秘め事は放課後に
ひょんな事から家庭教師をしてくれる事になったダイゴ『先生』にドキドキして恋をして少し大人になる話
※『キャラを“先生”と呼ぶ』をコンセプトに書いた話であり、学パロではありません!
2021.08頒布合同誌「Tell me Love」よりweb再録
※web再録にあたり、名前変換出来るようにしました。
2024.05この設定の夢また書きました→「花まるはまだ遠く/模範解答には未だ及ばず」
1.もっと知りたい
木曜午後七時、それはわたしにとって大切な時間。だからその日はどんなにスクールが遅くなっても絶対に六時半には家に帰る。家に帰ったら一日着た制服を脱いでお気に入りの服に着替えて髪を整える。汗が気になる時はシャワーを浴びるのも忘れない。本当はメイクもしたいけどこの前お母さんに「必要ないでしょ?」と笑顔で叱られて渋々あきらめた。でも素直に言いつけを守るのが何だか癪で、こっそり香水をつけている。汗をかいた日には制汗剤を使うんだから、もし何か言われてもきっとごまかせるはず。
準備ができたら自分の部屋の勉強机に座って、時間になるのをじっと待つ。でもこの時間が一番落ち着かない。手鏡を出しては手で髪を梳いて、服はこれで大丈夫かなと何回も確認する。少し前にうっかり前週と同じスカートを履いちゃったのは忘れられない。もう絶対そんなミスはできないから今はよく確認して服を選んでる。だって、ちょっとでも可愛いと思われたいんだもん。
何度目か分からない確認が終わった頃、待ちわびた音が階下から響いた。壁掛け時計を見ると七時五分前、いつもと同じ時間。チャイムが鳴ってしばらくすると玄関を開ける音がして、夜の挨拶を交わす声がうっすらと聞こえる。その後には階段を上る音。音が部屋に近づくにつれて、どくどくと心臓がうるさくなる。ドアをノックする音が三つ鳴った時には、もう口から飛び出しちゃいそうなほど体の中で暴れていて、毎週の事なのに「どうぞ」と伝える声はいつもちょっぴり震えているから、きっと一生慣れない。
「こんばんは、{{kanaName}}ちゃん」
毎週木曜午後七時、この部屋を訪れるのはダイゴ先生。お父さんの趣味仲間で、つまんなくて寝ちゃいそうになるお父さんの自慢話に付き合ってくれるかっこいいお兄さんで、酔っ払ったお父さんがわたしの成績を嘆いたことがきっかけで週に一度、わたしの勉強を見てくれる何でもできちゃうすごい人。そして、わたしの大好きな恋人。
「今日も準備がいいね」
ドアのそばにあるコート掛けにジャケットを掛けて、ダイゴ先生がわたしの隣に座る。白のシャツが眩しくて、その下に透けて見える腕に体がぶわりと熱くなって、逃げるように机へと向き直った。
そこでようやく、ダイゴ先生が部屋に入ってから座るまで、瞬きすら惜しんで凝視していたことに気がつく。恥ずかしくて、今すぐこの場から消えたくなる。
でもそんな心の内は全部お見通しみたいで、恥ずかしくて固まるわたしにダイゴ先生は小さく笑って「もういいのかい?」なんて言って顔を覗こうとしてきて。見ちゃダメ、慌てて両手で顔を隠したら、わたしよりひと回り大きくてゴツゴツした手に捕まえられた。キラリと輝く瞳がわたしに微笑む。顔が、体が、指先が、熱くて熱くてたまらない。手の甲から伝わる熱もそれに拍車を掛けてくる。もしわたしがこおりタイプだったらあっという間に溶けて消えちゃうに違いない。
「夜でもまだ暑い日が続くね」
ふっと息を吐くような笑みが耳に響き、包んでいたダイゴ先生の手が離れてゆく。少し惜しいけど、このまま手を握られ続けたら本当に溶けちゃいそうだった。
急いで手を引っこめ、熱くなった息を吐いたのも束の間、ダイゴ先生の動く手が視界の端に映る。つられるように視線を向けたら、胸元の深紅のシルクがしゅるりと音を立てて形を崩している。そうしてあっという間に首元から引き抜かれたアスコットタイは乱雑に丸められて勉強机に落とされた。バラの花みたい、なんてのんきに感じたわたしはダイゴ先生の色香にすっかり酔いしれてる。
「じゃあ、始めようか」
そう言うダイゴ先生は、流れるような手つきでシャツの第一ボタンを外して襟元を緩めた。どくん、心臓が痛いくらい騒がしくなったのに視線は首元から外せない。真っ白なシャツから覗いた肌色に、視線が釘付けだった。だって、普段は隠れがちな喉仏と、決して見ることのできない鎖骨がそこにある。クラスの男子がだらしなく着たシャツから見せつけるそれと同じはずなのに、相手がダイゴ先生だと心臓は一気に慌ただしく動き出し、まるで磁石で引き付けられたように目が離せない。
「ふふ、どうしたのかな」
その声に、風船が弾けるように意識が戻ってくる。視線を少し上げると、よく冷えたサイコソーダのようなアイスブルーの瞳がじっとわたしを見つめている。灯りを反射してキラキラ光る瞳はパチパチ弾ける泡みたい。けれどそんな宝物にしたくなる輝く瞳は、目が合った途端にくすりといたずらっぽく細められた。
何もかも、わたしの心はすべてお見通しだった。またダイゴ先生にからかわれて、今日も授業の始まる前からヘトヘトにされちゃう。ダイゴ先生は大人のくせにいじわるだ。
「大丈夫かい?」
言葉とは裏腹に楽しそうな声で言われて、反射的に大丈夫と返事をした。でも本当はちっとも大丈夫じゃない。それでも何とか平静を装って、にこにこ笑うダイゴ先生を無視してノートとテキストを開いた。
丁寧に書くのを心掛け、ペンを使い分け、マーカーでカラフルにまとめたノートは、ダイゴ先生に見られても恥ずかしくないよう気合いを入れて作り上げた作品だった。テストの点が悪かったのは変えようのない事実だけど、授業はちゃんと聞いて頑張ってることをアピールしたい。あの時の悲惨な点数は不真面目が原因なんかじゃないと知ってほしかった。実際、あの時のひどい点数はあれきりで、今は誰に見せても恥ずかしくない点数を取れている。だから実はダイゴ先生に見てもらう必要はもうない。それでも、ダイゴ先生は毎週わたしの部屋を訪れて勉強を見てくれる。
ダイゴ先生がわたしの『先生』になったのは一年以上前のこと。学年が上がって最初のテストは、スクールの先生が気合いを入れすぎちゃってとても酷いものだった。いつも満点近い学年トップの子ですら七十点に満たないくらい難しすぎて、テストが近づくと未だに話題に上がってる。けれどそんな事情を知らなかった当時のわたしはいつもより二十点も低い点数に危機感を覚え、勉強が難しくなったと両親に言ってしまった。しばらくしてお父さんから「来週からダイゴくんに勉強を見てもらいなさい」と言われて、そして今日に至る。
でも一度だけ、迷惑じゃないですかと尋ねたことがあった。チャンピオンの時間をこんなことに使っちゃいけないと思ったから。けれどダイゴ先生は首を振って「毎週の楽しみにしてるよ」と微笑んで「だからボクの為に授業を続けさせてほしいな」とその話はそれきりになってしまった。
あの時のわたしは、ダイゴ先生は優しいなあとしか思ってなくて、ダイゴ先生の言葉の意味を深く考えてなかった。でも今思い返すと違和感があって体が熱くなる。だってボクの為だなんて、そんなの、そんな言い方、不自然だもん。もしかしてダイゴ先生はあの時もう……ふとよぎった都合の良い憶測に慌てて首を振る。下らないことなんか考えないでちゃんと勉強に集中しなくちゃ。
まるで頭に入らない問題文をもう一度読み直して、無理やりシャーペンを動かした。
* * *
「最近よく頑張ってるね」
これはボクの仕事だよ、と赤ペンを握っていたダイゴ先生が丸付けを終えて微笑んだ。ポケモンバトルの問題はずっと苦手でいつも苦戦しているけど、ダイゴ先生のお陰で間違えることも少なくなって小テストで高得点を取れるようになってきた。でもまだ満点は取れてなくて、次こそ満点を取るんだと頑張っているところ。満点を取ったらダイゴ先生は褒めてくれるかな、褒めてほしいな。子ども扱いは嬉しくないけど、それとこれは別の話。来週こそ満点のテストを持って帰って褒めてもらうの。
「でも、ここはこっちの方がスマートだよ」
借りるね、とダイゴ先生がわたしの手からシャーペンを抜き取った。ノートはわたしの目の前だから書くには体を寄せなくちゃならなくて、ダイゴ先生は椅子に座り直すと、わたしとの距離をぐっと詰めた。今までそこにあった隙間がなくなってゼロになる。
肩が当たって、顔が近くて、恥ずかしくてつい顔を逸らしたら「説明中だよ」と怒られて。できるだけ視界にダイゴ先生を入れないようにノートだけを見たら今度は「具合悪いの?」と何も気づいてない振りをして顔を覗き込んでくる。触れている肌が熱くて、そばに感じる吐息に頬が赤くなって、わたしを逃がしてくれない瞳に心臓が加速してゆく。そんな、大人だったら気にも留めないことにも過剰に反応しちゃう体が恥ずかしくて見られたくないのに、ダイゴ先生は隠したいものすべて見抜いてくる。その桜色の唇にうっすらと三日月が浮かんで、甘くてとろけそうになる笑顔にますます熱が上がってゆく。
「大丈夫かい?」
突然、顎をすくい取られて逃げれない。瞳だけでも逸らそうとしても、煌めくアイスブルーの瞳がわたしを捕らえて離してくれない。どうしよう、飲みこまれちゃう。近付いてくる瞳の鋭さが何だか怖くてぎゅっと瞼を閉じた。
不安と期待がどくどくと心臓を鳴らして、目を閉じたのにあのギラギラした瞳が瞼の裏でも追いかけてくる。息が苦しくて胸が痛い。鼻先にダイゴ先生の吐息を感じるのに、顎を掴む指にダイゴ先生の熱を感じるのに、それ以外は何も分からない。一瞬が永遠のような長さになって襲いかかってくる。そして、
