雨に降られたチリちゃんにお風呂を貸す
今日は一日晴れだと天気予報のお兄さんは言っていた。けれど暗くなった窓の外に広がる空はどんよりとした暗い雲に覆われ、ぽつり、外を覗いた頭に雨粒が降ってきた。 (傘、持ってるのかな) 恋人のチリちゃんに思いを馳せる。今日は早く上がれるから家に来ると言った彼女はきっと傘を持ち歩いていないし、デリバードポーチに寄って傘を買うなんて事もしないだろう。 (仕方ないなあ) わたしは大事な恋人が風邪を引かないようにと急いで浴室に向かう。湯張りボタンを押して、後で慌てないように着替えも用意した。それから本来の予定だった夕食の準備をいそいそと進めているとチャイムが鳴り響いた。時計を見るとチリちゃんが着くと言っていた時刻を指している。はぁい、と返事をして玄関に向かえば、 「いやあ、参ったわ」 玄関ドアを開けるなりチリちゃんが大きなため息を吐いた。背中に響く雨音は通り雨と呼ぶには大きな音を立てていて、雨独特の湿気がわたしにもまとわりつく。 「わっ、すごい降られちゃったね」 チリちゃんの深緑の髪は雨に濡れてぺたりと頬に張り付き、パールグレーのシャツも所々色を濃くしている。水溜まりを踏んだらしいブーツには案の定泥が跳ねていた。 その時、家の中からお風呂が沸いたと音が鳴る。ナイスタイミング、タオルを手渡しながらチリちゃんに尋ねる。 「お風呂用意したけど先入っちゃう?」 「さすが、気が利くやん。遠慮なく入らしてもらうわ」 ポイッとブーツを脱いでチリちゃんが慣れた足取りで浴室に向かう。ただの廊下なのに、その長い足が通ればまるでランウェイだ。ポケじゃらしを追うニャオハのようにチリちゃんの揺れるポニーテールを追う。 と、自分はついて行く必要はなかったのではと浴室の前まで来てようやく気づく。そんなわたしをチリちゃんは何か言いたげに見つめ、けれど何か言い出す前にクシュンと可愛いくしゃみが響いた。 「ほら、風邪引かないうちに早く入っちゃって」 「はいはい」 ぐい、とチリちゃんの背中を押してわたしはキッチンへと踵を返した。わたしにはやるべき事がある。彼女がお風呂に入っている間に夕食の準備を済ませなくちゃならない。 けれどその足はすぐに止まる。そうだ、チリちゃんの濡れた服をどうにかしてあげないと。下着は替えがないから仕方ないとして、シャツは洗ってしまおう。スラックスはしわにならないように干して、それから……。あれこれ考えているとあっという間に浴室へ到着する。 もうお風呂に入ってるかな。こっそりと脱衣所を覗き込む。果たして、チリちゃんの姿はない。少し残念な気持ちを抱えながら、足音を立てないように静かに中へ入る。 チリちゃんの服はわたしの用意した着替えの横にくしゃりと畳まれていた。一番上に置かれたシャツを手に取る。雨でしっとりと濡れたそれはまだほんのわずかに温もりが残っていた。 (チリちゃんの……) “それ”に特別な理由はなかった。 手に取ったシャツから何ともいえない良い香りが漂っていた。それが何か気になって、ほんの出来心で鼻を近付けただけだった。 柔軟剤の香りが鼻を掠める。けれどそれとは別の香りもする。わたしの脳が良い香りと訴える、不思議な香りだ。 それは決して香水のような華やかな香りではなく、洗剤のさっぱりとした香りでもなかった。そうそれは人肌から漂う、その人自身の――チリちゃんの匂い。 それに気づいた瞬間、理性が今すぐ息を止めて洗濯機へシャツを放り込めと煩く喚いた。でも匂いを嗅いで頭は酔ったようにクラクラとして、欲望を止められない。 じんわりと身体の芯に熱を帯び始めたわたしは、顔をシャツの中へと埋めてチリちゃんの匂いで胸をいっぱいにすることしか頭になかった。 だから、 「{{kanaName}}! お湯に入浴剤入ってな……」 ザアザアと鳴り響いていたシャワーの音が止むのも、浴室のドアが開くのも、チリちゃんが顔だけ出して声を張り上げわたしを呼んだのにも、すぐには気付けなかった。 一呼吸遅れて顔を上げると、唖然とした顔のチリちゃんが開いた口も閉じずにわたしを見つめていた。真紅の瞳が信じられないと言わんばかりにわたしと手に持ったチリちゃんのシャツを凝視している。 「ちっ、違うの! これは、そのっ、えっと…、だから……」 この大ピンチを切り抜ける言葉を必死に探す。けれどこの犯行現場を不自然なく切り抜ける魔法の言葉なんて存在するはずもなくて。わたしは何の弁明の言葉も絞り出せずただただ視線をさ迷わせるしか出来なかった。 「{{kanaName}}、」 チリちゃんに名前を呼ばれ、びくりと肩が震えた。何を言われるか分からず目を合わせることも出来ない。そんなわたしにチリちゃんはもう一度呼び掛ける。おそるおそる顔を上げる。情熱を色にした瞳が細められた。 「そんなんで自分、足りるん?」 チリちゃんはにやりと聞こえそうなほどニヤついた笑みを浮かべていた。青ざめていた頬に一気に血が巡って熱く火照る。 「あ、こら、ちょい待ちぃ! せめて入浴剤置いてけ〜!」 咄嗟に掴んだのはチリちゃんのために用意したバスタオルだった。けれど構わずチリちゃんに投げ付け、驚いてる隙に浴室から走り出す。 逃げる場所も隠れる場所もないこの自宅で、チリちゃんから問い詰められるまであと十数分、わたしは彼女のシャツを胸に抱いて鼓動を煩く刻んでいた。