恋の引力

チリにチョコを渡すシュミレートする夢主とそこに現れる人影(バレンタイン夢)
※ワーパレお借りしました→@torinawx

 バレンタインの朝、目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。いつもの数倍素早く朝食を済ませ食器を食洗機に押し込んで、綺麗にアイロンを掛けたブラウスに袖を通してドレッサーに陣取った。そうしていつもの何倍も丁寧に身支度を整えるとちょうど良い時間で、最後に忘れ物の認をして出勤時間だ。
 歩きながら今日の予定をシュミレートする。まずは昨日の仕事の続きを進めよう。それと新規の面接者の登録も時間までに忘れずに。それからチリさんに次のジム監査の件を確認して、そしてその時に……チョコレートを渡すんだ。ぎゅっとこぶしを握って足を強く踏み出す。
 大丈夫、私なら出来る。今日はとっても調子が良いし何回もシュミレーションもしている。渡す事さえ出来ればきっと受け取ってもらえる。
 万が一、もしも好意は受け取らないと言われても、その時は魔法の言葉を使えばいい。そう、『日頃の感謝』という魔法の言葉を。告白は出来なくてもこれさえ唱えればチョコレートは受け取って貰える。次に繋げられる。
 うん、完璧。何回もの脳内シュミレーションではいつもミッションコンプリート、晴れてチリさんの恋人だ。
 じゃあ最後にもう一度、流れをおさらいしておこう。真っ直ぐ前を向きながら脳内シュミレーションを始める。チョコレートはいつでも渡せるように鞄の中に入れておいて、もしお昼に誘われ……──

「やーっと来おった!」

 近道しようと大通りの横道へ入った時だった。聞いた事のある声、知っている足音がしてハッと前を見る。目の前に、何故かチリさんがいる。
 脳内では色んなパターンをシュミレートしてきた。朝一で二人きりになった場合、夜まで渡せない場合、同僚と一緒に渡す可能性だって考えた。でも出勤途中でチリさんに出会うパターンは想定もしていない。何それ、どういう事だ。突然の事に頭が真っ白になる。

「おはようさん。なんや自分、今日は一段とべっぴんさんやん」
「え、あっ、お、おはようござい、ます」

 どうやら褒めてもらった気がするけれど、頭が固まったままでろくに返事も出来ない。チリさんは大きな口でけらけら笑って「アッハッハ、急に上司現れたからって驚きすぎやろ」バシンッ、背中を強く叩いた。刺激が背筋から全身を貫いてフリーズしていた思考がゆっくりと回り始める。そうだ、まずは状況把握だ。

「チリさんッ、ど、どうしたんですか」
「んー、どうしたんって、そりゃあ、なあ?」

 チリさんが私のすぐ隣に並ぶ。普段とは違う、何だか甘い匂いがしてあわあわしたら珊瑚の瞳にじいっとこちらを見つめられた。私を責めるような、何かを訴えるような瞳から、思わず視線を逸らす。淡い期待と客観視する理性が頭の中を駆け巡る。訳が分からなくて心臓がいやにうるさい。

「リーグやとゆっくり話も出来へんから、待っとったんやで」

 私より少し背の高いチリさんがわざと下から私の顔を見上げて笑う。いつもの豪快な笑顔とはまったく違う艶やかな笑みに、ぼぼぼっ、と火がついたように顔が赤くなる。恥ずかしくて目を合わせてられない。けれどチリさんは見つめるのをやめてくれない。

「なあ自分、今日何の日ぃか知っとる?」

 珊瑚のように鮮やかな赤の瞳が煌めく。いつもと違う視線に思わず肩紐を握り締める。鞄の中へ大切に仕舞ったチョコレートの箱がカタッと揺れた。

「そら知ってるわな。ほなこれ、チリちゃんから」

 ほい、と差し出されたのはオシャレな紙袋で、その中には可愛らしい小箱が入っている。中身は聞かなくても分かる。甘い甘いチョコレートだ。
 私はチョコレートとチリさんの顔を何度も見つめ、「えっ、なんっ……で、」理解が追いつかずそれ以上言葉が出てこない。
 私はこの瞬間まで、チョコレートを渡すのは私でチリさんは受け取る側だとばかり思っていた。チリさんが受け取る事はあっても渡す側に回るなんて、完全に失念していた。

「ちょっ! チリちゃんがごっつ真剣に選んだめっちゃええトコのチョコやで?! はよ受け取ったってや」
「あっ…、え、あ、はっ、はぃ」

 どんっと押し付けられた紙袋を受け止める。中にはチョコレートとポケモン用のチョコクッキーが入っている。どちらも有名店の人気商品で、たしか発売してすぐに完売していたように覚えている。
 そんな物が今、私の手の中にある。改めて驚きが込み上げ、ハッとしてチリさんを見る。目が合って、逸れる。逸らしたのはチリさんの方だった。

「返事は、いつでもええから……ほな先行くわ」

 いつものキリッとした表情はどこへやら、頬はほのかに赤く染まり、凛々しい眉も今はへにゃりと下がっている。瞬きも増え視線も左右に揺れている。普段のチリさんからは想像もできない、らしくもない仕草に、けれど私の心臓はバクバクと大音量で鼓動を鳴らす。

「あ、のっ……!」

 手を伸ばして先に行こうとするチリさんの腕をぐいっと引っ張る。咄嗟の事で力が入りすぎたのか、チリさんの体がぐらりと揺れた。ぐっ、と両足に力を込めて踏ん張って、チリさんが振り返る。まだ赤い顔は、それでも眉をぐっと上げていつものチリさんに戻りつつある。
 逃げる彼女にチョコレートを渡すシュミレーションはしていない。それでもぶっつけ本番でやるしかない。渡すならきっと今が一番良いタイミングだから。
 鞄に手を突っ込んでチョコレートを掴む。

「こ、これっ!」

 今度は私がチョコレートを押し付ける。自分では強引に押し付けたつもりだったのに、まるで引力で導かれたようにチリさんの手の中に収まっている。チリさんは受け止めたチョコレートをじっと見つめ、それを私が見つめる。

「……ふ、ふふっ、なははっ! 別に慌てて渡さんでも良かったのに。自分、せっかちさんやなあ。ほんま、可愛い子ぉやで」

 チリさんの綺麗な唇がにいっと曲線を描く。すっかりいつものチリさんだ。

「そしたら一緒に行こか」

 にっこり笑うチリさんに手を引かれ歩き出す。
 隣を歩くのは何だかちょっと恥ずかしい。
 けれど恋の引力はぎゅっと私を掴んで引き寄せて、遠くない未来でそれを感じなくなるんだろう。そう思ったらこのドキドキが何だか愛おしくて、私もふふっと笑っていた。