「熱はなさそうだね」
額に押し当てられた手の平が離れてゆく。
「約束忘れたのかい? そういう事はまだしない、って。それにまだ授業中だよ?」
離れていった気配にそろそろと目を開けると、目を細めてくすくす笑うダイゴ先生と目が合った。赤い顔が限界を超えて真っ赤に染まる。勘違いして、そういう雰囲気だと身構えた自分が恥ずかしい。でも、あんな風に見つめられて顔を寄せられたら、たとえ約束があっても、授業中だったとしても、そういうことを考えちゃうのは仕方がなくて。だってわたしはダイゴ先生のことが大好きなんだもん。
だから、すべて分かっててからかってくるダイゴ先生は、少しいじわるが過ぎると思う。わたしはつい尖ってしまう唇をそのままに、分かってますと返事した。
「ふふ、{{kanaName}}ちゃんは良い子だね」
柔らかな笑い声と共にくしゃりと頭を撫でられる。オクタンにも負けないくらい真っ赤なわたしとは正反対に、ダイゴ先生は白く透き通った頬でいつものように笑ってる。それが何だか悔しくて、でも言い返すことも、やり返すこともできなくて。今日もまたダイゴ先生のいじわるに、可愛いわたしの幼心は簡単にもてあそばれる。
「じゃあ説明を続けようか。{{kanaName}}ちゃん、今度はちゃんと聞いてるんだよ」
心臓をうるさく鳴らすわたしを置いて、ダイゴ先生は授業に戻る。振り回されるわたしはもうヘトヘトなのに、ダイゴ先生には疲れのひとつも見当たらない。先生のばか、大嫌い。心の中で呟いて「はぁい」とわざとらしく不満な声で返事をした。
* * *
七時から始まった授業もそろそろ一時間が経とうとしていた。初めの頃は九時近くまで見てもらっていたけど、最近は八時頃で終わることが多い。ちょうど今日も予定していた問題を解き終わったところで、わたしは壁の時計を横目で確認して口を開く。
「あの、せんせい、時間、」
「……ん、あぁ、本当だね」
丸付けを終えたダイゴ先生も時刻を確認して頷く。最後の問題もすべて正解で、ダイゴ先生が「難しかったのによく正解出来たね」とちょっぴり驚いた声で褒めてくれた。
「じゃあ今日はここまでにしよう」
そう言うと赤ペンを机に置いて、ダイゴ先生がぽんぽんと膝を叩く。それは友だちが飼っているエネコを呼ぶ時と同じ仕草で、でもここにはエネコなんていない。この部屋にはわたしとダイゴ先生の二人だけ。
「ほら、おいで?」
どこへ、なんて聞かなくても分かった。わたしはようやく収まった頬の火照りが再び戻ってくるのを感じながら大きく首を振った。だってそんな恥ずかしいこと、できるはずない。無理に決まってる。
「{{kanaName}}ちゃん」
わずかにトーンの低い声で名前を呼ばれて、大きくて暖かい手に腕を掴まれた。声も仕草も優しいのに有無を言わさない力強さがあってびくりと身体が震える。反射的に腕を引いていた。けれど、ダイゴ先生は掴んだ手を離してくれない。ホウエンの綺麗な海を閉じ込めたような青い瞳がわたしの視線に絡みついて逃がしてくれない。
でも、やっぱり膝の上なんて座れない。隣に座るのだって恥ずかしいのに、それよりもっと体が触れるようなこと、絶対できない。それに、重たいって思われたらどうしよう。ダイゴ先生は優しいからきっと何も言わないと思うけど、言われなかったらいいって問題じゃない。
それなのに、絶対イヤなのに、もう一度「おいで」と言われたら抗えない。ダイゴさんの見つめる瞳からは逃げられない。本当は座りたくないのに、それなのにダイゴ先生へ体を預けるように膝の上へ座っていた。背中に、太ももにわたしのとは違う熱を感じる。やっぱりダメ、座ってられない、離れなくちゃ。
けれどそんな願いはダイゴ先生の両腕に阻まれる。後ろからぎゅうっと強い力で抱きしめられた。心臓が今にも胸を突き破りそうな勢いでどくどくと大きな音を立てる。
「せっ、せん、せい……」
心臓は爆発寸前だった。全身が熱くて、胸が痛くて、呼吸もうまくできない。
「違うよ、{{kanaName}}ちゃん。もう授業は終わってる。ボクのことは何て呼ぶんだっけ?」
耳に息が当たる。くすぐったさと、それとは違うぞわぞわした感覚に、変な声が漏れる。やだ、こんな声、出したくないのに。ますます恥ずかしくなって、わたしだけ季節が真夏のように熱を帯びてゆく。
「だ、いご、さん」
先生と呼ぶのは授業の時だけ、それ以外は名前で呼んで。それはダイゴ先生、もといダイゴさんが付き合う時にお願いしてきた約束事のひとつ。でもつい呼び慣れた『先生』って呼んじゃって必ず一度はこんな風に言われちゃう。でも実は時々わざと間違えることもある。少し困った顔をして、ちょっと膨れるダイゴさんが何だか可愛くてついつい見たくなっちゃうから。もっとも今はそんな余裕全然ないからダイゴさんの顔なんてまったく見れないけど。
「うん、何かな」
耳元で声がする。気を緩めるとまた変な声が出ちゃいそうで、おへそに力を込めてこらえる。よかった、今度は何とか我慢できた。そう安堵したのも束の間、楽しげな笑い声が耳に降ってきた。くすぐったくてぞわぞわして、声が出そうになって、少しでも逃げたくて背中を丸める。なのに逃げた分だけダイゴさんが追いかけてくる。背中はぴったりダイゴさんの胸にくっついたまま、離れない。
「ふふ、心臓の音、すごく速くなってる」
どうかバレないでと祈っていたけど、こんなにも密着してたら隠せるはずがなくて。でもわたしだけがこんなにもドキドキして、苦しくなって、そんなわたしを見てダイゴさんが楽しそうなのが何だかイヤで、なってない、と大きく首を振った。
ダイゴさんはまた笑って「可愛いね」と小さな子をあやすように頭を、それから頬を撫でた。撫でられる心地良さと、耳から伝う痺れるような甘い感覚に、氷が溶けるように体から力が抜けてゆく。ぎゅっと強く閉じていたはずの口にも小指が入るほどの隙間ができて、ドラマや映画の美人女優が艶めかしく漏らすのと同じ種類の声が零れた。
あっ、と慌てて口を塞いでも、名前を呼ばれたら返事をするように声が出て止められない。そんなわたしをダイゴさんがまたくすくすと笑う。いつもなら優しい声に安心するのに、今は甘い毒、わたしをじわじわ狂わせる。
「今日はよく頑張ってたからご褒美にと思ったんだけど、嫌だったかい?」
わたしの返事は決まってるのに、それを分かっているのに聞いてくるダイゴさんはずるい。意地を張って嫌だと言ってもきっと「本当に?」って聞き返すだろうし、素直に嫌じゃないって返しても「嬉しくはないんだ?」って追い詰めてくるに決まってる。ダイゴさんはいつもずるくていじわるで、けれどそんなところも全部好きでたまらない。
「返事をしない悪い子にはおしおきが必要かな」
小さなため息と共に不穏な言葉が聞こえてきたと思ったら、ダイゴさんが腕にぎゅっと力を込めた。早く何か答えなくちゃ、そう思ってもぴったりの言葉が思い浮かばない。どくどくと鳴る心臓に焦ってしまって、落ち着いて考える余裕なんてどこにもない。砂が手の平から零れ落ちるように言葉が逃げてゆく。漏れるのは言葉になりそこねた音ばかり、出したくない声しか出てこない。
「なんてね。ちょっといじわるしすぎちゃったかな」
ごめんねの言葉と共に後ろから回されていた腕が緩められる。今まで離れたくてたまらなかったのに、突然あっさりと解放されると戸惑ってしまって。どうしよう、と動けずにいたらダイゴさんの両手が腰に添えられ、わたしを立ち上がらせた。振り返るとダイゴさんが気恥しそうに顔を掻いていた。
「ああ、もうこんな時間だ。そろそろ帰らないと」
ダイゴさんでも恥ずかしくなるんだ。逸らされた視線に妙な感心を覚えながらわたしも時計を見る。時刻はとっくに八時半を過ぎていた。スクールだと全然時間が進まなくて眠たくなることもよくあるのに、ダイゴさんといる時はいつもあっという間に二時間近く経っている。時間が速くなるのはスクールの授業だけでいいのに。楽しい時間ばかり早く過ぎていってすぐに終わっちゃう。
「明日の小テスト、頑張るんだよ」
いつの間にかアスコットタイを締め直してジャケットまで羽織ったダイゴさんにくしゃくしゃと頭を撫でられた。ダイゴさんにしては何だか乱暴な手つきにびっくりしていたら、サイコソーダのような透き通った瞳にじっと見つめられた。
そこにいたのはダイゴ『先生』だった。
「返事は?」
「はぁい」
わたしも可愛い生徒に戻って返事をする。本当はまだいてほしいけど、そういう我がままが言えるほど素直にも可愛くもなれなくて、別れの時間はいつもちょっぴり無口になっちゃう。
そんなわたしをダイゴ先生が優しく抱きしめて、頭を撫でて、「また来週来るから泣かないで」と言ってそっと体を離す。泣いてなんかないのに、そんなこと言われたら視界がぼやけてきちゃう。ダイゴ先生のいじわる。ばか。
深呼吸して涙を引っこめ、玄関まで見送りに出る。ピカピカに磨かれたエアームドの嘴をドキドキしながら撫で、その背中に跨るダイゴ先生にさよならの挨拶をした。
――けれど。
夜風でも冷ましきれない体の熱を抱えて息を吐く。
約束なんて破っちゃって、スクールでは教えてくれないことを教えてくれてもいいのに。わたしはまだ子どもだけど、何も知らない無垢な少女はもうとっくに卒業してて、からかうダイゴ先生か一歩踏み出すその時を待ってるっていうのに。
