白の言葉をもう一度、や」

 そう言うチリさんは表情こそいつも通りだったけれど、頬は酔った時のように真っ赤になっている。昨夜の出来事を冗談にしてしまおうとしたチリさんはどこにもいない。ここで彼女の望みを叶えればきっとわたしの真剣な気持ちはチリさんにも伝わるはずだ。分かった、と頷く。けれど、

「えっと、えーっと……」

 必死に思い出すけど何も出てこない。コンピューター並の記憶力がある訳でもないわたしが、酔う酔わない関係なく逐一全ての会話を覚えているはずがないのだ。もちろん、告白自体は真剣に本気でしたのは何となく覚えている。でも肝心の言葉は記憶の彼方へ消えていて、もう二度と思い出せそうにない。

「ふっ……なはは!」

 笑い声が漏れたのはいよいよ困り果てたわたしが最悪の結末を覚悟して俯いた顔を上げた時だった。

「ほんま自分、おもろいなあ」

 チリさんが呆れたように笑ってわたしの体をぐっと押し倒すとそのまま自分もベッドに倒れ込んだ。

「自分の事、ちょっとでも疑うてしまったんが恥ずかしいわ」

 そうしてわたしの裸体をぎゅうっと腕の中に閉じ込めると、鼓動の音にも掻き消されそうなほど小さな声で「イジワルしてごめんな、好きやで{{kanaName}}」囁いた。