夜空に消えゆく銀色を見送るわたしの唇はつんと尖っていた。
2.そんなの知らない
そのプリントにダイゴ先生が気がついたのは、最後の問題にうんうんと唸っていた時だった。テキストに挟まれたそれを引っ張り出して静かに目を通してる。そろそろテストも近いからテスト範囲でも書いてると思ったみたい。でもそれはテストとは無関係のプリントで、たまたまテキストに挟みっぱなしになっていただけだった。
「へえ、面白そうだね」
ちっとも興味がなくてちゃんと目を通していなかったけど、たしか特別講演会のプリントだった気がする。講演会のおかげで授業が午前中で終わるのは嬉しい。でも宇宙センターはトクサネシティで、家のあるカナズミシティからは遠くて結局まっすぐ帰ってもいつもと同じ時間、もしかしたら遅い可能性だってある。どうして校外学習って名前の付くものは揃いも揃ってちょっと面倒なんだろう。たまには『カイナシティでコンテスト鑑賞!』みたいな楽しいものにしてくれたっていいのに。
「ねぇ{{kanaName}}ちゃん、ボクの家がどこだか覚えてるかい」
急に何だろう。ダイゴ先生が問題を解いてるわたしに声をかけることはあまりないから手を止めて首を傾げる。と言っても先生がプリントを見つけた辺りで考えるのをやめちゃっててとっくに手は止まっていたんだけど。
ダイゴ先生の家の場所は、前に聞いた覚えがある。デボン本社のあるカナズミに住んでると思っていたら今は別の街でひとりで住んでるって、そう言っていた。そんな遠い所からわざわざ来てもらってるなんて、と謝ったら「エアームドは毎週楽しく飛んでるから、きみが謝ることは何もないよ」と笑って返してくれて。その時どこに住んでるって言ってたっけ。えっと、たしか。
「トクサネ……」
記憶をたぐり寄せて引っぱり出した街の名前にはっとする。もしかして、もしかしたら。
「ふふ、よく覚えててくれたね」
ダイゴ先生のキラキラした瞳はサイコソーダのように透明で爽やかで、その視線はパチパチと弾ける泡のようにわたしに心地良い刺激を与える。そのせいで最近はサイコソーダを見るとダイゴ先生を思い出しちゃうから、ちょっぴりサイコソーダが苦手になっている。
そんな透き通った青の目が柔らかく微笑む。わたしは逸る心をおさえて次の言葉を待った。
「じゃあ来週はこの日にボクの家で勉強しようか」
「えっ? あっ、べん、きょう……」
返す言葉は『はい』しかないと思っていたから、予想外の言葉にうまく返事ができなくて、つい不満そうな声が出ちゃっていた。だって勉強なんて、望んだ言葉の真逆だったんだもん。会おうとか、遊ぼうとか、デートとか、そんな甘い言葉だと思ってた。いつもいじわるしてくるくせに、心の準備ができてる時に限ってダイゴ先生は真面目なんだから。そんな先生に不満のひとつもなく頷けるほど、わたしは素直で良い子じゃない。
「そんな顔しないで。{{kanaName}}ちゃんが満足するおもてなしをしてみせるから」
不満なのは提案が勉強だったからなんだけど、わざとなのかそうじゃないのか、ダイゴ先生はひどく的外れな事を言う。それがあまりにも綺麗な笑顔で爽やかすぎるから、ひとり不貞腐れてるのが何だか馬鹿みたいじゃない。それに理由はともかく、ダイゴ先生の家にお呼ばれされたという事実には変わりなくて、わたしがデートだと思えば中身が勉強でもデートになるはず、きっと。
「おもてなし、って何ですか?」
不満を呑みこみ期待を込めて訊ねてみる。きっと子どものわたしじゃ思いつかない素敵なおもてなしが待ってるに違いない。勉強っていうのもただの建前に決まってる。だから本当はもっと恋人らしい何かが待ってるんだ。そんな風にドキドキしていると、キラリと輝いた瞳がわたしを射抜いて「そうだな、」顎に手を掛け唇に弧を描いた。
「{{kanaName}}ちゃんの好きなお菓子を用意して、お気に入りの石も特別に見せようかな」
わざとらしい真面目ぶった顔に、またからかわれたんだと気がついた。思わずムッと唇を尖らせたら「ごめんごめん、来週までにちゃんと考えておくから」と宥めるように頭を撫でられた。触れられるのは嬉しいけど、子ども扱いされるのはあんまり嬉しくない。だってわたしはただの生徒じゃなくてダイゴ先生の恋人なんだから。
「おっと、最後の問題がまだ終わってなかったね。早く解いてしまおう」
ダイゴ先生の視線が解きかけの数式を捉える。このまま来週の話をして忘れてくれないかなとちょっぴり期待してたけど、そう上手くはいかなかった。もう一度問題文を読んで、途中まで書いた数式を見返す。集中していた時でさえ降参気味だったのに、こんなフワフワした状態で解けるわけがない。もう時間だって八時を過ぎているし、この問題は宿題にして授業はおしまいにならないかな。そんな願望を込めてダイゴ先生の方を見た。見て、しまった。
「……ほら、ちゃんと解くんだよ」
講演会のプリントをじっと眺めていた先生がわたしの視線に気がついて、全然進んでいない解答に顔をしかめた。わたしは上擦ってしまいそうになる声をどうにか落ち着かせて「はぁい」と返事をしながら続きの書けないノートに視線を戻す。解けないだとか、もうこんな時間だとか、言おうとしていた言葉は全部どこかへ行ってしまっていた。
だって、見ちゃったから。いつも余裕を見せつけ事ある毎にわたしをからかっては笑ってるあのダイゴ先生が、そんなダイゴ先生に振り回されてヘトヘトになるわたしをいじわるな瞳で見つめるダイゴ先生が、余裕のない顔をして色素の薄い白い肌をじわりと紅く染めていたのを。視線に気づいて上げた顔にさらけ出されたむき出しの感情を。そしてそれを隠すように顔をしかめてごまかした姿を。
もしかして、とんでもない約束をしちゃったのかもしれない。勉強の二文字に隠しきれないデートの影に気がついた心臓が、期待や不安が絡まって形の分からなくなった感情を抱えて、胸を突き破らんばかりの勢いで鼓動を刻んだ。
* * *
月曜日の夜、冴えてしまった目を無理やり閉じる。明日は午後から校外学習で宇宙センターに講演会を聴きに行く日で、その後ダイゴ先生の家で授業がある。だから寝不足の疲れた顔なんてしてられない、早く寝なきゃ。でも、寝ようとすればするほど眠れない。だってダイゴ先生の家に行くだなんて、家で二人だなんて、緊張で寝れるはずがない。そもそもダイゴ先生の恋人になってまだあまり日が経ってないとはいえ、二人きりで会うこと自体片手で足りるほどしか経験がなくて。しかもそのほとんどがスクールの課題を口実にしてたから、結局いつもの授業と変わらずわたしの部屋で勉強するばかりだった。でも明日は違う。明日だって建前は勉強だけど、場所はダイゴ先生の家、眠れるはずがなかった。
それでも寝なくちゃならない。目は閉じたままサイドテーブルへ手を伸ばしてポケナビを探す。絶対に眠れるとかいう音楽でも流して無理やりにでも寝なくちゃ。
と、ポケナビとは違う硬いものに指が当たった。何だっけ、掴んで確認する。これは、かいがらのすずだ。
「う、わっ」
慌てて開いた手を閉じる。明らかに形が違うのにどうして取っちゃったんだろう。後悔しても時間は戻らない。真っ白な貝殻は目に焼き付いて消えてくれないし、かすかに漂う潮の香りがあの夏の日を思い出させる。よりによって今思い出しちゃうなんて。わたしは火照る体に甘くとろけてしまう記憶がよみがえるのをどうにもできなかった。
3.知らなかった
夏休み、去年までのわたしなら喜んで遊びの予定を入れて存分に夏を満喫するのだけど、今年はじわじわ埋まってゆくスケジュールに危機感を覚えていた。
――どうしよう、ダイゴ先生に会えない。
ダイゴ先生の授業はスクールの復習だから、夏休み中は必要なくなる。夏休み中も講習会はあるけど懇切丁寧な解説のおかげで質問がない。じゃあ夏休みの課題の質問を、と思っていたのに「夏休みの最後にまとめて質問するといいよ」と提案されてしまった。そのせいで一ヶ月以上、ダイゴ先生に会えない。
身の程知らずなのは分かっているけどわたしはダイゴ先生を好きになっていて、毎週の授業がとても楽しみで、だから授業がなくなる夏休みは全然楽しくない。会いたい、会いたいの。でも、会う理由がない。どうしよう。
そうだ、ダイゴ先生は元々お父さんの趣味仲間だ。前みたいに家に呼んでもらおう。授業みたいにお喋りはできなくても、少しでも会えるなら。よし、後でお父さんに頼んでみよう。
でも、すぐに気がつく、理由を尋ねられても上手に言い訳できないことに。それに、もしわたしの気持ちがお父さんにバレてしまったら、普段の授業すらダメと言われるかもしれない。それはどうしても、絶対に、ダメ。
ああもう、どうしよう。講習会からの帰り道、疲れ果てた頭で考える。でも勉強以外の繋がりがないから何も思いつかない。会える理由がひとつもない。見つけられない。
とぼとぼ歩いていると大きな公園辺りまで帰ってきた。ここを通り抜けるともう家だ。
中に入ると今日もまた少年がラクライと楽しそうにボール遊びをしている。仲睦まじい様子がちょっと羨ましい。
そういえば。少年達の姿を見て思い出す。ヒワマキの従妹はバネブーと仲良くなったかな、春休みに会った時は全然懐いてなくてずっと不機嫌そうだったけど。なんてぼんやりしていたら、少年の投げたボールがこちらへ飛んできた。拾い上げて少年に投げ返す。ボールを追いかけて来たラクライが右往左往して、迷った挙句、首に付いた鈴をリンリンと鳴らして少年の元へと駆けてゆく。
――あっ、そうだ、鈴だ!
小さな従妹とバネブー、それから鈴。勉強のことじゃないけど、これならきっと不自然に思われない、はず。
カバンからポケナビを取り出す。最近買い換えたばかりの最新型のそれはダイゴ先生と色違いで、「その色似合ってるね」と褒めてくれたのが嬉しくて、見るたびに思い出しては頬が緩んでる。
震える指で画面をタップして、冷静になる前にメッセージを作る。変な文になってないか確認して、勢いのまま送信ボタンを押した。押してしまった。
やっちゃった。達成感は一瞬で消え去って、津波のように押し寄せる後悔に心臓がばくばくと音を立てる。呼吸も全力疾走した直後のように苦しい。どうしよう、返事が来ても来なくても、焦る未来しか見えない。
……うん、とりあえず早く帰ろう。やってしまった事は取り返せないし、ここで立ってても返信が来るわけでもない。講習会の課題だってやらなくちゃいけない。
その時、聞きなれない電子音が辺りに鳴り響いた。反射的にポケナビを見ると画面が明るく光っている。浮かび上がる名前は、今一番見たくて、けれど一番見たくない、ダイゴ先生だった。
鳴り続けるポケナビは、わたしが電話に出るかダイゴ先生が切るまで鳴り止まない。早く出なきゃ、そう思うのに手が動かない。緊張のせいだ。そう気づいても何もできない。でも、絶対に出なくちゃ。早く、早く、通話ボタンを押さなくちゃ。絶対に、必ず、切れる前に、早く。
「はっ、はいっ」
緊張のせいで声が裏返る。恥ずかしい、やり直したい。初めての電話なのに。こんなはずじゃなかったのに。
『やあ{{kanaName}}ちゃん。電話の方が早いと思って掛けたんだけど、大丈夫だったかな』
毎週すぐ隣に座って聞いているはずなのに、ポケナビから聞こえるダイゴ先生の声は新鮮で変な感じで鼓動がうるさくなる。こくこくと大きく頷いて、でも声に出さなきゃ伝わらないんだと慌てて「だっ大丈夫です」と返事をした。恥ずかしい、穴があったら今すぐ入って埋まりたい。
『それで、どうして浅瀬の洞穴に行きたいのかな』
数分前に送ったメッセージには挨拶もそこそこに浅瀬の洞穴に連れて行ってほしいというお願いだけを書いた。怪しすぎるメッセージにポケナビから聞こえるダイゴ先生の声も何だか不審がっていて、どうしてあんなメッセージで大丈夫と思ったのか、数分前の勢い任せな自分が嫌になる。
「あの、こんなの迷惑ですよね、だから――」
『{{kanaName}}ちゃん、きみはいつもボクの迷惑を勝手に考えすぎだよ。それを決めるのはきみじゃなくてボクだろう?』
呆れたような、怒ったような声に言葉が詰まる。
『ボクは{{kanaName}}ちゃんの頼み事を一度だって迷惑だと思った事はないよ。勿論、今もね』
耳に届いた言葉に体が熱くなる。鏡を見なくても顔が真っ赤になってるのが分かる。これが電話で本当によかった。こんなこと、もし面と向かって言われたら絶対に勘違いしちゃう。ダイゴ先生の優しい言葉は、特別な気持ちがあるからだと思い上がっちゃう。
『スクールの課題かな』
「えっと、」
深呼吸して息を整える。浮かれてる場合じゃない、ちゃんと説明しなくちゃ。緊張で心臓が飛び出しそうだけど、息と一緒に胸の奥へと飲み込んだ。そして口を開く。
「いとこに、かいがらのすずを作ってあげたくて……、あの子、バネブーが全然懐かないって、だから、その……」
ラクライの着けた鈴で思い出したのが、持たせるとポケモンが懐きやすくなるというかいがらのすず。わたしはトレーナーじゃないからあまり詳しくないけど、それが浅瀬の洞穴で見つかる材料で作れることはスクールの授業で聞いた覚えがあった。
これだと思った。これなら不自然にならずにダイゴ先生と家以外の場所で、勉強以外の理由で会えると思った。他には思い付きそうにないし、そもそも何度も誘える勇気なんてない。だから、これが最初で最後のチャンスだった。
『かいがらの……。それで浅瀬の洞穴へ行きたいんだね』
何か考え込むような声に不安が大きくなる。迷惑じゃなくても断られる可能性は充分にあるし、もしかしたら他の人を紹介されるかもしれない。電話だと顔が見えなくて、沈黙がいつもより怖くなる。ダイゴ先生は何を考えているんだろう。
『分かった、連れて行ってあげるよ』
「えっ、あっ、ありがとう、ございます!」
ダイゴ先生に会える。ダイゴ先生がわたしのお願いを聞いてくれる。その事実が嬉しくて信じられなくて返事をする声が上擦って変になってしまって。恥ずかしいのと嬉しいのでいっぱいになった胸がきゅうっと締めつけられた。心を落ち着かせて、にやける頬をおさえてもう一度お礼を言う。これが電話で良かった、と熱くなった息を吐いた。
『事情が事情だし、なるべく早い方がいいね』
そうだ、日程を決めなくちゃ。色よい返事に舞い上がっていたけど決めることは沢山ある。急いで手帳を引っ張り出したらぽつり、頭に雫が落ちた。あっ、と顔を上げると空は暗く、地面が雨に濡れている。
『{{kanaName}}ちゃん、今外にいるんだね。雨で風邪でも引いたら大変じゃないか。ボクの予定を送っておくから、家に帰ってから返事をするんだよ、分かったね』
少し咎めるような声色は有無を言わせない雰囲気を纏っていて、このくらいの雨なら平気なのに許してもらえそうになかった。もう少しだけ、予定を決めるまでは電話していたい。まだ切りたくない。せっかくダイゴ先生の声を聞けているのに。けれどそんな我がままが言えるはずもなくて、ちょっぴり泣きそうになった声で「はぁい」と返事をして電話を切った。
早く帰らなきゃ。手帳とポケナビをカバンへ押し込むと、びしょ濡れになる前に家へと急いだ。
* * *
「ダイゴ先生!」
あの夕立ちから数日後、わたしは燦々と降り注ぐ日差しの下でダイゴ先生に声をかけた。約束の十分前なのにダイゴ先生はもう着いていて、わたしの声に手を振ってにこりと笑う。夏の暑さも吹き飛ばしてしまう爽やかな笑顔に、ぶわりと熱が上がってじわりと汗が滲む。涼やかなダイゴ先生の笑顔が、わたしをどんどん火照らせる。
「やあ。{{kanaName}}ちゃんに会えるのが楽しみで、つい早く来ちゃったよ」
嘘か本当か分からない言葉にますます体が熱くなってゆく。なんて返したらいいんだろう。嬉しくて、恥ずかしくて、戸惑って、言葉が全然出てこない。そんなわたしをダイゴ先生はどう思ったのか、ぽんと頭を撫でて「ボクの本心なんだけどな」微笑んだ。
そんな事を言われたら誰だって勘違いしちゃう。ダイゴ先生もわたしのことを……なんて都合のいい妄想が膨らんでゆく。でもそれは勘違い。優しいダイゴ先生の甘い言葉には気をつけないと。ダイゴ先生はわたしを生徒としか見ていない。だから今日、生徒じゃないわたしを見てもらうんだ。そのための今日なんだから、舞い上がってちゃダメ。
「飛行ポケモンは連れて来ているね。じゃあ案内するよ」
わたしが連れて来たのはお母さんのオオスバメ。遠くへ行く時はいつもこの子を借りている。でもこのオオスバメはバトル経験がまったくないからボディーガードにはなってくれない。それをダイゴ先生へ伝えると「安心して、ボクが守ってあげる」とにこりと微笑まれた。優しくて心強くて、おとぎ話の白馬の王子様みたいだった。また体が熱くなる。わたしは赤くなる頬を太陽のせいにしてオオスバメの背中へ跨った。
エアームドに導かれてミナモシティを飛び立つ。長距離なんて滅多に飛ばないオオスバメのためにカナズミからミナモまで電車を使ったのは正解だったみたい。少し飛んだだけでもうバテてきている。頑張ってと応援するけど真夏の太陽は容赦なく照りつけ、わたしの体力もじわじわと奪ってゆく。
一方、前を飛ぶエアームドとダイゴ先生はしゃんとしてて、だんだん遠い存在になっていった。実際に引き離されていると気づいた時には小さな点になっていて、慌てたオオスバメが大声で鳴き喚き、わたしも大声でエアームドを呼んだ。ダイゴ先生の名前も叫ぼうとして、けれどできなかった。変に意識しちゃって、名前を呼べなかった。
そんなわたし達の必死の叫びは何とかエアームドに届き、エアームドが横に並んで、「これなら安心だね」とダイゴ先生が笑った。眩しい笑顔に、頷くのが精一杯だった。
しばらくして、視線だけを動かしてダイゴ先生を見る。風が銀の髪を後ろへ流して、いつもと少し雰囲気の違う、凛々しい横顔が見えた。見るんじゃなかった、視線に気づかれる前に視線を戻す。ドキドキして胸が痛い。どんどん上がる体温に頭がくらくらする。早く落ち着かなきゃ、これじゃあ振り回されてばかりでいつもと一緒だ。今日はもっと冷静に、好きを伝える予定なんだから。数学の公式を無理やり思い出して気持ちを落ち着かせる。そんなことに必死になっていたら「{{kanaName}}ちゃん」ごうごうと耳元で鳴る風の音の中にダイゴ先生の呼ぶ声がした。
「ほらあそこ、見てごらん」
目を合わせたらまた心臓がうるさくなりそうで、急いでダイゴ先生が指す方へ視線を向ける。海面に青い球体が並んでいた。何だろう、よく見ようと目を凝らしたら、それらが一斉に海水を吹き出した。
「う、わぁっ」
驚いた拍子に間の抜けた声が出る。恥ずかしくて口をおさえたら風の向こうに聞きなれた笑い声が聞こえて。ダイゴ先生へ視線を向ける。キラキラと光を反射させる銀の髪と、空をはめ込んだような青い目がわたしの瞳に映る。
「ホエルコはああやって人を脅かすのが好きなんだ」
ダイゴ先生がくすくすと笑う。先生はよくからかってくるけど、こんな風におどかされたのは初めてで、驚きと恥ずかしさと悔しさで顔が赤くなる。分かっていたらもっと可愛く驚いたのに。もう、最悪。
「そんなに素直に驚いてくれるなんて、{{kanaName}}ちゃんは本当に可愛いね」
「せ、先生!」
顔が熱い。燃えてるのかと思うほど熱くてたまらない。今のはお世辞、絶対に本気にしちゃダメ、ダイゴ先生は大人だからリップサービスだって上手なだけ。でも、それでも可愛いなんて言われたら嬉しくて、浮かれる心を必死に隠して声を上げた。
「ごめんごめん。ほら、見えてきたよ」
今度は少しだけ注意してその方向を見る。ホエルコはいない。代わりに見えたのは白い砂浜と、山と呼ぶには小さくて木々の緑も見当たらない、岩の塊。よく見ると塊には穴が空いている。きっとあれが浅瀬の洞穴だ。
まっすぐに飛んでいたエアームドが降下を始め、オオスバメもそれに倣う。オオスバメは限界だったみたいで、どうにか砂浜に足を着けるといそいそと自分からボールへと入ってしまった。そんな状態で帰りは大丈夫かな、心配していると、
「帰りには元気になっているよ。それにもし難しそうでもボクが責任を持って家まで送るよ」
ダイゴ先生がゆるりと口角を上げる。そんなの絶対心臓がもたない。わたしは「大丈夫です」と早口で答えて、ひとり先に洞穴へ入った。
* * *
「滑りやすいから足元には気を付けて」
外の茹だるような暑さが嘘のように洞穴の中はひんやりとしていた。ダイゴ先生はスーツなのに暑くないのかなと気になっていたけど杞憂だったみたい。むしろ海遊びに出かけるような格好のわたしの方が「寒くないかい」と声を掛けられて。少し肌寒さはあったけど問題ないと元気を見せつけるように拳を作った。
「大丈夫で……ぅわっ!」
濡れた岩場は滑りやすく、こういう場所に不慣れなわたしはつるりと足を滑らせてしまった。どうにか転びはしなかったけど、気を抜いたらすぐまた転んでしまいそうだ。ダイゴ先生の焦った顔に気まずさと恥ずかしさを感じながらもう一度「大丈夫です」と伝える。
「もしまた転びそうになったら、怪我しないようにしっかり手を繋がなきゃいけないね」
やれやれと呆れた顔がわたしにため息をつく。でも口角はくっと上がっていて本気じゃないとすぐに分かった。本当に手を繋ぎでもしたら心臓が爆発しちゃう。だからじゃないけど、足元にはちゃんと注意しなくちゃ。
「ほら、危ない」
言うなり、伸びてきた手が腰を掴んで引き寄せられた。突然ゼロになる距離に頭が真っ白になって訳が分からなくなる。もう片方の手も頭を包むように添えられ、それが偶然じゃなくダイゴ先生の明確な意思だと気がついてしまう。肌に触れるスーツの生地はひやりと冷たくて、けれど手の平は暖かくて心地良い。肌寒さはどこかへ消え、心臓はどくどくと騒がしくなる。その心音が、触れた胸からダイゴ先生へと伝わってゆく。隠したいのに、意識すればするほど鼓動は加速して、緊張がすべて筒抜けになる。
その時、頭上で何か大きなものが羽ばたく音がして風が巻き起こった。風と共に降ってきた不気味な声に身体がびくりと揺れる。
「ボクから離れないで」
鋭い声に顔を上げると、強い光を宿した眼差しがゆるりと微笑む。いつも見る笑顔とはどこか何かが違っていた。
「大丈夫、ボクが{{kanaName}}ちゃんを守るから」
刹那、わたし達を標的にしたゴルバットが金切り声を上げてこちらへ飛んできた。鋭い牙がギラリと光り、大きな口がめいっぱい開かれる。
でも、ゴルバットがわたし達に噛み付くことはなかった。エアームドが鈍く光る翼であっという間に追い払っていた。
わたしはトレーナーじゃないからゴルバットの強さもエアームドの強さもよく分からない。でも、丁寧に磨かれた鋼の身体から溢れる自信が実力に裏打ちされたことは感じ取れたし、さっきダイゴ先生が浮かべた笑みの違和感も、初めて見るダイゴ先生のトレーナーの顔だったからと気づいた。
「ありがとう、ございます。ダイゴ先生って、やっぱりすごく強いんですね」
改めてとんでもない人なんだと実感する。そしてそんな人に毎週授業をしてもらってる自分の幸運も。そんな思いからぽろりと零れた言葉に、ダイゴ先生はふっと息を吐いて「怪我はしてないね」と腕を離してくしゃりと頭を撫でた。ようやく解放された体にほっと息を吐く。頭を撫でられるだけでもドキドキして苦しいのに、もしまたあんな風に捕まえられたら、心臓が壊れちゃう。
ダイゴ先生って他の人にもこんなことするのかな。ふと不安になる。それはイヤ、わたし以外の女の人には優しくしないでほしい。でも、そんなこと言えない。わたしができることは自分の気持ちを伝えて、ダイゴ先生がわたしを好きになってくれるよう願うことだけ。
「ねえ{{kanaName}}ちゃん、」
「何、ですか」
名前を呼ばれ、見えないライバルに向いていた意識がダイゴ先生に戻る。返事をしたらダイゴ先生はなぜか眉根を寄せてわたしをじっと見つめていて。何だろう、悩むわたしはいつの間にかダイゴ先生のように眉をひそめていた。
「今日は別に……。エアームドもきみの事は気に入っててね、後でボクの代わりに指示してみるかい?」
何か言いたげな瞳はしかし、小さく吐き出されたため息と共に冷たさを感じる空気に溶けていき、刻まれた眉間のしわの理由も洞穴の奥へと吸い込まれていった。
* * *
かいがらのすずの材料は『あさせのしお』と『あさせのかいがら』の二つで、元々の見つかりやすさとダイゴ先生の案内のお陰で順調に集まっていた。こんなに早く集まるなんて想定外だ。何か行動を、生徒ではなくわたしというひとりの人間として見てもらえる何かをしなくちゃ。
でも、思い浮かぶ行動はどれもあざとくて実際に行動には移せそうにない。できるはずがない。だってそんな勇気と度胸があるなら、今ここで悩んでるはずがないもの。
「これくらいあれば充分かな」
ダイゴ先生が『あさせのしお』を拾い上げて呟く。どうしよう、もう終わっちゃう。渡された『しお』を容器へ詰めながら必死に頭を働かせる。帰りたくない、まだ一緒にいたい。でもどうしよう。どうしたらいいんだろう。
たっぷりの『しお』が入った容器をカバンへ仕舞いながら一か八かでこけた振りをして抱きついちゃおうかと焦っていたら、肝心のダイゴ先生の姿見当たらない。慌てて周りを見渡すと、少し離れた所でしゃがみ込んだ背中を見つけた。
「先生、何してるんですか」
「あぁ……、ここ見てごらん」
視線を地面へ向けると、灰色の岩の中に水色の水晶のようなものが埋まっていた。きれい、と零すわたしに「これはみずのいしだよ」とダイゴ先生が教えてくれた。
「取らないんですか」
そう、ダイゴ先生の趣味はお父さんと同じ石集め。もしこの石を掘り出して家に飾ってくれるなら、石を見る度に今日のわたしも思い出してくれるかもしれない。そうしたら、わたしのことも意識してもらえるかもしれない。
けれどダイゴ先生はすぐには返事をしてくれなくて、じっと次の言葉を待っていたら、
「残念だけどまだ進化エネルギーが充分に溜まってないみたいだ。今日はやめておくよ」
そう言った。飾るかはともかく、石は持って帰るとばかり思っていたからその返事が信じられなくて、すぐには言葉が出てこなかった。どうしよう、これじゃあ本当にただ材料を集めただけで終わっちゃう。何か、ドカンと、大きなことを、早く、早く、早く!
「どんなに欲しくても、その時が来るまで待つことも大切なんだ。今はまだ我慢の時、手を出しちゃいけない」
「せん、せい……?」
それは独り言だったのかもしれない。みずのいしに視線を落としたままのダイゴ先生が小さく息を吐く。そしてわたしの方を向いて、影の落ちていた顔に笑顔を浮かべた。
「これが欲しいのかい? だったらまた今度、この石がもっと輝いたら取りに来よう」
こんなのただの口約束で、きっとすぐに忘れられてしまう。でも、もし覚えていてくれるなら。どくどくと忙しくなる心臓を必死に隠して何度も頷いた。
「じゃあ{{kanaName}}ちゃん、そろそろ出ようか。早くしないと潮も満ちてくるからね」
立ち上がったダイゴ先生にひとつ頷きを返す。明るくなった心はあっという間に薄暗くなる。状況は何も変わってなかった。ここを出たらもう帰るだけ、せっかく勇気を出したのに何もできていない。やったことはいつものような会話ばかり、わたしの好きの気持ちはひとつも伝えられてない。何か言わなくちゃ、やらなくちゃ、何か、何かを。
この時のわたしはひどく焦っていた。だから道中何度も注意されたこと、つまり足元に気をつけることを完全に忘れていた。足元には湿気で濡れる苔。案の定、ずるりと足が滑る。こけちゃう、視界が大きく揺れて、
「だから言ったじゃないか、足元には気を付けて、って」
体はダイゴ先生の胸にすっぽり収まっていた。ばくばくと心臓が大きく跳ねて声が出てこない。転ばなかった安堵は瞬く間にどこかへ走り去って、恥ずかしさが全身を包み込む。反射的にダイゴ先生を突き放してその胸から逃げた、はずだった。
動けない。いつの間にか腰に回されていた腕がわたしを離してくれない。
「ダ、イゴせん、せぃ」
心臓が痛くなるほど激しく鼓動している。肌寒いはずの洞穴なのに、汗が滲みそうなほど体が火照っている。
「{{kanaName}}ちゃんにとって、ボクは先生でしかないのかな」
耳に息が掛かる。ダイゴ先生の声が耳元で聞こえて、むず痒いような痺れるような感覚にぞわぞわと背筋が震えて足の力が抜けてゆく。離れたいはずなのに、わたしはダイゴ先生の腕に縋り付いていた。突然のことに頭が追いつかない。訳が分からずどうにかなってしまいそうだった。
「きみが、好きなんだ」
鼓膜を震わせた二文字の言葉に息が詰まる。呼吸の仕方を思い出せない。胸が痛い。耳が痛みを感じるほどの熱を帯びる。もしかして本当は転んで意識を失って夢でも見てるのかもしれない。だってこんなの、夢みたいで。
「本当はちゃんと卒業まで待つつもりだったんだけどね、こうやって転がりこまれたら離せないよ」
熱い息が耳朶に掛かり、悩ましい吐息が首筋に落ちる。体が熱くなって訳が分からなくなって、けれどその熱が、これは夢なんかじゃなくて現実だと知らしめる。でもまだ信じられない。ダイゴ先生がこんな嘘を吐くような人じゃないのは分かっているのに、もっと欲しくなる、わたしを好きだという証拠を。
「{{kanaName}}ちゃんの心臓も速くなってるね。だったらボクの気持ち、分かってくれるかな」
視線が絡んで、体に響くのはわたしとは別の心臓の音。わたしのと同じくらい速く、うるさく鳴っている。熱い日差しの中でもあまり色の変わらなかった白い頬も赤らんでいて、熱っぽい眼差しはわたしだけを見ている。
答えなきゃ。逸らせない視線をダイゴ先生に向けたまま口を開く。けれど、はくはくと浅い呼吸を繰り返すだけで言葉が出てこない。わたしは言葉の代わりに頭を動かす。緊張で固まった頭がぎこちなく縦に揺れた。
「良かった。ねぇ、{{kanaName}}ちゃん」
わたしよりも大きくて節ばった手が腰から離れ、頬を撫でる。頬はすでに真っ赤で熱いのに、触れた手はそれより熱い。その熱が移ってわたし達の境目が混じってゆく。
「ボクの恋人になってほしい。{{kanaName}}ちゃん、ボクと付き合ってください」
感情の昂りで目頭が熱くなって視界が揺らぐ。泣いちゃダメ、まだ泣かないで、返事をしなきゃ、わたしの声で、ちゃんと返事を。
無理やり大きく息を吸って、肺を空っぽにする勢いで息を吐き出した。もう一度、少し楽になった呼吸を繰り返して、口を開く。
「はい」
一番良い声をと思って出した声はひどく掠れていた。それでもダイゴ先生がくしゃりと顔を歪めて笑ってくれたから、ありがとうと強い力で抱きしめたから、そんな些細なことはどうでもよかった。頬が濡れるのを感じながら、わたしもくしゃくしゃの笑顔を浮かべた。
* * *
しばらく抱きしめられていたわたしは、じわわじわと広がってゆく照れにとうとう耐えきれず「せ、せんせ……」と絡みつく腕をぐいと押した。足にも力が入るようになっていて、支えはいらない。もう一人で立てる。
なのに先生は腕の力を緩めてくれない。それどころかもっと抱きしめられて、なぜか眉間にしわを寄せた。
「今は授業じゃないんだから『先生』は嫌だな」
たしかにそうかもしれない。そういえば、今日は先生と呼んだら少し困った顔をしていたような気がする。でも。
「名前で呼んでくれたら離してあげる」
恥ずかしい。妙な照れのせいですぐには声にできない。
「ダ、イゴ……さん」
「うん。良い子だね、{{kanaName}}ちゃん」
今まで聞いた事のない甘い響きで呼ばれた名前に頭がくらくらする。このまま捕まってたらおかしくなっちゃう。わたしはダイゴ先せ……ダイゴさんの力が緩んだ一瞬の隙をついて腕の中から逃げ出した。ダイゴさんが肩をすくめ、声を出さずに笑った。少し恥ずかしくて、少し悔しい。
「さあ、外へ出よう」
言って、ダイゴさんがわたしの手を取った。びっくりして思わず腕を引いてしまったけど手は離れない。嬉しくない訳じゃない。胸の中は幸福でいっぱいだ。けれど恥ずかしい気持ちの方が強くて、たまらず「何で」と訊ねたら、からかう時の顔をしたダイゴさんが笑って言う。
「忘れたのかい? 次また転ぶなら手を繋ぐ、って」
そういえばそんなこと言ってたけど、まさか本当に繋ぐなんて思ってもなくて。絡んだ指から伝わる温もりに、落ち着いてきたはずの心臓がまたどんどん加速する。
そうして分かったのは、手を繋ぐのも抱きしめられるのと同じくらい恥ずかしいということ。触れてる部分は手だけなのに、だからこそ意識がそこへ集まってどれだけ経っても慣れてくれない。このままじゃ倒れちゃう。自然と足が速くなる。
「急いだら危ないよ」
ダイゴさんがくすくす笑う。わたしと違って平気な顔で、どこか楽しんでいるようにも見える。もしかしてダイゴさんはいじわるなのかもしれない。ムッと唇が尖って、それを見たダイゴさんが笑みを深める。少し悔しくて、けれどそれを少し喜ぶ自分もいて、それがまた悔しかった。
* * *
洞穴の奥まで行くのに随分時間がかかったはずなのに、帰りはあっという間に入口に戻ってきた。空はまだ明るいけど時刻はもう夜で、そろそろ帰らなくちゃいけない。
繋いだ手に視線を向ける。恥ずかしかったはずなのに、いざ手を離せるようになったらまだ握っていたくなって、自然と握る手に力がこもった。
「ああそうだ、これをきみに」
突然わざとらしく声を上げたダイゴさん。ポケットをまさぐると、わたしの空いた方の手に何かを落とした。りん、と軽やかな音が響く。
「バネブーに持たせるといいよ」
手の平で澄んだ音を鳴らしたのは銀色の小さな鈴。資料集で見たことがあった。名前はそう、やすらぎのすず。たしかポケモンに持たせると、
「あっ」
心臓がばくばくと騒ぎ出す。やすらぎのすずはポケモンに持たせると心地良い音色のおかげで懐きやすくなるどうぐ。じゃあ、かいがらのすずは?
はっとしてダイゴさんを見る。嫌な予感がする。
「ボクに会う理由を一生懸命考えてくれた{{kanaName}}ちゃん、とっても可愛かったよ」
全部ぜんぶ、ダイゴさんは気づいていたんだ。わたしが会いたくなっていたのも、何かを口実に会おうとすることも、そしてわたしの大きな勘違いにも。
「もしまだ時間があるならすずを作るのも手伝うよ。細かい作業は慣れているし、それにボクの家はこの近――」
「も、もう帰らなくちゃ」
恥ずかしくてたまらない。何もかもお見通しだったなんて、今すぐ消えてしまいたい。繋いだままの手も指の先まで熱くなっている。慌てて手を振り払うとオオスバメをボールから出して、まだ疲れの残る彼の背中に飛び乗った。
「家まで送るよ」
「だいっじょうぶ、です」
オオスバメは飛びたくないと首を振ったけど無理やり羽ばたかせる。これ以上ここにいたら、ダイゴさんと一緒にいたら、心も体も丸裸にされちゃう。わたしが隠したいものすべて見られちゃう。こういう時の直感は大抵当たってる。今日はもう帰らなくちゃ、今すぐ逃げなくちゃ。
「{{kanaName}}ちゃん!」
オオスバメの羽ばたきに負けない大声がわたしの名前を呼んでいた。聞こえない振りをして飛んでと指示を出す。
「好きだよ! 今までも、これからも、ずっとずっと」
そんなの、ずるい。
空へと飛び出したオオスバメも深縹の翼を日没の色に塗られて赤く燃えていた。
4.まだ知らなくていい
どうして女の子はみんなで連れ立ってトイレに行くんだろう。自分の事を棚に上げて、外にまで聞こえる賑わいにため息を零す。早くみんな出ていけ、喋ってるだけなら洗面台を占拠しないで。騒ぎながらノロノロとメイクする級友にイライラが止まらない。どうせミナモやカナズミで遊ぶんだろうから、向こうに着いてからメイクすればいいのに。わたしはここで大事な用があるの、ここで綺麗にならなきゃいけないんだから、早く譲ってよ。
イライラしながらお土産売り場で時間を潰していたら、ようやくメイクを終えた彼女達が出て来た。すれ違いざまに少しだけ彼女達を睨み付けて別の邪魔が入らないうちに急いでトイレへ駆け込んだ。
一番奥の鏡の前に陣取るとカバンに入れたポーチを引っ張り出す。さっきの女子達の派手なメイクを思い出してわたしも……と一瞬悩んだけどすぐに却下してあぶらとり紙とリップを取り出す。今日はあくまで場所と時間が違うだけでいつもの授業、その後何をするとしても、建前は授業でデートじゃない。浮かれすぎてからかわれて恥ずかしい思いをするのはわたしなんだから、気をつけなくちゃ。
鏡に映る自分の顔はいつもより元気がない。結局昨日はあのままダイゴさんの告白を思い出しちゃって夜中までベッドで悶えてたんだもん、見事に睡眠不足だ。休み時間はひたすら机に突っ伏してみたけどそんなの焼け石に水で、体のだるさはちっとも取れない。あの日の記憶はすごく大切で絶対に忘れたくないけれど、思い出すタイミングは考えなくちゃいけない。あぶらとり紙を鼻の頭にあてながらため息がまたひとつ零れた。
使ったあぶらとり紙をくしゃりと丸め、次にリップを手に取る。数日前、クラスの女子が「これスゴいから!」と熱心にオススメしてきたリップ。何がどうスゴいのか、うるさい彼女に仕方なく聞いてあげたら「キスしたくなる唇作れちゃうよ!」と慣れた手つきでリップを塗ってみせた。淡いピンク色のリップを塗った唇はツヤツヤとして、何も塗っていない時と比べてとても目を引いた。流石にクラスメイト相手にキスしたいとは思わなかったけど。
鏡に映る唇をじっと見つめてリップを塗る。緊張で少し手が震えたけど、はみ出したりすることなく綺麗に塗れたと思う。あの子が実践してくれたように、あっという間にパッケージ写真のようなツヤツヤの唇が完成した。
これは思った以上に可愛い気がする。鏡の中の唇がご機嫌そうに半月を浮かべる。いつものように着替えたり汗を流したりできないからどうしようと焦っていたけど、このリップはかなり優秀かもしれない。色も主張しすぎなくて、仄かに香る甘い匂いもちょうど良い。普段の授業ではメイクをしてないからこそインパクトは大きいに違いない。そうだ、ダイゴ先生が喜んでくれたらお母さんにはバレないように気をつけて家でも塗っちゃおうかな。にまにまと口角を上げながら鏡の自分に尋ねる。鏡像のわたしが同意するように笑みを返した。
* * *
ルンルンと浮かれる心を弾ませて宇宙センターを出るとしかし、大きな問題に直面する。帰ったはずのスクールの友だちの姿がまだあちこちに残っている。トクサネは特別面白いものなんてないのにどうして。焦っていたら近くの女子が大きな声で嘆いてるのが聞こえてきた。
「なんで次の連絡船が一時間も後なの!」
そっか、そういうことか。一つ前のミナモシティとの連絡船に間に合った子やポケモンを持ってきていた子はトクサネから出て行ったけど、みんながみんなポケモンを持っている訳じゃない。わたしも今日はオオスバメを借りてないから帰りの船の時間には気をつけなくちゃ。
なんて意識が逸れてしまったけど、今考えることはそれじゃない。予定では、できるだけ最後に宇宙センターを出ればみんなとっくにトクサネを出ていて、わたしは人目を気にせずのんびりダイゴ先生の家へ向かえるはずだった。
でもこれじゃあ誰かに見られるかもしれない。わたしとダイゴ先生が付き合っていることは卒業までは秘密、誰にも言っちゃいけない。だからこんなに人が残っているのは大ピンチだ。困ったな、急いで建物の陰に隠れてマップアプリを開く。予定していた大通りにはスクール生がまだうじゃうじゃいる。遠回りになるけど人の少ない道を通るしかない。よく周りを確認して、絶対に友だちには見つからないよう気をつけてトクサネののどかな道を駆け抜けた。
* * *
ダイゴ先生の洗練されたイメージからかけ離れたこの場所は、空気がゆっくり流れている。わたしの住むカナズミと比べたら不便な事も多そうだけど、悪くない場所だと思った。でもここに住むなら飛行ポケモン以外になみのりができるポケモンも必要かな。今度お父さん達に自分のポケモンを捕まえていいか確認しなきゃ。そんな事をぼんやり考えて、恥ずかしい妄想を繰り広げていたことに気づいて顔が真っ赤になる。早く忘れよう、今から授業なんだから、くだらない事は考えちゃダメ。そういう事はもっと後で、卒業が近くなってからで……って、そうじゃない。どうしよう、浮かれちゃって変なことばかり考えちゃう。
そんな風に甘い未来を空想していたら、ダイゴ先生の家の前まで辿り着いていた。妄想なんかしてる場合じゃない。早く気持ちを切り替えなくちゃ。今日は勉強、デートじゃない、場所が違うだけでいつもの授業と変わらない。ダイゴ先生だって授業のためにわたしを呼んだんだから、ちゃんと勉強しなくちゃ。だからこの約束をした時のダイゴ先生の顔なんか思い出しちゃダメ、だってこれはデートじゃないんだから。
落ち着くための深呼吸を何度かして、覚悟を決めてチャイムへ手を伸ばす。でも、
「あっ、」
ダイゴ先生の言葉を思い出す。講演会が終わったら連絡してほしいって言われてたんだ。大体の時間は伝えているけどダイゴ先生にだって都合があるし、突然押し掛けたらわたしならびっくりしちゃう。もう家に着いちゃったけど、ちゃんと連絡しよう。
カバンからポケナビを引っ張り出す。緊張で手が震えたけど、これ以上連絡が遅くなって連絡もできない子だと思われたくない。緊張も不安もその他の感情もひとまず全部飲み込んで電話を掛けた。一、二、三。気を紛らわすためにコール音を数えていたら、ちょうど五つめが鳴り終わった時にダイゴ先生が電話に出た。
『やあ、ずいぶん遅かったね』
「あの、連絡するの忘れちゃってて、それで、もう家まで来てて……、ごっ、ごめんなさい」
一瞬の沈黙に不安が大きくなる。怒っているかもしれない、呆れているかもしれない。ぎゅっと胸が痛くなる。
『よかった。遅いから何かあったのかと心配してたんだ。今開けるからちょっと待ってて』
聞こえてきたのは明るい声で、怒っているようにも呆れているようにも聞こえなかった。ほっと安心する。
ポケナビをカバンへ戻して待っていると、玄関の鍵が開く音が響いた。背筋をピンと伸ばして開くのを待つ。
「ようこそ、{{kanaName}}ちゃ、」
ドアが開いて出迎えてくれたのは爽やかに微笑むダイゴ先生。けれど目が合った瞬間、その笑顔が強ばったような気がした。瞳もなんだかいつもより大きく見える。
「ダイゴ、せんせ……?」
固くなった微笑みの理由が分からなくて、名前を呼ぶ声がわずかに震える。やっぱり連絡が遅れたこと、怒っているのかな。戻ってきた不安に胸がぎゅっと痛くなる。
「あぁ、いや……。てっきり着替えてくると思っていたから。久々に制服姿を見てちょっと驚いたというか……、それだけだよ」
肩をすくめて笑うダイゴ先生に、あっと声を上げてしまった。言われてみれば制服姿を見せるのは久しぶりだ。最初の頃は見た目もあまり気にしないで制服のまま授業を受けていたけど、ダイゴ先生を好きになってからは汚れた制服を見られたくなくて私服しか着ていない。最後に制服姿を見せたのは半年近く前かもしれない。
「さあ、中へ入って」
そう言ってダイゴ先生はいつものように微笑んで、わたしはドキドキしながらダイゴ先生の家へ足を踏み入れた。
大企業の御曹司であるダイゴ先生の家は、場所もそうだったように全然御曹司らしくない、ごくごく普通の家だった。部屋には量販店にありそうな家具ばかり。石を飾っている棚は目を引くけれど、棚自体はとびきり豪華でもなくて、ちょっぴり残念に思ったのは絶対にダイゴ先生には秘密。でもあんまり豪奢でお金持ちの雰囲気に溢れていたら居心地が悪くて勉強もデートも気が気じゃなかったと思う。だから今のわたしにはこれくらいがちょうど良い。
部屋の真ん中の、唯一のテーブルに座るよう促され、わたしは椅子に浅く腰掛け大人しく待つ。改めて部屋を見渡すと、席の正面にベッドが見えて思わず「あっ」と声が漏れた。キッチンへ行っていたダイゴ先生が「どうしたのかな」たっぷり氷の入った麦茶のグラスを置いて、顔を覗き込んでくる。何でもないです、と必死に首を振って探るような瞳から急いで逃げた。ベッドを見つけて、そこで眠るダイゴ先生を思い浮かべて、それから少しいやらしいことを想像しちゃったなんて、絶対に言えない。もしバレちゃったらダイゴ先生にどれだけからかわれるか分からない。だから早くうるさい心臓を落ち着けなくちゃ。氷たっぷりの麦茶を一口飲んで頭を冷やす。
「ふふ、そうかい? じゃあ始めようか」
とても勉強に身が入る状況じゃなかったけど、それでもやるしかない。勉強に集中しなきゃ、大きく息を吸う。
けれど、肺を満たしたのはいつもより強く感じるダイゴ先生の匂いで、集中なんてちっともできなかった。
* * *
「今日はあまり調子が良くないね」
三度目の解き直しの丸つけをしてダイゴ先生が言った。やっと正解したその問題は、いつもなら有り得ないケアレスミスだらけだった。理由は明らか、ここがわたしの部屋じゃないから。いつもと違う椅子とテーブル、部屋の空気、顔を上げたら嫌でも視界に入るベッド、集中なんて無理。おまけに今日のダイゴ先生はアスコットタイもベストも脱いで真っ白なシャツだけ、目に毒すぎる。もし今抱きしめられちゃったら。考えるともう問題なんて解けなくて。涼しい顔のダイゴ先生の隣でわたしだけが真夏みたいに汗を滲ませてる。わたしは同じように汗をかいたグラスを掴むと、まだ氷の残る麦茶を喉へ流し込む。
「珍しい事もあるんだね。そうだな、時間もいいし、授業はここまでにしよう」
絶対理由を分かっているくせに、知らんぷりしてにっこり笑うダイゴ先生は今日も変わらずいじわるだ。その視線を無視してごくごくと麦茶を飲み干し、氷だけになったグラスをテーブルへ置く。今目を合わせたらきっと顔を近づけて「大丈夫?」なんて聞いてくるに決まってる。氷みたいに透き通った瞳に見つめられたら逃げられない。思う存分からかわれて、氷のように溶けるわたしを笑われちゃう。
「{{kanaName}}ちゃん」
顔を背けていても甘い声で名前を呼ばれたらつい顔を向けちゃう。柔らかく微笑んだ瞳と視線が絡んだ。心臓がどくんと跳ねる。吸い込まれてしまいそうな強い眼差しに瞳が囚われていると、今度はグラスを掴んだままの手が捕まった。グラスから引き剥がされた指は一本ずつ丁寧に撫でられ、冷えた指先にダイゴ先生の熱がじわりと移ってくる。熱い。麦茶を飲んだばかりなのに喉はもうカラカラで、少しでもそれを紛らわそうと無理やり唾を飲み込んだ。こくんと動く喉をダイゴ先生の視線が捉える。頬が熱くなった。
「今日は口紅塗ってるんだね?」
喉から唇へ、ゆるりと視線が上がる。ダイゴ先生は笑ってるはずなのに、目だけはそうじゃなくて。キスしたくなる唇、そんなフレーズが頭を駆け巡って、わたしの瞳もダイゴ先生の晴れた空を映した瞳から唇へ落ちてゆく。
「そのせいかな、いつもより」
心臓の音がうるさい。今にも胸を突き破ってしまいそうな勢いでどくどくと鳴っている。クラスのあの子は何て言ってたっけ。そうだ、このリップを塗ったら彼氏がいつもより激しかったって、たしか、そんな事を。もしかして、ダイゴ先生にもその効果が? まさか。でも、でも……。
その時、運悪く視界に寝心地の良さそうなベッドが映る。そのせいで子どもにはまだ早い、さっきのあの妄想が脳裏によみがえる。そんなの考えちゃダメなのに、全部ぜんぶダイゴ先生のせいだ。ダイゴ先生がやらしい目でわたしを見るから、だからわたし、無意識に期待しちゃって……あれ、期待?
「――いっ、いし、そう、石! 石を、見たいです」
頭はぐちゃぐちゃに絡まった糸みたいに訳が分からなくなっていて、たまたま目に入った棚を指さして叫ぶと、ダイゴ先生の手を振り払って棚へと走った。
わたしはまだ子どもだけど、あくまで立場がそうであるだけで、中身はもう大人と変わらないと思っていた。だから卒業するまで清い交際をするという約束が面白くなかった。友だちやクラスメイトが放課後に彼氏と何をしているか知らないわけじゃないし、わたしだって経験はなくても知識はそれなりに持ってる。だから、何かの間違いで約束が破られても大丈夫だと思っていた。キスくらい、簡単にできると思ってた。
けれど実際はこれだ。ほんの少し香った雰囲気にすら、どうしていいか分からなくなって逃げ出してる。
「わ、わぁ、色んな石がありますね」
空気を戻そうと無理やり話題に上げたのは棚にずらりと並ぶダイゴ先生のコレクション。でも、どれも似たような石で、違いがさっぱり分からない。わたしのわざとらしい声が気まずく響く。
「どれもすごく、えっと……あっ、」
感想をひねり出そうと躍起になっていたわたしは、突然腕を掴まれて大きな声を出してしまった。掴まれた部分が熱い。先生が隣に立ってると気づいた途端、鼓動がうるさくなって頭がダイゴ先生でいっぱいになる。
「スクールはメイク禁止のはずじゃなかったかな」
向けられた視線がまた唇を見つめるから、唇に熱が集まって、何もされてないのに恥ずかしくなる。
「悪い子だね」
ダイゴ先生が笑う。でも、見たことのない顔だった。先生でも優しい大人でもトレーナーでもない、わたしの知らない顔。怖いわけじゃないのに背筋が震えた。無意識に足が後ろへ逃げる。一歩、二歩。三歩目を数えようとした時、こつんと踵が何かに当たる。ベッドの足だった。妄想が妄想で終わらないかもしれない。心臓はもう限界だった。
「{{kanaName}}ちゃん、今日は特別にスクールでは教わらない事、ボクが教えてあげる」
体がぐらりと傾いた。ベッドへ押し倒されたと理解した時には視界いっぱいに天井が広がっていて、起き上がろうとしたわたしの肩は、ダイゴ先生の手でベッドへ縫い付けられた。びっくりして少し痛くて、吸った空気をすべて吐き出しちゃって、苦しくなって大きく息を吸った。
――あっ、ダメ。
肺に吸い込んだ空気はすべてダイゴ先生の匂いだった。普段付けている香水の爽やかな香りとは違う、ダイゴ先生自身の匂い。これはダメ、ともう一度息を吸うけど、やっぱりダイゴ先生に染まった空気だけだった。おぼれる。ダイゴ先生に、おぼれちゃう。
ギシッ、音がした。ダイゴ先生が目を細めて笑っている。先生がベッドに膝を付いてわたしに覆いかぶさっていた。いつものわたしなら恥ずかしくてバタバタするところだったけど、今のわたしにそんな元気はなくて。ダイゴ先生の匂いにおぼれたわたしは、うっすら色づく先生の頬に体の奥がきゅうきゅうして、視線を逸らすこともできない。
「{{kanaName}}ちゃん」
名前を呼ばれただけなのに心臓が大きく跳ねる。少し影になった顔から落ちる眼差しが怪しく揺らめいて、大きな手がわたしにゆっくりと近づいてくる。今触れられたらダメ、おかしくなっちゃう。くらくらする頭でもそれだけは分かっていて、反射的に体が逃げようとする。でも、動かない。体に力が入らない。逃げたいはずなのに、ダイゴ先生に触れられたくて今か今かと待っている。
指が触れる。わたしの頬を、耳を、首筋を、その大きな手が撫でる。くすぐったさとは違うぞわぞわした感覚に甘ったるい息が漏れた。恥ずかしくてダイゴ先生の耳を塞ぎたいのに、今はベッドの上、そんな余裕なんてない。心も体もいっぱいで、理由の分からない涙が滲んでくる。
「誰にも言っちゃいけないよ」
少し傾けた顔から影が去って、綺麗な微笑みがわたしを見つめていた。それがあんまりにも綺麗で爽やかで眩しくて、その一瞬だけはめちゃくちゃな心と体のこともすべて忘れてダイゴ先生を見つめていた。
肌に触れるダイゴ先生の指がじわりと熱くなる。初めは指の感触だけだったのが、次第に熱も感じるようになってきて。人差し指と薬指に光る指輪が熱を吸うけれど、移される熱の方が多くてどんどんわたし達の熱が混じり合う。ダイゴ先生との境界が曖昧になる。ダイゴ先生の赤らんだ顔がとろりと甘い眼差しを落とした。
もう、ダメ。体は熱くて息が苦しくて、心臓はこれ以上ないくらい速くうるさく鼓動を刻んでる。首を撫でるダイゴ先生の手がわたしからやらしい声を引きずり出す。もう無理、わたしはぎゅっと強く瞼を閉じた。
真っ暗な世界の中、ベッドが音を立てずに沈み込むのを感じた。目を閉じていてもダイゴ先生との距離がゼロに近づくのが分かる。どうしよう、このままじゃ本当にキスしちゃう。唇に息が掛かって、頬を撫でるダイゴ先生の指がわずかに強ばった。そして、
「コッコ!」
知らない声が元気よく挨拶をした。
頬に添えられた手がびくりと震え、次の瞬間、もうくっついてしまいそうなくらい近くに感じたダイゴ先生が離れていった。わたしも声に驚いて目を開けると、少し焦った顔のダイゴ先生が、大きく目を見開いて一点を凝視している。視線はベッドの下。わたしも体を捻ってそれを見た。
「コ、コド、ラ……」
わたしの呟きに、ダイゴ先生の視線が戻ってくる。普段の余裕は消えて何だか困った顔をしてて、全然いつものかっこいいダイゴ先生じゃない。でもそれも一瞬のことで、ぱちぱちと数回瞬きをして大きく深呼吸すると、いつもの見慣れたダイゴ先生に戻っていた。
「{{kanaName}}ちゃん」
名前を呼ぶ声もその顔も、やっぱりいつも通りのダイゴ先生で。わたしはまだドキドキして、体の熱は冷めそうにないのに、ダイゴ先生はキラキラ爽やかな顔に戻ってる。わたしだけ、わたしだけがおぼれたまま。
「今日は疲れたんじゃないかな。授業もあまり集中出来てなかったし、カナズミに帰るのも時間が掛かるから、そろそろ帰った方がいいよ」
何、それ。くらくらした頭は間違いを犯さなかったことに不満を感じていた。やだ、わたしはまだ帰りたくない。
そんな風に、わたしの心はぐちゃぐちゃになっていたから何も気づいていなかった。ダイゴ先生は大人だけど、わたしより少し年上なだけ、完璧な大人なんかじゃないことに。今わたしに見せているその顔に感情がむき出しになっていることに。ダイゴ先生もわたしと同じで、約束を破りそこねて不満を感じていることに。でもわたしには何も見えてなくて、何も気づけなかった。
「ボクだってまだ帰したくないけど」
ダイゴ先生が熱い息を吐く。
「今帰さないときみを綺麗なまま帰せない。それでもいいんだね?」
声のトーンが変わっていた。いつだって微笑んでるダイゴ先生の顔に笑顔はなくて、まっすぐにわたしを見下ろしていた。冗談なんかじゃない、本気の目だった。ダイゴ先生のことは大好きなのに怖くなって体が震えた。視界も歪んでくる。怖がっちゃダメ、泣いちゃダメ。そう思ってもどうにもできない。ダイゴ先生が困った顔になってわたしの名前を呼んで「ごめんね」と涙を掬って頭を撫でた。その熱い手の平から、ダイゴ先生がたくさんのものを我慢してるのに気がついて、わたしも聞き分けの良い子どもになるしかなかった。
自分でもゴシゴシと涙を拭って、ベッドから立ち上がる。今ダイゴ先生を見たら、やっぱり帰りたくないって駄々をこねそうだったから、ずっと俯いていた。
帰り支度はあっという間に済んで、気づいたら玄関に立っていて、でもダイゴ先生が鍵を開けてくれるまでずっと俯いたままだった。がちゃり、鍵の開く音がして、視線だけそっちに向けたら名前を呼ばれて。
「今度来る時は制服とその口紅は禁止。それを守ってくれるならいつでもおいで、ちゃんとデートしよう」
ダイゴ先生はまだ眉を下げてたけどすごく優しい顔で微笑んでいた。そんな顔で、そんなこと言われたら胸がきゅっと締めつけられて、心に暖かい火が灯っちゃう。今度こそ建前も何もないデートができると思ったら、現金なわたしはその約束でいっぱいになって顔がみるみる赤くなる。
「あれ、顔が赤いけど大丈夫かい? 心配だからボクが家まで送ってあげるよ」
「だっ、大丈夫です!」
ニヤリと笑うダイゴ先生はすっかりいつものいじわるなダイゴ先生で、からかわれてヘトヘトになって本当に送られちゃう前に逃げるようにダイゴ先生の家を後にした。
終.知られたくない
玄関ドアが閉じて家の中が静かになる。直後、主人がヘナヘナと頭を抱えてしゃがみ込んだ。今日は朝からずっとこんな調子で、やっと落ち着いたと思ったらまたこれだ。
主人がノロノロと顔を上げてかつてない程睨んでくる。きっと主人の言いつけの一つ、『お客さんが来ている時は大人しくする』を守らなかったせいだ。でもそれはボールに仕舞われている仲間が、今すぐ主人に声をかけろと睨んできたからだ。だから自分だけが怒られるのは不公平だ。
「いや、ごめん……ありがとう、ココドラ」
また主人が俯いて、力なく謝ったと思ったら、急に立ち上がって頭を撫でてくれた。今日の主人はやっぱり変だ。
「今後はきみの世話にならないよう気をつけないといけないね。ああ、でも、」
頭に置かれた主人の手が重くなる。
「なかなか厳しいな」
重い手を払いのけて顔を上げると、どんなに厳しい戦局でも見たことがない程困り果てた顔が、力なく笑っていた。